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由紀の子供達

作者: 宍戸 和也

1.長い眠り

椅子がきしむ音、近くに人がいる。小さな咳払いが聞こえた。私は、どこにいるのだろうか。何も見えない。


脳波が覚醒モードを示している。夢を見ているのか、それとも私の存在を認知してくれているのか。私の声が届いていることを信じて少しでも状況を伝えることを続けていくしかないのだろう。

「目が覚めたようだね。由紀。」

由紀? 私の名前なのか。私は、女性なのか。語りかけているこの男性は、誰?

「僕の声が聞こえるかい?聞こえているよね。君の脳波は今、覚醒状態を示しているからね。時間が無いから一方的に話すことを許してくれ。計画は、順調に進んでいるよ。

昨日までに骨格の80%が再生されたよ。ただ、問題は、*******」

この人は、何を言っているの?言葉が理解できない。なにか私の事を話しているようだけど。眠い。声が遠くなってきた。

眠ってしまったか。今回は、5分も覚醒していなかった。1ヶ月ほど前は、必ず毎朝、覚醒したが、最近は、2,3日に1回、それも長くて10分ほどになってしまった。

由紀の脳の活動時間がだんだん短くなってきている。計画を急がなくては。


由紀がレトロ筋ジストロフィー症候群を発症したのは、今から10年ほど前になる。当時、再生医療技術、遺伝子治療など新たな医療技術が発展し、過去に難病といわれた病が完治するようになっていたが、レトロ筋ジストロフィー症候群は、神経伝達系の異常による全身の筋肉の麻痺が主な症状であり、当時も的確な治療法が確立されていない難病であった。

いずれ患者は、植物状態になり、並行して身体の端末部位から壊死が始まる死にいたる病であった。


2.出会い

由紀と知り合ったのは、そう、12年前になる。当時、務めていた医薬品メーカーの研究室で、再生医療のためのIPS細胞の大量生産の量産化に成功し、社に莫大な利益をもたらした。その功績を認められて副社長兼、主任研究フェローという地位についていた。40代での世界的な成功者として当時は、新聞や雑誌のインタビューを受けることもあった。

由紀は、若手の雑誌記者として私の前に現れた。しっかりと事前勉強をしてきたようで、彼女の質問は明瞭で、私の説明したい事を引き出してくれるものであった。1時間という限られた時間であったが、充実したインタビューであった。さらに彼女の輝くばかりの笑顔と理知的な声、流れるような黒髪、それらも重要な要素であった。

それから、1年ほどたって、金銭的、時間的にも、余裕ができた私は、新たな研究テーマに携わっていた。それは、10年、20年後の再生医療の革命をもたらすテーマであった。

当時の再生医療の方式は、大量生産されたIPS細胞を患者の対象となる器官に加えることにより、損なわれた機能を回復するということが、主流であった。ただし、もとになる器官の機能がある程度維持され、それ自体の再生能力が残存していることが必要とされた。また、失われた器官、機能を再生するスピードは、細胞が持つ再生スピードに限定されていた。したがって、事故で失われた腕そのものを再生するようなことは技術的にも大きな課題があったが、もっとも困難であったのは、筋肉や骨、血管、神経系などをすべて再生するためには、途方もない時間が必要であるという事であった。赤ん坊が青年になるために18年、20年の時間が必要であることを思えば、大人の腕を完全に再生する為に年単位の時間が必要である事は容易に想像できると思う。


私が、取り組んだテーマは、その時間短縮であった。当時、すでに他業界で開発が進んでいたナノテクノロジー、3Dプリンターという物理的に微細な構造を再現する技術を細胞の配置に応用しようとするものであった。

IPS細胞からあらかじめ、対象器官別に単位セルの再生細胞を大量生産する。

神経系、血管系、内臓系、骨格系など再生したい人体の部位別に単位セルを準備する。その後、微細な動きを可能にしたマニュピレーターの保持する射出管から必要とする単位セルを必要とする部位に積み上げていく。単位セルの融合を促進する為に特殊な酵素を配合しセルをあたかも接着剤で張り合わせていくように再生対象を形作っていく。

このアイディアをある雑誌のインタビューの際に自分の夢として語ったところ、由紀が正式にインタビューを申し込んできた。久しぶりの再会であった。


彼女は変わっていなかった、いや、正確には、理知的な笑顔はそのままに女性的な柔らかさが加わっていた。話をしていて心地よさを覚えるような落ち着きが備わっていた。

今回は、インタビューだけで彼女との心地よい時間を終わらせるようなことはしなかった。私は、積極的に行動した。研究施設を案内するというオファーを行い、次回のアポイントメントを私から提供し、記事にする内容の確認という名目で、行きつけのレストランの昼食に誘う事に成功した。

