<18>満天星
もうじき、次の街である。リトールというそこは、首都ラーバン手前、最後の経由地にあたる。さすが、首都に近いだけあって、大きな街らしい。リトールに近づくにつれ、街道は舗装もよくなり、道幅も太くなっていった。
しかし、ある地点から通行人がぐっと減り、どうしたことかとシャンテナは訝しんでいた。普通は道幅に比例し人通りも増えるのでは、と。
その理由がわかったのは、リトールへの道を横断している川の、少し手前の地点でだった。すでに夕刻、もうじき街の外門が閉まり、街道からの出入りは禁じられる。
川にかかる唯一の跳ね橋の滑車が壊れ、架橋できなくなっており、通行人たちは別の迂回路を行くしかない。クルトがその情報を掴んできたころには、日没前に前の街に戻れる時間を過ぎていた。
× × × × ×
ふたりは、野宿に良さそうな木の下にマルクリルをつなぎ、荷物を置いた。川もほど近く、しかし街道からは少し離れ、人目を避けた場所だ。
「ごめんなさいっ、まさかこんなことになってるとは」
「別に……仕方ないし。いいわよ、野宿でも」
恐縮しきるクルトの前で、シャンテナは肩をすくめた。
やってしまったという気持ちが前面に出た表情で、クルトはしょんぼり野営の準備を始める。
彼の手伝いをしながら、シャンテナはふうっと息をついた。
これまで、町の宿泊施設に泊まることしかしてこなかったので、完全な野宿は初めてだ。宿屋がないようなちいさな村ならともかく、まさか、こんな首都の近く、国で一番に栄えている都会の眼の前で、野宿になろうとは。
――いや、野宿はちょっと気後れする部分もあるが、いいところもある。宿屋の宿泊名簿に記名するとき、いちいち、クルトの妻のふりをしなくていいところだ。
キナに、兄妹には絶対見えないと指摘されたことをふたりで話し合った結果、対策として、夫婦ものを装うことにしたのだ。
抵抗は、大いにあった。あの、後味の悪いけんか――シャンテナはけんかだと思っているが、クルトが果たしてそう思っているかは知らない――のあとなのである。なんで自分が、クルトなんかの妻のふりをしなければならないのかという思いがある。
だが、クルトごときの言動に振り回されて怒ったり、気まずく思ったりする必要はないと思い直し、ここ数日は乗り切ってきたのだ。
そうだ。クルトごとき。クルトなんか。こんな無神経で頭の悪そうな男に、一喜一憂させられる筋合いはない。そう思ったからこそ、あのあとすぐに、シャンテナは気分を落ち着け、クルトと今までどおり接するようにした。クルトはなぜかおどおどしていたが。
「本当に、すみません。もうちょっとこまめに情報集めに行くんでした」
「済んだことよ」
「でも、野宿なんて」
「いいってば」
そっけなく言うシャンテナに、クルトはなにか言おうとして、唇を閉じ合わせた。それ以降は黙々と作業を続ける。
態度はともかく、シャンテナには、クルトを責めるつもりはなかった。彼が自分を護衛しながら情報を集めるのは、難儀だと承知している。酒場や小料理屋で話を聞くのが手っ取り早いのだろうが、ふたりでそんなところにのこのこ行くわけにもいかないし、シャンテナだけ宿の置いていくのも危険だ。だから、クルトは移動中、休憩している他の旅人や行商人を捕まえ、世間話をするようにして情報を得たり、王太子派とわかっている人物のところへわざわざ寄ったりしていたのだ。
石と土で作った小さなかまどに、火をいれる。その作業をクルトがしている間、シャンテナは目と鼻の先の距離にある川で水を汲んだ。水筒と、クルトが携帯していた小さな鍋を使う。
お湯を沸かしている間に、クルトが干し肉や硬くなったパンを切り分け、シャンテナは、リンゴの皮をナイフで剥いた。前の街を出立する前、お店で二つ買ったのだ。もう一つは今日の昼に、移動しながらわけあって食べた。きれいに皮を剥いたそれを、色が変わる前に、と差し出した。
「はい。あなたリンゴ好きでしょ。大きいほうあげる」
「え、いいんですか? ありがとうございます」
たかがリンゴひとつなのに、彼は嬉しそうだった。もしかすると、今晩の食事は、クルトには足りないのではないだろうかと思っての配慮だった。お腹が減りすぎてつらい気持ちは、シャンテナも知っている。
はっと思いついたような顔になって、クルトが自分の荷物から袋を取り出した。
「シャンテナさん、乾燥イチジクいかがですか」
「いえ、結構よ」
「……そうですか」
断ると、クルトは残念そうな顔をした。のろのろ、袋をしまう。その彼の様子を見て、シャンテナは苛立った。同時に、なんだか悪いことをしたような気分になる。
このところ、――正確に言うなら、あのけんかがあってから――クルトとどうも噛み合わない。いや、元々噛み合ってなかったがとくに、だ。お互いどこか気まずいまま。
シャンテナは、些細なことで苛々してしまう自分に気づいていた。今もそうだ。変に気を遣われている気がする。前と同じように接しているつもりなのに、変なところで敏感なのか、クルトはぎこちない気遣いをみせるのだ。きっと内心のごちゃつきを、見透かされているのだろう。そう思うともっと苛々する。
悪循環だ。疲れるだけだし、本当はなんとかしたい。でも、悪いのは、自分がこんなふうにイラつく原因を作ったのは彼のほうだと思うと、さらにもやもやして、そっけなくなってしまう。
