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<20>女主人の微笑

 裏口らしき、庭木の間にある飾り気のないドアから入ったのに、出迎えがあった。白い髪を後ろになでつけた、老紳士だ。彼はぴしりと背筋を伸ばし、落ち着き払った態度で一礼する。

 

主人(オーナー)が、お待ちしております。お嬢様、お荷物をお預かりします」


 その言葉が終わるやいなや、待ち構えていた別の若い男性の従業員が、シャンテナに向かって手を差し出した。うやうやしく、やや前傾姿勢になって。濃緑のお仕着せではあるが、明らかに彼のほうがきちんとした身なりをしているのに、あくまで低姿勢だ。シャンテナは戸惑いながら、彼に自分の荷物を任せる。

 老紳士の後ろについて、ふたりは建物の中を進んだ。従業員用の通路かと思ったが、そうではないらしい。白い壁に白い床と簡素ながら、要所要所に彩色鮮やかな花瓶が置かれ、その中にはいきいきした花が計算づくの配置で活けられている。

 

「ハイラント、久しぶり。元気そうでよかったよ」

「クルト様こそ。半年ぶりでございますね」


 様。なんと似合わない。思わず自分の耳を疑ってしまった。小さく眉をひそめたシャンテナを、一度軽く振り返り、老紳士――ハイラントというらしい――は問う。


「お嬢様、クルト様からこの『碧玉兎(へきぎょくと)亭』のご説明を?」

「いえ、まったく」


 完全に事態についていけていないのは、彼の説明不足のせいだ。そんな非難を込めての言葉に、少し前を行くクルトがバツが悪そうに首を(すく)めた。

 

「でしたら、わたくしからご説明を。よろしいでしょうか。……こちらは、七年ほど前に開業しました宿泊施設でございまして、ご静養、観光目的でラーバンに訪れるあらゆる地域のお客様からご愛顧頂いております。王族の方々もご宿泊いただくこともあるのですよ。部屋数は七十九部屋、基本は三階建ての一部四階建てでございます。一階にはホールと談話室がございまして、二階からがご宿泊いただけるお部屋、三階より上のお部屋には、個別の浴室もございます。食事等はご要望にお答えして、料理人がご用意させていただきます。また、ご希望がございましたら、マッサージや旅券の代理購入なども承っております」

 

 老人が言葉を区切り、一枚のドアの前で足を止めた。

 はめ殺し窓が付いているが、色ガラスで中の様子はうかがえない。彼がノックすると、「はい」と短い返事がすぐにあった。女の人の声だ。

 

「お客様がお見えです」

「通して」


 指示に従い、老人はドアを開けはしたが、中に踏み込むことはなかった。ドアの横に立ち、小さく一礼する。そして、ふたりが部屋に入ると、もう一度礼をし、そっとドアを閉めた。

 室内には応接セットが並び、奥には大きな机があった。明かりが灯っている。

 おそらく、主人(オーナー)の部屋なのだろう。壁に並んだ冊子の背表紙や、雰囲気でシャンテナはそう想像した。

 奥のソファの前に女性が立っていた。仕立てはしっかりしているが、機能性がありそうな、膨らんでいないスカートを身に着けている。金色の髪はきちっと結い上げ、精緻(せいち)な細工を施された金の髪飾りをつけていた。年齢は三十代半ばくらいだろうか。彼女は、その青い目に親しげな色を浮かべ、相好を崩した。クルトの肩を気軽にに叩く。その仕草には、慈愛も含まれていた。

 

「ひさしぶりね、クルト。元気そうでよかったわ。そちらが噂に聞くお嬢さんかしら」

「ねえさんこそ、ますます……」

「堅苦しい挨拶は置いておいて。ねえ、紹介してよ」 


 女性はますます笑みを深くして、シャンテナに顔を向けた。クルトは苦笑する。彼女のこの調子には慣れているようだ。


「シャンテナさん、彼女は俺の養父母の長女の、アリーサ。この『碧玉兎亭』の主人(オーナー)です。ねえさん、王太子殿下からは聞いてると思うけれど、メルソで彫金師をしているシャンテナさんだよ」

「はじめまして、シャンテナ。私のことは気軽にアリーサ、もしくはおねえさまと呼んで」


 差し出された手を握り返す。存外に握力の強い人だ。

 

 クルトがどうしてこの宿で顔が利くのか理由はわかったが、新しい疑問が湧いてきた。彼の家はたしか商家と言っていたが、この姉が宿を経営しているのは、彼女の夫が実業家でその夫人だからということなのだろうか。


「ところで、クルト。あなたこれからどうするの? 殿下にご報告にあがるの? それともゆっくりしていく? 食事も部屋も用意できるけれど」

「報告に行くから、俺のことは気にしないで。ただ、シャンテナさんのこと、お願いしてもいいかな。明日、登城だから、支度を手伝ってほしい。というか、俺がいても手伝えないから」

