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<12>バラの足止め

 雨は夜半を過ぎても降り止まず、翌朝もまだ弱く降り続いていた。本来なら早朝に出発する予定だったふたりだが、今後の天気の変化が読めず、また、納屋を貸してくれた家主の好意もあって、雨が落ち着くまで待つことにした。

 家主は、齢五十手前の老夫婦で、夫は指物師(さしものし)だという。子はなく、シャンテナとクルトになにかと世話を焼いてくれた。もし、自分たちに子供がいたら、ふたりくらいの年齢かもしれないと思うと、放っておけないのと、婦人は言う。

 

「アイラちゃん、お茶を淹れたのよ、よければどうかしら」


 納屋の、しっかり閉まりきらないドアをノックした、白髪交じりの栗毛を頭巾に押し込んだ婦人は、にこにこと、ティーセットの乗った盆を抱えていた。食器は上等とは言えず、縁が欠けているものもあったが、心遣いはありがたい。雨のせいか、やたら冷えるのだ。


「ありがとうございます。……兄の分まで」

「クッキーもあるから、召し上がってね。それにしてもごめんなさいね、部屋が空いていたらこんな納屋なんかに押し込めなかったんだけど」

「いえ、屋根をお借りできただけでも助かりました。怪我した人は、どうですか」

「それがねえ、熱が出てしまってあまり良くないのよ。シロジのお医者さんに来てもらうよう、村長が若い人を遣いにやったけど、この天気だし。心配よね」

「ええ。なにかお手伝いできることがあったらおっしゃってください。お茶、ありがとうございます」


 微笑む婦人からお盆を受け取り、シャンテナは厩舎(きゅうしゃ)のほうへ歩きだす。クルトは馬の世話をしているところだ。

 ここの家主たちには、クルトとシャンテナは兄妹で、親戚に会うため都に向かっているのだと伝えている。用心のため、クルトがそうすることを提案したのだった。ちなみに、アイラというのはシャンテナの祖母の名前で、クルトはリードと名乗っている。

 

 お茶は香り高く、きれいな赤茶色で、小さな皿にお手製のクッキーが載せられている。クッキーは、真ん中にジャムを入れ、花の形に仕上げた可愛らしいものだ。明け方、甘い香りが漂っていたのは、これだったのかもしれない。

 なんのジャムだろう。赤くて、透明感がある。ちょっと紅玉みたいで、好きな見た目だ。滅多にお菓子は作らないが、こういう意匠の凝ったものを見ると、自分で試したくなる。

 行儀が悪いと思いつつ、好奇心に負けて、指先でそのジャムだけを掬って舐めた。不思議な味。甘い、でも、果物じゃない。香りが強い。一口ではわからなくて、もう一度指にとった。それを舐め、ようやく、バラのジャムなのだとわかった。イチゴやリンゴ、アンズのジャムは作ったことがあるが、バラのはない。食べたこともなかった。どういう味付けをしているのか、後味は少し苦くて不思議だった。あとで、あの婦人に、レシピを聞いてみよう。

 

「クルト、奥さんがお茶を淹れてくれたの。クッキーもいただいたよ」


 声をかけると、マルクリルのブラッシングをしていたクルトが手を止め、予め汲んでいた桶の水で手を洗って出てきた。

 

「なんですか?」


 よく聞こえなかったようで、きょとんとした顔でシャンテナと、その手元のお盆を見る。


「奥さんが、お茶淹れてくれたの。このクッキー、バラのジャムが使ってあるのよ。休憩したら」


 盆を差し出したシャンテナに、クルトは申し訳無さそうな顔をした。頬を掻いたあと、ぼそぼそ説明する。

 

「うーん、ありがたいんですが、……お気持ちだけ頂いておきましょう。こんなこと言いたくありませんが、混ぜものされていても困りますし」


 言うが早いか、彼はカップのお茶を地面に捨てた。雨水で濡れた地面では、すぐに、どこに流したか特定できなくなる。


「いくらなんでも、それは疑いすぎなんじゃないの」


 優しい笑顔の、親切な婦人を思うと、クルトの反応は過剰のように思える。あまりいい気分ではない。視線を鋭くしたシャンテナに、クルトは渋い顔になった。

 

「いいですか、シャンテナさん。あそこの塔が見えますか?」


 彼が指さしたのは、教会の尖塔(せんとう)だった。街の規模に合わせ、小振りで質素な作りではあるが、こんな小規模な村にもきちんとエウスの信仰の場は設けられている。定時には鐘が鳴り、人々は一様に祈りを捧げるのだ。


