<14>薬湯風呂の効能は
「うん、大丈夫。よくある痺れ薬だよ、死んだりしない。ただ、しばらく辛いかも。口の中の感覚がおかしくなってるから、咬傷の危険もあるし、一晩は食事はだめだよ。飲むのも慎重にね、喉につまらせやすいから」
よくある、というのがよくわからないが、シャンテナはとりあえず頷いた。頭髪がほとんど真っ白な、糸目の男はうんうん頷いて、代謝を良くして毒をはやく体外に出せるという薬を処方してくれた。
街の外れにある民家を装った、トーロという男の家。
シロジに到着するなり、細い裏路地をくねくね曲がりながらクルトが向かった先がここだ。彼は詳しく説明しなかったが、きっとこの男は王太子の一派の人間なのだろうとシャンテナは納得した。
トーロはシャンテナの前で、自分は医師だと名乗った。
通されたこの部屋にある薬は、見たことがないものばかりだ。蛇や虫を液体につけたもの、乾燥させた草花を煎ってすりつぶしたもの、甘い香りの花を練り込んだ油のようなもの――。手製の薬が並んでいる時点で、彼が王太子派の人間だということはほぼ確定だった。さらにその薬は、注意深く、可動式の本棚の後ろに隠されていたのだから。
現在、エウスの教会が販売する以外の薬剤を、一般人が製造・販売・使用することは禁じられている。教会が販売する薬は、瓶にその目印になるレッテルが貼られているのだ。それが教会の重要な収入の一つになっている。
古くから、地域ごとに親しまれた薬などは、今は基本的に流通してないことになっている。もっとも、こっそり、教会の瓶に自家製の薬を入れて保管している家庭は山程あるだろうが。なにせ、教会の販売する薬は、高い。その上、種類が少ないのだ。庶民は秘密裏に民間療法のため薬を作ったり、分け合ったりしているという実情がある。
教会に頼めば、名医と言われる人たちに症状に合わせて調薬してももらえるが、それは庶民が手が出るような金額では行われていない。
そんななか、教会に薬の販路を掌握される前に医者や薬屋をやっていた者たちが、いわゆる闇医者的な存在として街でこっそり商売していたとしても、不思議ではなかった。そしてそういう人間が、フラスメン派とは仲良くないのも、言うまでもない。
「すみません、ご主人。助かりました。これを」
「いや、いいんだ。私がラーバンで検挙されたとき、殿下には救ってもらった恩があるから。少しでも役に立てれば。そうそう、なんなら、彼女の体調が落ち着くまで、ここにいればいい。あいにくの天気だしね」
「ありがとうございます。お世話になります」
にこやかにクルトと握手するトーロに向かって、シャンテナも黙礼する。声に出して礼を言いたかったが、喉がひりひりしてろくにしゃべれないのだ。
「しかし、君も大変だねえ。いや、詳しくは聞かないほうがいいだろうから、あえて問わないけど。無事に都にたどり着けるように、少し、うちの薬を持っていくといいよ。教会のと比べて、効くよ。キナ、頼んだ」
「はーいー」
トーロに呼ばれて、次の間から顔をだしたのは、彼にどことなく面立ちの似た娘だった。シャンテナより、少し年上だろうか。そばかすのある頬は赤く、表情も明るい。タブリエを着込み、濃い茶色の髪の毛を頭巾の下に押し込んでいる。緑色の目が、好奇心できらきらしていた。
キナはトーロの娘で彼に調薬の師事をしているのだと自己紹介した。忙しなく手を動かしながら。おしゃべり好きらしく、父親がシャンテナの喉に薬を塗る治療の合間も、薬の効能やなにかを話し続けている。
隣りに座ったクルトが、いつになくにこにこしているのを見て、シャンテナは悟った。きっと、彼は、薬の効能の半分も理解してないし、覚えることを諦めたんだな、と。
キナはしゃべるだけではなく、気も利かせて、忘れないようにと効能を書き付けた紙とともに、教会印の瓶にそれらをそれぞれ詰めてくれた。彼女いわく、教会印の瓶を拾い集めて、彼女らのような人間たちに売りさばく連中もいるとか。さらには、昨年、この薬瓶を模した酒瓶で「霊験あらたかな」ほど美味いと密造酒を売買した人間がしょっぴかれたとも。