「そうね」


 ずばっと言い切られ、クルトが情けない顔をした。

 

「シャンテナ。ここまで来るのは大変だったでしょう? クルトはあまり気遣いのできる人間でもないし、あなたにいろいろ不便をかけたと思うけれど、もう大丈夫よ。今晩はしっかりここで休んで、明日の大一番に備えましょう。安全面ならご心配なく。王宮並とはいかなくとも、その辺の貴族のお屋敷と同じくらいの安全はあるはずよ。今晩はぐっすり安眠してね。クルト、案内してあげて。私はあとで手伝いに行くから」


 アリーサは、にっこり笑った。

 

× × × × ×


 ホールの吹き抜けの奥にまわされた緩やかな階段は、表の一般客用の階段とは交わらない作りのようだ。足元に配置された明かりと、ホールの明かりの関係で、そこを通る人間の顔は見えないようになっている。


 ホールの様子を見下ろしながら、シャンテナはほう、とため息をついた。


 高い天井からは、宝石のようにきらめくシャンデリアがぶらさがり、やわらかな光を床めがけて投げかけている。タイルを組み合わせできた美しい幾何学模様の上に、暗紅色の猫脚を持つ揃いの意匠のソファやテーブルが設置してあり、テーブルにはそれぞれまったく種類の違う花が飾られているのだ。花は当然のように生の花で、これはテーブルに限らず、ホールのあちこちにそっと飾られていた。人形のように正しい姿勢で待つ男性のいる受付のカウンターの上だとか、緩やかな作りで絨毯が敷かれた階段の途中だとか。

 数人の客らしき人たちが、階段の手前で談笑しているが、全員、そんなものを着ては家事も仕事もできまいというような、高級そうで機能性の低そうな服装をしている。

 その横のドアの向こうには、食事もできる談話室があるらしい。ドアの前には、案内係の男性が、やはりぴしりと背筋を伸ばし、微動だにせず立っている。


 ここは別世界だ。

 正直かなり居心地が悪い。

 

 慣れた様子で、案内もなく前を行くクルトに声をかけた。

 

「この宿、あなたもよく来るの?」

「いや、まあ、顔をだすことはありますが、そんなに頻繁じゃないかな。宿泊は二度ほど、殿下の護衛でしたことがあるんですが、お客としてという感じじゃなかったですね。……気に入りませんか。渋い顔してますよシャンテナさん」

「だって明らかに場違いだもの、私」


 私たち、と複数形にしなかったのは、クルトは服装こそ今はここに相応しくないが、それさえ改めてしまえば、態度も落ち着いているし、きっとそれなりに見えるだろうと思ったからだ。

 卑下するつもりはないにせよ、ここまで住む世界の違いを見せつけられれば、自分が宿の格にあってないことは十分わかる。

 

「そんなことないですよ。ほら、俺たち旅で薄汚れてるからそう思うだけで、服一枚の違いだと思いますよ」


 その服一枚の越えられない壁があるように思えるのだが、それ以上言うと、なんだか卑屈になりそうで、シャンテナは口をつぐんだ。

 

× × × × ×


 これで安眠できるのだろうか。

 通された部屋の真ん中で、シャンテナは途方にくれていた。

 濃緑を基調にした室内の装飾は、品よくまとまった印象だが、そのどれもが高級品であることは間違いない。部屋はただひたすらに広く、シャンテナの家一軒まるごと収まってさらに余りあるほどだ。ここより少し小さな部屋が続きであり、さらに、奥には専用の浴室がある。最上階まるまるがこの部屋なのである。

 

「ここは、王太子殿下がお立ち寄りになるときに、滞在なさる特別室なんですよ。殿下から、シャンテナさんにはここに泊まってもらうようにと指示があったんです。ほら、窓も格子がかかってるので、外から入るのは無理ですし、そもそも警備がいるので外壁をよじ登るのも困難です。これなら、安心できるでしょう?」


 クルトはずかずかと、毛足の長い絨毯を踏み荒らしながら窓際に歩み寄った。靴の泥は拭ってあるが、それでもシャンテナはぎくっとした。細工用に大枚はたいて購入したダイヤを、砕く前のように緊張している。窓際のチェストの上にちょんと置かれた自分の荷物のなんとみすぼらしいことか。自分とクルトの汚れた旅装が、明らかに部屋にあっていない。

 