「あれがあるということは、フラスメンの手先になりうる人間がいるということです。用心しすぎということはないんですよ」

「そんなこと言ったら、あれがない場所なんて、国中探しても見つからないじゃない」

「だから、そういうことですよ」


 宿屋で同室をとっているのも、そもそもこうして一緒にメルソから出てきたのも、そのせいじゃないですか。フラスメンに狙われているということは、そういうことなんです。

 常の、のほほんとした表情を改め、青年は真剣な面持ちでシャンテナに説いた。

 

「特に、こういうジャムとか、味の濃いものには混ぜものしやすいですしね」


 四枚あるクッキーを手に取ると、クルトは手の中でそれを割って細かくし、馬糞の山にさっさと混ぜ込んでしまった。

 しかし、シャンテナはそれをあんまりだと制止することはできなかった。恐る恐る、指先で自分の唇に触れる。

 

「シャンテナさん? どうかしました?」

「さっき、私、ジャムを、舐めたわ」

「えっ」


 動揺したシャンテナがお盆を取り落としそうになると、クルトが危なげなくそれを受け取り、地面においた。


 どうしよう、舐めてしまった。量は少ないけれど、あれに毒でも入っていたら。バラのジャムなんて、食べたことないから正常な味もわからない。でも、あの不思議な後味は――?

 考えるほど不安になって、心臓がドキドキいい始める。

 なだめるように、落ち着かせるように、クルトが腕を掴んでくる。その手にすがりつきたいほど、恐怖心が膨らんできていた。

 

「どのくらい食べたんですか。今、変な感じはあります?」

「指で掬って、このくらい。ほんのちょっと。でも、ジャムの後味が少し変わってるなって思ったわ。食べたことないものだから、正常なのか異常なのかもわからない。今は、なにも変な感じはないけど、どうしよう……」


 言いながら、不安で泣きたくなってきた。間抜け過ぎた。知らない人からもらったものを食べないようになんて、子供のころ、母から習ったのに。あまりに初歩的なことだから、クルトも改めて注意してこなかったのだろう。

 

「まずは水でうがいして、そのあとたくさん水を飲んでください。一応、解毒薬があるので、飲みましょう。それから――念のため、出立の用意を」

「い、今から出発するの?」


 雨で、しかも具合が悪くなるかもしれないというのに。

 クルトは話しながらもお盆を持ち上げ、すたすた納屋のほうへ歩きだす。シャンテナは、その後を追いかけた。


「もしこの町で倒れたら、医者がいませんから。なにより、基本的なことですが、同じ場所に長くとどまらないほうがいいんですよ。ああ、そんなに不安がらないでください。念のためです、全部。まだ、変なものを食べたとは限らないんですから。怖がらせて、すみません」


 納屋の入り口で立ちすくんだシャンテナの肩を、励ますようにクルトが叩く。いつもどおりの、緊張感のない顔で。これが一番、シャンテナを安心させると知っているかのように。

 背後で、戸を叩く音がして、ふたりは振り返った。ティーポットと小振りのバスケットを持った家主の婦人がいた。

 

「おふたりとも、さっきのお茶は足りたかしら? クッキーのおかわりはいかが? マフィンもあるのよ」

「奥さん、ありがとうございます。美味しかったです。実は、そろそろ出発するので、ご挨拶にうかがうところでした」


 クルトがお盆を差し出すと、奥さんはそれを受け取って顔を暗くした。

 

「なあに。こんな雨の中、急いで。危ないわよ、道も悪いし」

「いえ、大丈夫ですよ。向こうはもう晴れているし、雨はじき止むはずですから。今から出れば、シロジには夜には着くでしょうし」

「そうかしら……。そりゃまあ、納屋なんかで二晩は辛いだろうけれど、……そうだ、あの怪我していた旅人さんは、村長の家に移動したから、狭くてもよければ上の部屋が空くわよ」

「お気遣いありがとうございます。でも、もう日程も押しているので。これは、心ばかりのお礼です」


 クルトは、懐から銀貨を二枚取り出して、盆の上に載せた。この辺りの宿屋の相場と同じほどの金額だ。一瞬、婦人の目がきらりとした――ように、シャンテナには見えた。

 

「なんだか残念だけど、急ぐんなら仕方ないわね。ちょっともらい過ぎだから……そうだ、待ってて、今、パンを包んであげるから。アイラちゃんも、ハーブの入ったパンは好きでしょ」


 問いかけられ、シャンテナは微笑んで頷いた。婦人は、じっとその顔を見つめていたが、踵を返し、納屋から出ていった。

 

「うーん……自分から出ていこうって言っておいてなんですが、善意かもって思うと、申し訳ないですよね」


 たはは、と困り顔でクルトが首の後を手で撫でた。その袖を、シャンテナは軽く引っ張る。

 そして、首を横に振った。婦人に向けた笑顔を消して。

 

「クルト……、口のなか、しび、れてきた」


 じわ、と嫌な汗が背に滲み、シャンテナは自分の喉元を手で押さえた。




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