<15>温かさは心満たすも
着替えを終えたシャンテナは、食堂へと向かった。
ここは古い家だが、よく手入れされているようだ。床板は飴色になるまで磨かれて、踏む時きしきしと小気味良い音を立てる。ぼんやりと、自分の家は今どんな状態だろうと心配になった。鍵を掛けてきたが、フラスメンの刺客に一度突破されているので、侵入の抑止力にはならないだろう。
考えても仕方ないと気持ちを切り替え、部屋のドアをくぐると、奥の調理場にキナの姿があった。クルトとトーロは見当たらない。
キナが、調理場から顔をだした。
「あ、シャンテナ。もうちょっとでご飯できるから、座って待ってて」
促され、食卓につく。あまり大きくない樫の木製のそれも、家屋と同じく年を経ていたが、よく手入れされていた。むしろ、角が取れ、触り心地がよいくらいだ。四隅に刺繍を施されたリネンのテーブルクロスも、大事にされているのがよくわかった。刺繍糸の色は抜けてあざやかさを失っていたが、きちんとアイロンを当てられている。
キナはああいう元気な娘だが、細かいところまで気が回る性質なのだろう。それだったら、婿の宛だって、悲観することないのではないか――。余計なことを考え、シャンテナは首を横に振った。生乾きの髪がまだぱさぱさとしている。
食堂はふたり暮らしにはちょうどいいが、広くはない。だから、家具もほとんどなかった。壁際に置かれた棚には、細々した生活用品が並んでいる。その中に、飾り皿がひとつ、そしてその上に載った古いデザインの首飾りを見つけた。シャンテナはつい、その首飾りに歩み寄った。
「それ、お母ちゃんの形見なの。壊れてるけど」
椅子を引く音で気づいたのだろう、キナが顔だけこっちに向けていた。
キナの言う通り、首飾りのカンが外れている。口が開いてしまったのだろう。台座にはめ込まれているのは、大ぶりの真珠だが、金具が錆びつき変質してしまった影響で、真珠自体も変色していた。金具を取り替え手入れしてやれば、とつい、おせっかいなことを思う。真珠を包み込む金具の鳥の翼のような意匠は見事で、購入したときはかなり値が張ったに違いない。
触れる直前で、シャンテナは手を止めた。母の形見と言っていた。勝手に触れないほうが良いだろう。
トーロの言葉も総合して考えると、彼の一家は都にいたが、弾圧されてこのシロジに逃げてきたのかもしれない。そうして、隠れ住んでいる。トーロの奥方にどんな不幸があったのか――病か、事故か、あるいはもっと別のなにかか――は問う気にならなかった。
「ただいま戻りました。ああ、いい匂いですね」
クルトが、上機嫌にそう言って部屋に入ってくる。昼間着ていた外套は脱いで、違う外套を着ていた。何着持ってるんだろうか。もしかすると、追っ手のことを考えて、新しいものをどこかで調達したのかもしれないが。
彼は、棚の前に立っているシャンテナを見て、はたと動きを止めた。灰色の目がゆっくり上から下へ動く。
「でーきた! 今、父ちゃん呼んでくるんで、クルトさんも座ってて」
前掛けで手をぬぐうと、キナはクルトの返事を待たず、ぱたぱた廊下へ走っていった。
クルトが椅子に腰を降ろしたので、シャンテナもそれに倣い彼の正面に座った。なぜ彼はこんなにわくわくした顔をしているのだろう。妙に嬉しそうな。理由がわからず、シャンテナは、クルトの顔を見つめた。問いかけようにも、まだ声はでない。
困惑気味のシャンテナの視線の意味を察したのか、クルトが「すみません」と苦笑して、頬を掻いた。
「シャンテナさんが女の子らしい格好してるの見るの初めてだったので、つい」
それではまるで、いつも自分が男の格好でもしているようではないか。非難と否定を込めて彼を睨もうとして、やめた。そういえば、彼の前では作業着、旅装、たまに寝巻きという格好しかしたことがなかった。だが、だからどうだというのだろう。キナに借りた服は村娘がよく着る、何の変哲もないワンピースで、特に派手でも華やかでもない。見るべきものでもないだろうに。
面白がられているようで、少し不快だった。そっぽを向くと、クルトが慌てた。
「えっ、俺なんか変なこと言いましたか」
わたわたするクルトの前で頬杖をつく。まったく、キナはこんな男のどこが格好いいと言うのだろう。理解できない。ちっとも威厳はないし、平気で無神経なことを言うし。
間もなく、トーロを連れたキナが戻ってきて、食事が始まった。彼女の料理の腕は素晴らしく、スープは見た目も味も良かった。惜しむべきは、シャンテナが固形物を摂取できないことか。はやく喉が治って、具入りの状態でこのスープを味わいたいと思うくらいには、キナのスープは美味かった。できればレシピを聞いておきたい。――日中、バラのジャムを舐めたときもそう思ったなと、嫌なことを思い出して、シャンテナは目を伏せた。キナは毒なんか盛らないはずだ、変なことを考えるべきじゃない。まさかこの先、会う人すべてを敵かと疑っては、やっていけない。
そう思うのに、気分は滅入った。すっかり、フラスメン側に弱らされている気がして、腹立たしくもある。
もやもやしながら、スープを啜っていると、たびたび、クルトから視線を感じた。しかし、目が合うと、ごまかすように笑って何も言わない。シャンテナはつい、力がこもりそうになった眉間を、キナに話しかけられるたびに平らにする作業を繰り返すことになった。