「こんな部屋に泊まるなんて無理。なにか壊したら、一生かかっても弁償できない気がする」

「そんな大げさな。大丈夫ですよ、昔、俺もツボ何個か割りましたが、ねえさんにひっぱたかれて済みましたから」

「ああ、やってそう……。でもそれは親族だからでしょう。それにひっぱたかれるのもいやだ」

「そうは言いましても。この部屋以外に、シャンテナさんを預ける場所がないんですよ」


 それを持ち出されると、何も言い返せない。言葉に詰まったシャンテナは、恨めしげにクルトを睨んだ。彼は大げさに、両手を上げて降参を表明する。


「まあまあ、そんな心配なさらなくてもいいんですよ。普通にしていてください、普通に」

「ちょっとどこ行くの」


 話しながら、いそいそ部屋を出ていこうとするクルトを呼び止めた。こんなところにひとり置いていかれてはたまらない。

 

「城にです。直接報告に行って、次の指示を仰ぎます。シャンテナさんは明日の用意をして、休んでてくださいね。あとで姉がいろいろ手伝ってくれると思いますから、心配しないでいいですよ」

 

 彼に自信たっぷりに言われると、無性に不安になった。

 

「それじゃあ、おやすみなさい」

「ねえ、待って」


 時間が押しているのか、気が急いているのか、クルトは振り返りもせずに部屋を出ていった。閉まったドアを見て、シャンテナは深々とため息をついた。

 

 仕方なく、部屋の隅に並べてあった椅子に、ちょこんと腰を下ろす。

 もちろん、落ち着かない。

 部屋に案内される前に受けた簡単な説明によれば、アリーサが建てたこの宿屋には、王族の中でも王太子がよく訪れるのだという。お忍びで、様々な用事を済ませるため。特に多いのは、密会だとか。そのため、表の一般客が通る階段や通路とは別に、専用のこの部屋へ続く通路があり、今回シャンテナはそこを通ってこの部屋に案内された。

 

 この宿に到着する前は、夕食は何にしようとか考えていたのに、今や食欲は一欠片もない。

 

 さほど待たずにドアがノックされた。

 

「シャンテナ。私よ、アリーサ。着替えやお湯を持ってきたから、ドアを開けてちょうだい」


 鍵は三重構造の頑丈なものだ。シャンテナはクルトがやっていたのを思い出しながら、苦労して解錠した。外には、アリーサと、女性の従業員がふたり、男性の従業員が三人待ち構えていた。思わぬ大所帯に、ぎくっとして後ずさる。みな、手に思い思いの品を持っていて、シャンテナが退くと一礼とともに入室し、てきぱきと仕事を始めた。

 女性たちはベッドの上に色とりどりの布をひろげ、裁縫道具をひろげ、繊細な作りのガラス瓶を並べた金属の箱を置く。靴や帽子の入っている紙箱もあった。男性たちは全員、湯気を上げる桶を肩に担いでいて、奥の浴室にすたすた向かっていった。

 

 あっけにとられているシャンテナに、アリーサが腰に手を当て言う。顎を指で撫でながら。

 

「そうね。綺麗な黒い髪に黒い目。肌の色は白いし、大抵の色は似合うでしょう。あなたおいくつなの?」

「十七です」

「大人っぽい顔だちね。可愛らしいものより、すっきりしたもののほうが似合うわねきっと。でも少女らしい感じも残したい」

「あの……一体なんの話ですか?」

「なにって。あなたが明日着ていくドレスに決まってるじゃない」


 おどけて両眉を上げたアリーサの前で、シャンテナは硬直した。ドレス。今アリーサはドレスと言わなかったか。

 

「あら、そんな驚かないで。当然でしょう、王宮に行くのよ」


 言われてみればそうだが、これまでちっともそんなことを思いつきもしなかったところから、自分がどれだけそういう華やかな世界と縁遠いのかを思い知らされる。

 

 浴室から顔をだした男性従業員がアリーサに向けて声をかけた。

 

「主人、お湯の用意できました」

「ありがとう。あなたたちはもういいわ。ミサとソフィ、よろしく」


 頷き袖をまくったのは、布類――今見ればそれが、ドレスの下に着るものだったり羽織るものだったりするのがわかる――を持ってきた女性たちふたりだ。

 

「お嬢様。まずは身を清めましょう。大丈夫ご心配なく、我々は専門職(プロ)ですから」


 年かさのほうの女性ににこーっと微笑まれ、背中を押され、シャンテナは身を固くした。

 

「あ、あの、ちょっと」


 彼女たちは、シャンテナの了解を待たずに、服に手をかけてくる。身ぐるみを剥がされながら、シャンテナはもがいたが、あっという間に下着姿にされた。その手際の良さにぞっとする。助けを求めようにも、薄情なクルトはもういないし、アリーサに至ってはこの司令塔なのである。

 

「さあシャンテナ。楽しいおしゃれの時間よ。肌荒れなんかないくらい、ぴかぴかにしてあげる」


 シャンテナは震え上がった。

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