その後は、友達を恋人にするために努力する大学生がするあらゆることを42歳にして積極的に実行した。

年齢の差には、正直、不安を持っていたが、私と居る時の由紀の笑顔、仕草、たわいもないおしゃべり全てに彼女の楽しげな気持ちが伝わってきて、それが自分の自信に繋がった。プロポーズするまでに半年もかからなかった。その年、19歳の年の差を超えて、私達は一緒になった。当時、私の両親はすでに事故で他界しており、由紀も父親を亡くしていた。母親は、一人娘の夫が自分の弟のような年齢であることで、最初は、結婚に反対したと後で由紀に聞かされたが、正直、当時の自分の地位が味方してくれたものと思っている。由紀を絶対に幸せにするという私の言葉を裏付けのあるものとして受け止めてもらえたのだろう。結婚してからもお互いの仕事は継続し、一つの家庭を作るというよりは、分野は異なるが同じような感覚を持ったパートナーのような存在であった。

忙しい中にもできるだけ、一緒に休みを取り、旅行に行くようにしていた。日常から離れて新たな刺激を受け取る事で、お互いを再発見するようなこともあった。特に気に入っていたのは、スペインの南、アンダルシア地方であった。春か秋に行く事が多かった。乾燥した澄み切った青空、美味しいワイン、明るく人生を楽しむことに長けた人々。いつも同じホテルに1カ月程滞在するのだが、私より由紀が断然人気モノで、市場で買い物をしても必ずまけてもらっていた。セビジャーナス(アンダルシアの民族舞踊)も完璧に踊れるようになってしまった。


3.再生

「山下さん、おはようございます。」

「ああ、木村君。おはよう。」

「由紀さん、覚醒したのですか。」

「うん、ただ、今回は、5分も持たなかったよ。心配していた傾向が現れてきたようだ。覚醒する時間が短くなっている。さらに頻度も少なくなってきている。計画を急ぎたいのだが生体プリンターの速度を上げることはできないだろうか。」

「教授、それは危険です。以前、マウスで実験した際に再生スピードを上げたことによってコピーの生存率が30%をきることがわかっています。また、再生後の老化速度もオリジナルの3倍に達した事例が認められています。」

「自分でもわかっている。わかっているのだが。うん、実験室に行ってくる。今日は、来客があっても断ってくれ。」

「わかりました。事務所によってから私も実験室に向かいます。」


実験室にたどり着くまでには、長いプロセスを踏む必要がある。まず、温水のシャワーと殺菌剤の全身噴霧をうける。この薬剤の臭いには、いつまでたっても馴れない。次に控えているのは、温風による強制乾燥、そして専用の使い捨ての無菌服を着ることによって始めて実験室の扉を開けることができる状態になる。指紋認証と虹彩認証により扉が開かれる。若干、気圧が高めに設定されているので扉が開く瞬間に室内の空気が風となって私にふきつけて来る。いつも薬剤とかすかな生臭を感じる。実験室は、約10m四方の正方形の部屋であり、天井は5mほどの高さがあり機材搬入、移動用のクレーンが天井照明の中逆光のシルエットで存在感を主張している。


30年ほど前に日本でIPS細胞の医療への応用が始まった。当初の再生医療は、やけどの治療のための皮膚細胞、機能が失われつつある心臓の心筋細胞への代替など限定的な器官の再生であった。その後、血液やその他の体液の生産により輸血という行為が不要になった。さらに神経系、血管系の再生により脳疾患や事故による半身不随などの医療が飛躍的に進歩した。その後、直面した課題は、再生対象が複雑化、大型化する中で再生速度が絶望的に遅いという事であった。心臓のような器官をIPS細胞から再生するためには、数年間という期間を必要とした。

ここで新たな技術のイノベーションが起こった。IPS細胞の再生を物理的な手段で同時進行的に進めていく「コピー」技術である。

産業界、特に製造業における3Dプリンターの技術を応用するという試みであった。

培養対象別の予備PODで培養された細胞単位を物理的にあるべき構造に並べていくことにより細胞単位の融合とその後の生体としての機能が再現できることが確認できたのである。

これにより血管や神経系などの再生が、本来の細胞分裂の速度からコピー速度に飛躍的に加速されたのである。そう、これが、私が開発した技術である。ただし、その速度は、まだ、時間当たり1mmという段階であるが。


部屋の中央には、直径2mほどの透明なアクリル製のPODが培養液に満たされて配置されている。薄いグリーンの培養液の中、理科室の標本のような骨格と手足の指先などの体の先端部分が形作られつつある。POD内には、銀色に輝くエビの足のような細いマニュピレーターの先端に取り付けられている23本の培養端子がある。この培養端子からプログラミングされた各再生組織の単位セルが精密にコントロールされた位置に抽出されている。それらは、停止したオブジェのように見えるが時間当たり1mmという速度でそれぞれのプログラムに沿って培養対象となる器官を形作っている。

