<10>朝の一幕
小鳥のさえずりが聞こえる。半覚醒状態で寝返りをうとうとしたシャンテナの口から、小さな呻き声が漏れた。毛布の中で身じろいで、また呻く。
体中が痛い。原因はわかっている。慣れない馬での旅のせいで、普段使わない筋肉が張っているのだ。気持ちも緊張しているようで、早朝に目が覚めてしまった。粗末なカーテンの向こうから、白っぽい朝日が差し込み始めているが、まだ部屋は薄暗い。
シャンテナは床のほうを見た。毛布と掛布を重ねた床の上に、クルトが横になっている。何かあった時すぐに動けるように、旅装を整えて。シャンテナには背を向けているが、耳を澄ませると小さな寝息が聞こえてきた。
自分ももう一度眠りたい。疲れはまだ抜けていない。目をつぶって、再度睡魔に意識を委ねようとしたシャンテナだが、どこからともなく漂ってきた食欲を誘う香りに、胃が動き出しくうくう鳴り出してしまって、それを果たせなかった。
昨晩は、宿屋の下階にある食堂で、スープだけを摂った。クルトにもっと食べたほうがいいと言われたが、疲れすぎて食欲がなかったのだ。今はとにかくパンと肉が、そして温かいものが食べたい。できれば果物や野菜も食べたいし、スープがあれば完璧だ。
そんなことを考えてしまったせいで、腹の虫がさらに騒ぎ出す。立て付けの悪い窓の隙間から、それを煽るように、食べ物のにおいが漂ってくる。この時間であれば、出稼ぎにいく労働者向けの軽食の露店が、においの元だろう。市場で売られるほくほくの粉ふきイモと、パンと、それに挟まったハムと野菜――。ああ食べたい。お腹いっぱい食べたい。喉まで乾いてきた気がする。
クルトが目を覚ます気配はない。用心のため、たとえ夜中に手洗いに行くときでも、声を掛けるようにと言われている。勝手に出歩いて、露店に行くわけにはいかない。だが、せっかく眠っているのに起こすのも気が引ける。彼は、シャンテナの家に泊まり込んでいるとき、熟睡しないようソファがいいと言いきかなかった。父の部屋のベッドはまだ処分してなかったので、掃除すれば寝られないこともないと勧めてもクルトは固辞したのだ。疲れがたまっていて当然だ。
とはいえ。とはいえ、だ。寒空の下に閉め出された子猫のようにきゅうきゅう鳴いている空きっ腹を抱えているのも切ない。
決心したシャンテナは、そろりとベッドから起き出して、クルトのいるほうとは反対の床に置いた荷物袋を持ち上げた。
「ん……? シャンテナさん? どうしたんです……、か」
「!!」
物音で目が覚めたらしいクルトと、ばっちり目が合って、シャンテナは硬直した。クルトがぱちぱちと瞬きする。寝起きだからというよりは、変なものをみるような顔で。
一拍遅れで大笑いを始めた彼に、シャンテナは恨みがましい視線を向けた。口の中の干し肉を咀嚼しながら。
朝っぱらから干し肉を頬張っていたのは、自分が食いしん坊だからではなく、昨晩食事が少なかったからで、クルトを起こさないよう気を遣ったからだ。
シャンテナがふてくされてそっぽを向いてようやく、クルトが落ち着いた。まだ若干肩が震えていたが。
× × × × ×
宿屋の部屋を早々に引き払い、ふたりはスラの朝市に来た。スラはメルソよりさらに小さな町だ。住民向けの小規模な朝市は、掘り出し物や洒落たものはなさそうだ。だが、パンやチーズ、野菜に果物、肉などはちゃんと売り出されているし、それを加工して軽食を並べている店もある。きっとこのにおいだと確信しながら、シャンテナは財布から硬貨をつまみ出し、サンドイッチを購入した。まだ胃には余裕がある。
「シャンテナさん、どうぞ。器は、そこのお店に返すんだそうです」