物珍しさでシャンテナは、トーロの薬棚をじっと観察していた。彼女はそもそも、体が丈夫なことを取り柄と自負しているくらいなので、滅多なことで薬に世話にならない。何年か前に一度、流行り風邪にかかったときも、放っておいたら治った。父が病に倒れた時は、何度か教会で薬を買ったが、寝付いてすぐに亡くなってしまったため、世話になったという自覚がない。
こうしてたくさんの瓶がずらりと並んでいるのは、壮観だった。
黄色っぽい液体の中、小さな気泡をまとって眠っているような草花の姿が、黄玉を使った水晶庭のようできれいだな、と思う。色付きの石を水晶庭にすることはあまりないが、簡素な内容物に絞って作れば美しいかもしれない。急に湧いてきた創作意欲を持て余し、そわそわする。そんなことを考える余裕ができたというのは、危機を脱したという安堵があってのことだ。
ほっとしたからだろうか、つい、くしゃみが出た。雨に濡れた服は、ここに到着するなり、布を借りて拭いていたが、乾ききっていない。暖炉に火が入って室内は暖かだが、濡れた服は冷たく感じてしまう。
「ねえ、父ちゃん、シャンテナに薬湯風呂用意してもいい?」
「ああ、そうしてやってくれ。彼女の世話は、お前に任せたぞ。私は、食料を調達してくる。ああ、大丈夫、そんなにたくさん買い込んだりしないから、怪しまれはしないよ」
クルトとなにか少し話して、トーロは部屋を出ていった。その間にキナはぱたぱた走り回って、薬湯風呂の用意を始める。棚からいくつかの薬草を取り出して、籠にぽいぽい放り込み始めた。
聞けば、熱傷や打ち身などの患者のために、薬湯での治療を行うため、浴槽があるのだとか。ちゃんと消毒して手入れしているから、といわれ、シャンテナはその申し出をありがたく受けることにした。
庶民の家にお風呂があることはあまりない。あるとしたら裕福な家だ。普通は大きめの桶にお湯を張って体を清めることがせいぜいで、人によっては水に浸した布で体を拭って終わりにする。
シャンテナも家に風呂はないので、稀に公衆浴場に行く以外は、桶で済ませる。しかし、昨日は納屋だったし、その前までの宿屋ではクルトと同室なので手早くしなければならないしで、このところゆっくり行水している余裕すらなかった。
ふと、自分のにおいが気になってくる。こっそり袖を嗅いでみたが、よくわからない。雨に濡れて湿った、ちょっと埃っぽいにおいがするだけだ。あとは、納屋で休む時、藁の上で寝転んだからか、枯れた草のにおいもした。
クルトと一緒に馬に乗って密着した状態が続いているが、臭いと思われていたら嫌だ。今日はしっかり、髪も洗おうと決めた。
× × × × ×
キナの用意してくれたお湯は香りが強かった。すっと汗が引くような清涼感のある不思議な肌触りで、薄荷が入っているのは間違いなさそうだ。
陶器の浴槽に満たされた、温めのお湯の中で張った筋肉をほぐしつつ、シャンテナはほう、と息をつく。こうしてゆっくりするのは久々だ。ふと見ると、爪が伸びていたので、風呂を出たら切ろうと決める。腕を伸ばし、自分の手を見つめた。作業の時によく道具が当たる場所には、たこができている。
急に、昼間、襲われたときにしがみついたクルトの手の大きさを思い出した。自分のものよりもずっと大きくて力強い手。そこまで確認しなかったけれど、きっと手には同じようにたこやまめができているだろう。
――また、助けられたな。
身じろいで立った水音が、タイルの床に反響した。
クルトが、自分を都まで護衛するのは仕事のひとつなのだとわかっているが、それにしても、である。完全に足手まといの自分を助けて危ない目に何度もあっては、いくらなんでも割に合わないのではないだろうか。王太子への忠誠心が、その根幹にはあり、彼はきっと気にするなと言うだろうが。自分は気になる。大いに。
ため息が漏れる。