この部屋の温度は、約25度、培養POD内の液温は、37度に設定されている。POD内から発生する微量の気体(主に酸素、水素、二酸化炭素、窒素)は、フィルター、触媒を通して実験室の外部に放出されている。


緑の培養液が満たされいるPODの中の骨格は、大部分がセラミックと培養された軟骨組織、樹脂やチタンで構成されている。本来であれば、骨格から培養したかったが、再生時間を少しでも短縮するためにこれらの材料構成を選択した。由紀は、すでに成人であり今後、臓器が成長する必要が無かったため人口骨格の使用が可能であった。ただし、血管系、神経系は、IPSからの生体組織による構成が選択された。怪我で部分的に損傷された場合は、生体組織がもつ再生能力が必要になるためであった。


気密ドアの開く音と部屋の空気の流れが感じられた。

「山下さん。遅くなりました。由紀さん、どうですか。」

「順調だが、やはり、いつも感じるのだが、この再生スピードを目に見えるくらいにしたいものだな。1日たっても変化がわからない時があるよ。」

「いや、変化していますよ。すでに指の第一関節まで再生していますよ。先週は、まだ、関節そのものが見えてましたよ。ところで、由紀さんの覚醒時間のことですが、山下さんの意見を伺いたいデータが取れたので見ていただけませんか。」

「データというと由紀の遺伝子解析結果のことかい。」

「そうです。2課の連中に無理して1週間で解析してもらいました。結論から言いますと由紀さんのこん睡状態に関係するいくつかの遺伝子を集中的に解析したのですが、やはり得意なパターンが検出されました。これを見てください。この2つのピークですが、通常は、ピークは1箇所です。」

「このピークは何の因子?」

「テロメア、通称寿命遺伝子に適合しています。すなわち、一般に知られたテロメアとは、異なる特性を持った第2の寿命遺伝子と思われる因子が活性化しています。」

「それは、何を意味しているのだい。それと由紀の昏睡と覚醒がどのような関係にあるというのだね。」

「まだ、はっきりとした因果関係はわかりませんが、私の推測では、眠っていた遺伝子が目を覚まして、今までの遺伝子によるコントロールとの間に不整合が発生しているのではないでしょうか。そのために一時的なリセット状態を体が要求していると思います。今後、第2のテロメアの発動が優勢になってくると由紀さんの覚醒時間がさらに短くなっていくような気がします。」

「もし、木村君の仮説が正しいとするとこのまま第2のテロメアが優勢になっていくと由紀は、最後はどうなるのだろう。こん睡状態がずっと継続してしまうのかな。」

「しばらくは、遺伝子の解析を継続していきましょう。昏睡時間との因果関係が見つかるかもしれません。また、平行して第2のテロメアの覚醒を遅らせることができないか、専門部署に当たってみます。」


電話の呼び出し音で目が覚めた。「はい、山下です。」「木村です。夜分恐れ入ります。申し訳ありませんが今すぐ、研究室に来ていただけませんか。由紀さんが、いえ、由紀さんのBodyに異常が見られます。部分的に再生された組織に壊疽が発生しています。」

「わかった、すぐに行く。」

なぜだ、これで2回目だ。前回は、手のひらがやっと再生された段階で指先から壊疽が始まった。培養液の温度や組成にも十分気をつけて管理をしていたのに。今回は、ひじの関節までの再生が終了しており、やっと最適培養条件を見つけられたと安心していたのに。


「あ、山下さん。これです。この小指の先端を見てください。紫色に変色している部位です。内出血のように見えますが、まだBodyには、血液を循環させていませんからこれは、細胞組織自体の変色です。一部、マニュピレーターを通して細胞を摂取しました。変色部位がまだ限定されているので、その部分を切除して部分再生するようにプログラムを変更したところです。この処置で、変色領域がこれ以上拡大しなければ良いのですが。」

「木村君、ありがとう。適切な処置だと思うよ。私もこの症状が一過性で、限定された領域であることを祈るよ。ところで、採取した組織の解析を進めてくれ。特に遺伝子の状態を確認してほしい。由紀本体の第2のテロメアの覚醒とこのBodyの症例になにか関係があるかもしれない。」

「わかりました。特急で解析してもらいます。」


このプロジェクトを開始してすでに2年が過ぎようとしている。はじめは、由紀の治療の可能性を必死に考えていたが、どうしても彼女のオリジナルの体を覚醒させる方法が見つからなかった。そのうち、彼女の体にも異変が起こってきた。末端部位からの細胞の壊疽だ。それも通常の症例ではなく、あたかも細胞自体の寿命が尽きて枯葉が枝から落ちるように指が、手のひらがミイラのように干からびて欠落していくのである。

