<21>巡り合わせと笑顔の関係
ミサとソフィが一礼して出ていき、ようやくシャンテナは解放された。意図せず、深い息がもれる。脱力感にそのままベッドに転がりたいくらいだったが、あいにく、まだアリーサが残っている。彼女は壁際に設置された衣装箪笥の中をゴソゴソやっていたかと思えば、木製の取っ手付きの箱を持ってきて、ベッドの端に所在なげに座るシャンテナの隣に腰をおろした。
彼女の開けた箱の中には、ブラシやピンなどが収められていた。アリーサはブラシを手に取ると、シャンテナの髪を丁寧に梳きはじめた。さきほどミサが手入れしてくれたのだが、さらに艶出ししたいのだろうか。
「明日の朝一番で、お直しの済んだドレスが届くわ。楽しみね」
「はあ……」
あのあと、お風呂に押し込められたシャンテナは下着まで引っ剥がされ、頭の天辺から爪の先まで磨き上げられた。親にすら、十年近く自分の裸を見せたことがなかったのに、ミサとソフィにはもはや見られていないところはないほど、全身をくまなく洗われ、美容液と香油をすりこまれ、足の小指の爪まで研磨された。乾燥しがちな手を保湿するから、寝るときも外さないようにと厳命された手袋の中は、美容液を塗り込まれてしっとりている。
そして新しい下着を着せられて、部屋に連れ出されたと思ったら、髪を拭かれながらの採寸になった。ドレスは、一晩で一から作れるわけないので、予め用意されていたものを少し直すらしい。髪飾りや靴はその場で決定し、壁際の衣装箪笥に収められている。途中までは、その高価そうな品に触れることに緊張していたシャンテナも、いつしか疲れに負けてどうにでもしてくれとされるがままになっていた。
今は、簡素な部屋着を与えられ、それを身に着けている。
「疲れちゃった? でも、ラーバンの女の子の間では、ああやって、美容専門の人に手入れしてもらうのが流行っているのよ。結婚式の前なんか、二日おきに一月近く通う子だっているのよ」
そこまでの情熱、持ち合わせていない。シャンテナはうんざりしていたが、あまり表に出さないよう気を付けることにした。望んでいないことではあったが、良くしてもらっているのは確かなのだ、と。
「アリーサさんもご結婚のときに、ああいうのやったんですか」
「いえ。私は独身だもの。……ああ、食事が届いたわ。一緒に食べましょう」
入室うかがいのノックに返事をし、アリーサはさっさとドアに向かっていく。鍵を開ける彼女の背を、シャンテナはじっと見つめた。
アリーサは結婚していないのか。それでこの宿の主人だというのが驚きだった。女性で商売をやっている人は少ない。夫の手伝いをする人は多いだろうが、主体になってという人はほとんどいないはずだ。それに、結婚しない人も女性はあまり多くない。先の理由で、ひとりで食いつなぐのが難しいからというのと、慣習的なものがあるからだ。
従業員が運んできてくれた料理をテーブルに並べ、ふたりは向かい合って椅子に腰をおろした。
「召し上がって。結構評判いいのよ、うちの料理人」
そうだろう。見た目も香りもとても食欲をそそる料理だ。シャンテナは、ちょっと考えた後、ナイフとフォークを手にした。失せていた食欲がにわかに復活したから。
分厚く焼かれた肉の上には、ソースの他に酸味のあるクリームが乗り、ハーブが散らされている。付け合せのサラダには、細かく切った果物が和えられていて、甘酸っぱくて不思議な味わいだった。どれも美味しい。そして食べたことのない料理ばかりだ。
高価そうな食器を割ってしまったら全部クルトのせいにしてやろうと、八つ当たりじみたことを考えながら、シャンテナは肉を噛み締めた。じゅわっと溢れる肉汁で、幸せな気分になる。
無言で食べすすめていくと、アリーサは果実酒をシャンテナの杯にも注いでくれた。
「ねえシャンテナ。道中、クルトはどうだった? ちゃんと仕事していた?」
「ええ、それはもちろん」
「よかった。あの子、抜けてるから、いつも気になっているのよ。王太子様のご命令にちゃんと従えてるのかしらとか。今回も、王太子様からあなたの話をお聞きして、心配していたのよ」
「アリーサさんは、私のこと、その、どこまで?」
「おそらく、すべてかしら。あなたの秘密のお仕事についても、うかがっているわ。こう見えて、王太子殿下とは長い付き合いなのよ。だから、気を遣わないで」
むしろ、かえって気を遣ったほうがいいような気もする。
ただ自分の事情もわかってくれているのだとすれば、安心はした。
「あと、もしなにかわからないことがあったら聞いて。クルトのことだから、きっと説明不足だったりすると思うのよね」
さすが姉弟、よくわかっている。
シャンテナは口中の甘く煮られた人参を飲み込んで、思いついたことを聞いてみた。
「この宿は、おひとりで興されたんですか?」
問うたあと、失礼な聞き方になってしまったかと、不安になった。だが、聞かれ慣れているのだろう、アリーサはふっと唇を笑みの形にしただけで、嫌そうな顔はしなかった。むしろ、誇らしげである。
「そうよ。実家の商売を手伝って、お金を貯めて、私が自分の力ではじめたの。だからここは、私のお城」
「すごい……」