「ありがとう。具だくさんだね、いくらしたの?」
「いいですよ、これくらい」
礼を言い、クルトが差し出した野菜のスープの簡素な器を受け取って、シャンテナは道沿いに植えられた木の幹に背中を預ける。そして、包みを開いて、サンドイッチに噛み付いた。塩漬けのオリーブで目が覚める。
同じように、急いで朝食を平らげる人たちがあちこちにいた。ほとんどが男性だ。きっとこれから仕事に行くのだろう。シャンテナの職人仲間のうちにも、独身の何人かは、同じように、朝市で食事を済ませて仕事に行くといっていた。
隣に立ったクルトも、同じように自分のパンとチーズを食べ始める。美味しそうににこにこと。疲れはその横顔からは伺えなかった。よく眠れたのだろうか。
彼は、シャンテナが半分も食べ終わらないうちに、サンドイッチを二つ平らげ、腕に抱えていた袋を広げて乾燥させた果物にぱくつく。
もそもそサンドイッチを咀嚼する隣の娘に視線をやって、あらためて、にこりとした。
「そんな小さなサンドイッチじゃ、昼前にお腹減りますよ。もっと食べたほうがいいんじゃないかなあ。あ、そうだ、乾燥イチジクどうですか、さっきお安かったんで買ってきたんですが、美味しいですよ、はい」
好きな乾燥果物を差し出されて、つい手を出してしまう。クルトの笑みが深くなり、シャンテナは顔を渋くした。
「今朝のは、夕飯を控えたからであって、いつもああやって、寝起きにお肉食べてるわけじゃないからね」
「わかってますって。どうしてもお腹減って耐えられないとき、ありますよ俺も。こっそり、家の貯蔵庫で盗み食いしてて、盗人と勘違いした使用人に棍棒で殴られたことがあります」
「なにやってるのよ。……ん? 使用人? あなた、結構いいところのお坊ちゃんなの?」
「ああ、いえ、まさか。そう見えますか」
ちょっとだけ嬉しそうに声を明るくしたクルトに、シャンテナは肩をすくめて見せた。
「まったく。だから驚いているのよ」
がくっとクルトは肩を落とした。
「まあ、そのとおりなんですけどね。ほら、俺、両親が死んだから、引き取られたんですよ。上司の懇意にしている商家に」
「商家に? なのに軍にいるの?」
「養父母からは、長兄も次兄もいて、跡継ぎには困らないから、自分の道を行っていいって言ってもらえているんです。ありがたいことに」
「ふうん。そこで盗み食いしたわけか」
「うぐ」
「私のこと馬鹿にできないでしょ」
シャンテナはなんだか勝った気になり、サンドイッチの最後の一欠片を勢いよく口に放り込んだ。そして、クルトからもらった乾燥イチジクをかじる。好ましい甘みが口中を満たし、ふわっと幸せな気分になった。安かったというなら、自分も少し買っておこうか。今朝のようなことがまた起こらないとも限らないし。
「誤解しないでください。あれは、馬鹿にして笑ったんじゃないですよ。可愛いなーと思って見てたんです、なんかリスみたいで」
「害獣じゃない」
取り繕おうというのか、あわててクルトがなにか言い出すが、シャンテナは半眼のまま、空になったスープの器を彼の分まで回収し、店先の水が張られた桶に放り込んだ。店主がこちらも見ずに、水音だけで「まいどー」と反応する。
言い訳なんかしなくていい。そもそも、朝っぱらから干し肉を頬張っている人間を、可愛いというほうが無理がある。彼は変なところで気を遣う人間らしい。そう結論づけ、彼女はさっさと馬を預けている厩舎へと向かった。
イチジクを無理やり口に詰め込んだクルトが追いかけてきて、横に並び、それでもまだ言い訳していたが、面倒くさくなって「もういいわよ」と言うと、しゅんとしてしまった。