クルトに借りを返す、フラスメンには復讐を果たすと息巻いていながらこれだ。情けない。散々、彼のことを馬鹿にしておいて、自分のほうがよっぽど浅薄だ。
――なにか、お礼ができればいいんだけど。
さすがに、二度も命を助けられたという事実は、重かった。
トーロの家に来るまでも、大丈夫だから、なんとかなるからと、クルトは声を掛け続けてくれた。息がしづらくて不安だったシャンテナは、それで少し励まされたのだ。なんてことない気休めだと反発する気持ちもちょっとはあったが。今はそれもない。助かったと安堵したからだろう。
しかし、お礼と言っても、具体的にこうというものが思いつかない。お金はないし、そのかわりになるものも持ち合わせていない。
どうしたものかと悩んでいると、部屋のドアがノックされた。
「シャンテナ、入っていい? 着替えとタオルを持ってきたよ」
キナが返事を待たずにずかずか入室してきた。そもそも、シャンテナは声がでない。湯船の中で身を小さくするしかなかった。
衝立の向こうで、キナが動いているのがランプに照らし出された影になって見える。
「はいこれ、あたしのだけど着れるでしょ。背丈はそんなに変わらないし。あ、あんたの着替えはとっておきなさいな。また道中洗濯するのも大変でしょ、出発まであたしの着てたら世話ないよ。そうそう、クルトさんはちょっと出かけたよ。どこ行ったかはわかんないけど、すぐ戻るって。夕飯はお肉焼いたけど、あんたはスープだけね。それも具なし。残念だろうけど、そのかわり、ミルクも用意したからさ、勘弁してね。あ、そうだ、リンゴもすりおろしてあげる、腹の足しになるんじゃないの」
シャンテナが喋らなくても、キナがふたり分喋ってくれる。シャンテナは湯船の中で、こくりとうなずいた。キナからはこちらは見えないだろうが。
「ねえあんたとクルトさんってどういう関係? 兄妹じゃないよね、全然似てないし」
どうと問われても、声が出ない。それより、兄妹じゃないとぱっと見てわかってしまったのだろうか。だとしたら、ふたりで口裏を合わせても無駄だ。今後は別の嘘を考えなければ。
もう作業は終わっただろうに、キナは部屋から出ていく気配はない。話足りないのだろうか。
「もしかして恋人? あ、わかったあれでしょ、逃避行中。いいなあっ、羨ましい、あたしもそんなロマンチックなことしてみたーい。クルトさん格好いいし、優しそうだし、最高じゃない。あーあ、あたしにもそういう相手がほしーよー。こうやって父ちゃんの跡継ぐ準備してるとさ、あー、こりゃ行かず後家確定だって思うわけ。わかるでしょ? こんな重たい秘密打ち明けて、結婚してくれるような相手、そうそういないし、むしろ忙しすぎて出会いってどこ、みたいな感じだし。父ちゃんがどっからか婿を調達してくれりゃいいけど、……うーん、微妙なの連れてきそうでそれはやだなあ。あーん、クルトさんが売約済みじゃなかったら、声かけたのに。しゃーないか」
言うだけ言って満足したのか、キナはようやく出ていった。シャンテナが、湯船の中で、必死に頭を振ったり水面を手で叩いて否定の意思を表明したりしていたのだが、それには全く気づかなかったようだ。
キナの足音が遠ざかって聞こえなくなり、シャンテナは一等深いため息をついた。ちょっと回復した体力が、あっさり減少した気さえした。
声が出ないのはなんとも不便だ。反論も言い訳もできないのだから。
クルトと恋人同士だって? 冗談がきつすぎる。声が出たら即刻否定したのに。なんなら、どうぞお好きに声を掛けてくださいとお勧めしたくらいだ。
思い通りにならない自分の喉に苛ついて、シャンテナは鼻の下まで湯に沈んだ。すっとした薄荷の香りが、鼻を突き抜けていく。口から息を吐き出し、水面を泡立てた。
さっきはお礼をしたいと思っていたクルトに対して、むくむくと反発心のようなものが湧いてきて、それにも苛立たせられる。別に、彼がなにかをしたわけじゃないのに。
どうしてか、クルトとキナが仲良く話している姿を想像して、もっと深く水中に潜りたい気分になった。




