<22>身に纏うはレースと絹の鎧
開戦は早朝だった。
まだ薄暗い時間帯、ノックの音で目を覚ましたシャンテナは、手櫛で髪を梳かしながら鍵を開けた。ドアの向こうから声を掛けてきたのがアリーサで、朝食よ、と明るい調子で言ったからだ。起きたままの格好で悪いな、と思いつつも、そのまま待たせておくわけにもいかない。こんな朝早くに、ということが思いつかなかったのは、きっと寝ぼけていたのだ。
ドアを開け、前日と同じように後退った。なにせ、そこにいたのは、前日よりも人数の多い、女性たちだったからだ。
女性たちはその全員が思い思いの化粧をし、動きやすいお仕着せのドレスを纏っている。昨日のミサとソフィよりも、華やかさのあるドレスだ。その上から白いエプロンをつけて、手首には針刺しが。首には巻尺がさがっている。これが彼女たちの仕事着なのだろう。
室内に、布の匂いと香水の甘い匂いが満ちる。金属の臭いのするシャンテナの作業場とはなんと大きなへだたりがあることか。しかしここが自分たちの仕事場だというような顔で、彼女たちはてきぱきと、抱えていた品物を広げだした。綺麗な色の箱から鮮やかな青い布地が、小箱から華やかなかんざしが出てきた。他にも日傘、扇子にハンカチなど、何でも出てくる。
後から入室した、別のお仕着せの女性が、テーブル上にトレイを置いて退室した。トレイの上には軽食の載った皿がある。湯気を上げるスープも。
「さあシャンテナ、すぐに食べてしまって。その間に髪を梳かしてあげるから」
有無を言わせぬ調子でアリーサに促され、シャンテナはぎくしゃくと椅子に腰を下ろした。パンを齧っていると、後ろから髪を掴まれ念入りに櫛を通される。食べにくい。
横目で女性たちの作業を見ていると、いつの間にか運び込まれたトルソに、青いドレスが掛けられていた。綺麗な色だが、自分がこれから着るのかと思うと、ピンとこなかった。
「シャンテナ、もうそのくらいにしておきなさいな。あまり食べると気分が悪くなるわよ」
まだパンの半分も食べてないのに、トレイを取り上げられた。腹半分にも至っていないと、シャンテナは恨みがましく思ったが、すぐに「いっそ食事抜きのほうがよかった」と後悔することになった。
「アリーサさん、く、るしい……っ!」
「我慢我慢。もうちょっとよ」
着ていた服をまたあっという間に剥ぎ取られたかと思えば、やたらごてごてした下着を着せられた。しかもこの下着、ひとりでは着られないのである。硬い素材の骨が入った、鎧のようなもの。ふたり掛りで着付けをし、挙句の果てに腰をこれでもかというほど締め上げられる。
何の拷問だろうか。
その上から着せられた重たい青のドレスは、まるで桎梏のように彼女を拘束した。たくさんの釦とリボンが、逃さんと食らいつく。
とどめは、爪先立ちになるほど踵の高い靴だった。これではろくに走ることもできない。足を差し入れた途端、指先が痛んだが、
「おしゃれは我慢よ」
アリーサのその一言で不平は流されてしまった。
ばたばたと鎖骨の下まで化粧を施され、髪は梳られ背に流され、耳の上に真珠をあしらった金の花の髪飾りをつけられた。
「これも外してくださいな。調和が崩れます」
着付けをしてくれた婦人が指差したのは、エヴァンスの家宝の首飾りだ。
簡素な円柱形の翡翠は、鏡に映った姿を見る限りさほど目立たなかったが、シャンテナは言われたとおりにした。胸元へしまいこむ。ついでに、いつも髪をまとめていたピンも自分のハンカチに包んで、手荷物にしまう。
代わりに首にかけられたのは、粒ぞろいの真珠の首飾りだった。こんな時でなければ、真珠の間に挟まれた金の飾りの加工をもっとしっかり観察したいのだが――。
「さて仕上げよ」
アリーサは、一晩、シャンテナが保湿のために嵌めていた手袋を脱がせ、絹の手袋を嵌めさせた。肘まである長手袋だ。
「できあがりよ! うーん、我ながらなかなかの目利きだったわね」
アリーサが、満足げに頷いた。他の女性たちも、納得の面持ちである。
促され、シャンテナは鏡を覗き込んだ。そこには、全身を見慣れないきらびやかな服飾品で覆われた自分が映っていた。
何種類かの青の生地を重ねて作られたドレスを、涼やかだが華やかにも見せるのは、袖や襟ぐりから覗く小花柄の紺色の布地の効果だろう。クリーム色のレースとつややかな生地で作ったフリルが飾り付けるスカートは、やや直線的ですとんとしている。胸の下で太い青色のリボンを結び、締め上げる形で、たしかにこれならお直しはあまり必要ないだろうと納得する。