つい、本音が漏れてしまった。気恥ずかしくなって、シャンテナは皿に盛られたブドウを口に運んだ。みずみずしく、加糖したのかと思うほど甘い。
「そう言ってくれるのは、あなたみたいに、女ひとりで商売することの大変さを知ってる人だけね。あなたはもっと大変なんじゃないの? 若いし」
アリーサは苦笑して、果実酒を煽った。
「私もね、大変だった。長子なのよ、私。クルト以外に弟がふたりいて、家は上の弟が継いだけれど、だからってお役御免ってわけじゃない。どこかに良縁を見付けて、家業の発展に貢献させるつもりでいたんでしょうね、両親は。でも私は、ずっとこの商売を自分でやりたかった。結果、勘当されちゃった。それでも、念願かなってここを建てて、なんとかやりくりして。商売が軌道に乗ったら、今度はこの財産が欲しい怠惰な男たちから求婚されて、断り続けたら次は妨害されて。お陰様で、しっかり行き遅れよ。そしたらそれで陰口叩かれて、嫌になっちゃう。ほんと、やりづらい世の中よ」
彼女の言うことは、少しだけ理解できた。メルソでは、顔見知りの商人や職人たちが多くいるので、あまりないが、稀に外から来た商人と交渉すると、間違いなく足元を見られる。それ以外でも、若いから、女だからと「それが自分の仕事と何の関係が」と問いたくなるような理由で、安く買い叩こうとする連中に当たったこともある。
「でもね、今年のはじめ、父がようやく、態度を軟化させてくれてね。数年ぶりに、新年の挨拶代わりに、手紙をくれたわ。笑っちゃうわよね、歩いていける距離に住んでいるのに、手紙なんて。それを持ってきてくれたのは、クルトよ。あの子だけは、私が家を出てからもこっそり会いに来てくれて、励ましてくれたのよ。どうやら、ずっと、父に私のことを考え直すように説得してくれていたみたい。手紙にはね、『クルトに言われるから仕方なく』って書いてあったわ」
文面を思い出したらしく、アリーサはくすくすと笑った。
「優しい子なのよ、あの子。ただね、本当にうっかり屋というか、気が利かないところも多くてね。父が言ってた私の悪口を、私の前で口を滑らして暴露するとかね」
「あー……、わかります」
同意して、シャンテナは肩を落とした。その瞬間のクルトの慌てふためく姿が、脳裏に浮かぶ。
「そんなでも、クルトは、私の大事な弟なの。シャンテナは、あの子がうちに来た経緯を知ってる?」
「ええ、うかがってます。本人から聞きました」
「そうなんだ。じゃあ、あの子がひどい目に遭ったことも知ってるのね」
シャンテナは無言でうなずいた。
「うちに来た時、あの子はもうぼろぼろでね。怪我も酷かったけれど、それだけじゃなくて。表情が一切無くて、とてもあんなふうに生き生きと、殿下のために尽力したり、家族のために駆け回ったりできるようになるとは思わなかった。言葉も話さなかったのよ。笑ってくれるようになるまでは、三年くらいかかったかしら。初めてあの子が笑った時、家族で手を取り合って喜んだものよ」
懐かしそうに、アリーサは目を細めた。彼女と彼女の家族は、どれだけクルトに心を砕いて接してきたのだろう。その慈愛に満ちた目を見るだけで、それが推し量れそうだ。
「その子がこうして成長して、王太子殿下のため働いてるんだと思うと、とっても感慨深いのよね。殿下の大事なお客人を護衛、なんて。ふふ、そこまで年齢は離れてないけど、ちょっと母親の気分。子供がいないからそんなこと思うのかしらね」
× × × × ×
食後、アリーサは部屋を出ていき、シャンテナはついにひとりになった。そっとカーテンをめくり、外を見る。すっかり月と星が空を支配している。それでもまだラーバンの夜景は明るく、あちこちの建物に明かりが灯っていた。
カーテンを閉じ、ベッドに寝転んだ。ラーバンに到着してからのわずかな時間で得た情報が多すぎて、疲れているのにそわそわもする。料理が美味しくて食べ過ぎたため、膨満感もある。すぐには眠れないだろう。
ここは、刺激的な街だ。見たこともない景色もそうだが、アリーサの生き様は衝撃的だった。
――自分も、覚悟を持てば、ひとりで家業を盛り上げられるのではないだろうか。
一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、すぐに否定する。技術の継承を考えると、やはり直系の子孫が必要なのだ。魔力は血筋によって質が変わるから。不意になぜかクルトの顔が頭に浮かんだが、きっとそれは、以前のあの気まずいやり取りがあったからだろう。
彼はもう王太子に報告を終えただろうかと思う。それなりに時間は経ったが、あちらからは何の連絡もないので知るすべがない。一仕事終え、安堵の息をついているころだろうか。
王太子の前に跪き、報告しているクルトの姿を思い浮かべた。どこか誇らしげな笑顔の。
アリーサたちがクルトを手厚く世話してくれたから、自分はこうして彼に助けられラーバンまで来られた。それがなければ、きっとクルトの笑顔なんて想像もできなかった――もしかすると関わり合いになることすらなかったかもしれない。
シャンテナは、ほっとしたような気分で、横向きになり目をつぶった。