「シャンテナさん、明日は開門と同時にリトールに入って、すぐにそのまま出発しましょう。夕方にはラーバンに着けます」
クルトは炙った肉をシャンテナの器に置く。
どきりと、シャンテナの心臓が跳ねた。
ラーバン。毎晩、予定を確認しながら、到着する日を指折り数えていた。もうじきだと意識していたが、明日と言われると緊張する。同時に興奮もした。ようやく、到着するのだ、半月以上の旅を経て。工具を取り戻せるかもしれないし、フラスメンに一矢報いることができるかもしれない。
小さく、手が震えた。
それに気づいたらしいクルトが、問うた。
「不安ですか?」
不安は、なくはない。シャンテナは目を伏せた。
「多少は。また直前に野宿になったりしないわよね」
つい、そんな皮肉が口を突いて出た。クルトは、頬を掻いて弱ったように笑う。そうはならないように努力します、と言って。
お湯が沸き、トーロからもらった薬草を煮出した。疲労回復の効果があるという。体が温まるらしいので、野宿にはぴったりだ。クルトの器にもそれを淹れてやって、自分もすする。おなじみの、苦味のある、美味しいと言い切れない甘みが口内に広がった。
いつの間にか日が完全に落ち、辺りは暗くなっていた。星が綺麗だ。宝石商が、濃紺の毛氈の上でクズ石をより分けている様子を彷彿とさせる。
今日が晴れでよかった。もし雨だったら、絶対に野宿なんてごめんである。
食後の片付けを終えても、クルトはゆっくりせず、かまどの火で照らした地図をじっと睨んでいた。夜風に、彼の髪がさわさわ揺れている。火の色のせいでか、いつもより赤く見えた。地図を指で辿って確認するのは、責任感か、シャンテナの嫌味を馬鹿正直に取り合っているのだろうか。
その横顔を見ながら、シャンテナは旅路を振り返った。長かったような短かったような。よく、無事でここまで来られたなという感想がでてくる。まだあと一日あるし、無事ではなかった、そしてそのときどき助けてくれたのが隣の男なのだが。
もう一度ちらっとクルトを見ると、真剣な表情。こうしていると、中身があんな気の回らない男だとは思えない。
――ああまた、そんなこと考えて。
自分のどうにも攻撃的な考えに気づいて、シャンテナは苛立った。自分に対して。ついでに、恥ずかしくもなる。これが、甘えなのだとわからない歳じゃない。クルトが反論しないことをいいことに、彼に守られている立場でなにを。
口からくしゃみが飛び出した。じわじわ冷たくなってきた夜風が、襟や袖の隙間から入り込んでくる。腕をさすって耐えようとしていたら、ふわりと肩に重みが加わった。
クルトが、外套を掛けてくれたのだ。
「風邪引いちゃうといけないので、羽織っててください。あんまりきれいじゃなくて申し訳ないですが」
自分の着ていた一番分厚いものを貸してくれるらしい。にわかに体が暖かくなって、ほっと息をついたシャンテナは、すぐにはたとあることに気付く。
「クルトはどうするのよ」
「俺はもう一枚、ちょっと薄いのあるのでそれでだいじょう……えくしっ」
「つくづく、締まらないよね、あなた」
「すみません……」
人の心配をするよりまず自分のことを考えるべきである。呆れてしまう。
――またこの男は。いつもいつも変に気を遣って、空回って。八つ当たりされても変わりなく。
予備の薄っぺらいものを羽織ろうとごそごそする彼に、外套を突き返そうかと考えた。しかし、それはやめた。
「はい」
クルトに借りた外套の前を広げて見せると、彼は硬直した。信じられないものに遭遇したような顔で、まじまじと見返してくる。
失敗したか。こんな、ガラでもないこと、すべきじゃなかった。後悔がわいてくるも、すぐに自分の行動を否定するのもなんだか妙に意識しているようで気恥ずかしい。にこりと笑う、などという相手の警戒心を解く方法は思いつかなかった。妙に落ち着かなくて。乗馬中はもっと密着しているのに、なんでこんなに緊張するのか。
にらみ合いのような膠着状態は、恐る恐る体を動かしたクルトによって破られた。大きな体を必死に小さくして、外套の内側に収まる。そうやっても、流石にふたりには手狭で、肩と腕が触れ合った。
熱いものが間近にあるように、互いに体を強張らせていたのは少しの間。同じ体勢でいるのに疲れたシャンテナが、姿勢を崩して遠慮なくクルトに寄りかかると、彼も諦めたように――許しを得たように――少し体重をかけてきた。
その重みに、なんだかほっとした。あるいは、この距離感に、自分から踏み出せたことに。
クルトはまだ、ちょっと緊張しているのか、そわそわ自分の靴の金具をいじったり、首の後を撫でたりしている。
「ありがとう」
「え? あ、ああすみません、格好つけようとしたんですけど、結局こんな手狭に」
「ここまで連れてきてくれて。いろいろ助けてくれて」
よし、言ってやった。シャンテナは満足感で深く息を吐く。
あっけにとられたようにまばたきを繰り返していたクルトは、ややあって、くしゃっと笑った。
「どういたしまして」
本当は、ごめんねとも言いたかったのだが、それはあのときのクルトの失言と相殺だろう。いつか、落ち着いたとき――冗談交じりになじれるくらい、ときが経ったころ――にでも、問いただしてやるか。
「でも明日も野宿ってのは勘弁してほしいわ。寒いし、きっと熟睡できないし」
「うっ、気をつけます」
かわりに、眠気がやってくるまで、ぽつぽつと、取り留めのない会話をした。
満天の星を眺めながら。