そこにいる自分は、いつもの自分とは違う。化粧もしているし、髪型も違う。違和感ばかりが先にたって、正直、出来の良し悪しなんかわからない。どことなく恥ずかしい気分にはなった。
「よし、じゃああなた、クルトを呼んできて。シャンテナ、すぐに裏に馬車を呼ぶから、クルトと一緒に降りてきて。ああ、裾を踏まないようにね、転んで怪我したら大変だから」
「えっ、クルト帰ってきてるんですか」
「もちろんよ。さっきからずっとそわそわして待ってたんだから」
アリーサたちが出ていって、シャンテナは落ち着かない心持ちだった。
こんな格好をクルトに見られるのが恥ずかしい。似合わないだろうし。昨日、彼は、ここに宿泊している他の客との違いは服一枚だと言ったが、やはり違うのではないか。だってドレスを着たところで、しっくりこなくて、とてもここにふさわしいようには思えないのだ。
だが、彼女の内心の葛藤なんて知る由もないクルトは、今日も呑気な声音でドアの向こうからうかがいをたてるのだった。
「シャンテナさん、おはようございます。入ってもいいですか」
「だめ」
「え? 大丈夫ですか? なにかありましたか」
「だめって言ったのになんで入ってくるの!?」
「いや、だって、それは……」
入室するなりシャンテナの剣幕に負けて踵を返そうとしたクルトは、途中で立ち止まった。目を見開いて。次にその顔は満面の笑みになる。
「わあっ、シャンテナさん綺麗ですよ! すごく似合ってます!」
「……あんまりそうとは思えないけどっ」
結局、入ってくるし。クルトの反応に、いたたまれなくて逃げ出したい気持ちになりながら、シャンテナはそっぽを向いた。逃げ出したくても、高い靴を履いた足がろくに動かない。スカートも邪魔だ。
「似合ってますよ、本当に。キナさんのところで、ワンピース着ていたときも可愛かったですけれど、今回のはすごく綺麗ですよ! さすが、ねえさん。任せてよかった」
顔が熱い。なぜこの男は恥ずかしげもなく、そんなことを言えるのか。お世辞だってろくに言えそうにないくせに。いや、その考えでいくと、これがお世辞ではないということになってしまう。よけいに頬のあたりが、かっと熱くなってしまった。自爆である。
「どこから見ても、綺麗ですよ! あー嬉しいなー!」
何が嬉しいのか分からないが、クルトは上機嫌で歩み寄り、シャンテナに手を差し伸べた。彼も今朝はしばらくぶりの軍服姿で、なんだか見慣れない。
「はい」
「何?」
「掴まってください。こういうの、役得って言うんですよね」
意味がわからないが、手助けがなければ歩く事もまともにできない。
ためらいながらも掴んだ手は、やはりしっかりと自分を支えてくれる。安心するのに、とても落ち着かない。
× × × × ×
縋るようにしてクルトの手を掴んで、昨日も通ったホールの階段を、ゆっくり下る。足が痛い。彼が急かしたりせず、ちゃんと待ってくれるのだけが救いだ。
天井から伸びた豪華なシャンデリアを、視界の隅に捉えながらシャンテナは思う。今だったら、自分たちはこの場にふさわしいように見えるのだろうか、と。もしこの姿を、他の客が見たら、どう思うのだろう。
廊下を抜け、裏口から出ると、アリーサとハイラントが見送りに出ていてくれた。すぐそこに黒塗りの馬車が待っている。
「シャンテナ、いい報告を待ってるわ」
「行ってらっしゃいませ」
アリーサに肩を叩かれ、ハイラントには深々と頭を下げられ、送り出された。
なんとか乗り込み、一息つくと、馬車が走り出した。窓にはレースのカーテンがかけられ、外はあまりよく見えない。外からもきっと同じだろう。
「さて、それでは行きましょう。――王宮へ」
正面の席に座ったクルトが、励ますように強い調子で言った。どうしてだろう。いつもの薄汚れた旅装ではないからか、頼もしく見えるのは。
「ええ」
シャンテナも気合を入れるために、顎を引いた。
しかし、一区画も進まぬうちに、
「なんか、気分悪い。息苦しい」
下着で締め上げられているせいか馬車の揺れのせいか、シャンテナは軽い吐き気を催していた。
顔色の悪い彼女を見て、クルトが慌てる。
「ちょ、しっかりしてくださいよシャンテナさん!」
「さすらないで、吐く……!」
「うわ、じゃあ扇ぎます!」
ハンカチでぱたぱた扇がれながら、彼女は馬車の窓のカーテンの隙間から見つめていた。
真っ青な空に、存在を誇示するように聳え立つ、王城を。