第2のテロメアの覚醒の影響なのか。本来の寿命遺伝子のコントロールから覚醒した新たな遺伝子のコントロールに移行する際に今の体が拒絶反応を起こしているようだ。


「山下さん。解析結果が出ました。予想通りですよ。第2のテロメアがBodyでも覚醒しています。特に壊疽を起こした部位は、第2のテロメアの遺伝子が支配的な状況になっています。たぶん、他の部位でもこの状況がいずれ発生すると思います。」

「どうすれ良いのだろうか。このまま再生を継続してもある日突然、テロメアの交代で、すべての再生器官が寿命を向かえて死んでしまうのだろうか。」

「ひとつ、可能性がある治療方法があります。ただ、うまく行く確証はありませんが。最悪は、由紀さんのBodyを失うことになるかもしれません。」

「分かった。聞かせてくれないか。」

「IPS細胞で形成した単位セルの段階で、通常のテロメアの影響を消去するのです。そしてはじめから寿命遺伝子を第2のテロメアだけにして培養を開始するのです。」

「しかし、どうやって選択的にオリジナルのテロメアの影響を阻止するのか。放射線か、薬剤のようなものを使うのかい。そのような手段は、まだ私は知らないが。」

「まだ、知られていませんが、遺伝子操作を研究している連中が、ある酵素を特定の遺伝子に選択的に加えることで機能を眠らせることに成功しています。アンチエイジングの研究過程で寿命遺伝子の選択的な活性化を研究していたようです。すでに通常のテロメアの不活性化に成功しています。ただ、不活性化しただけでは、アンチエイジングにつながらず、細胞自体が癌化するためにお蔵入りになっていた技術です。」

「君が言いたいのは、由紀の場合は、この技術を利用して寿命遺伝子の働きを第2のテリメアに集約するということか。癌化することは無いのだろうか。」

「まずは、細胞レベルで確認してみましょう。僕の同期が、研究チームにいるので早速、コンタクトを取ってみます。」


第2のテロメアか。人間の遺伝子の中には、覚醒していないものや何をコントロールしているかわからないものが90%以上あるといわれている。地球上に原始の生命体が発生してから地球的な大災害を克服してきた我々の先祖の失われた機能が眠っているのだろうか。

その機能の一つが、由紀と彼女のBodyに再現したのだろうか。


「由紀、おはよう。久しぶりだね。今日は10年目の結婚記念日だよ。この前、君の寿命遺伝子の選択的抑制酵素の追加を始めたのだが、痛くはないかい。君に苦痛を与えていない事を信じているのだが。最近は、なかなか目が覚めないからこうやって話ができるのもあとどれくらいか分からないのだ。少し、難しい話になるけれど聞いてほしい。

君は、昏睡状態が開始してから基礎代謝が非常に低下して、まるで冬眠しているような状態なのだ。さらに追加した酵素の効果で君のオリジナルの寿命遺伝子から第2の遺伝子に切り替わってからは、心配していた細胞の壊疽も発生しなくなっているよ。血色もよくて本当に眠っているようだよ。これで、神経系統が復活してくれれば、Bodyをコピーしなくとも良いのだが。君のBodyも順調に再生されつつあるよ。スピードだけはどうしても今より早くはできないのだが。・・・・ああ、眠ってしまったか。あと20年、いや30年は、生きていなければ、由紀に会えないのか。」


「由紀、おはよう。久しぶりだね。僕の声が聞こえるかい。・・・」

「由紀、おはよう。久しぶりだね。僕の声が聞こえるかい。今日は、・・・」

「由紀、おはよう。久しぶりだね。僕の声が聞こえるかい。今日は、気分はどうだい。・・・」


4.覚醒

身体が痛い。全身がしびれているようだ。何も見えない。ただ、ベッドに横たわっている感覚は全身から伝わってくる。少し寒い。音が聞こえる。なにか機械的な警報音のようなものが繰り返し聞こえている。数人の男女の話声と走っているような足音が近づいてくる。

「皆静かに。急に刺激を与えてはだめだ。そうだ、山下さんの声を使って話しかけてみてくれ。」


「由紀。おはよう。目覚めたのかい。僕の声が聞こえるかい。ゆっくりと呼吸をして。まだ、無理に身体を動かさないようにして。痛みはないかい。周りにいる僕のスタッフが君の覚醒に手を貸すから心配しないようにね。」

声が出ない。のどが痛い。この声は、誰。懐かしい、無性になつかしい。


由紀さんが泣いています。脳の覚醒も順調に進行しています。局部的な痛みの信号が認められますが、これは、正常な過程ですので心配ありません。呼吸、心拍数、血圧は、正常範囲に落ち着きつつあります。もうしばらくしたらアイマスクをはずします。その前に室内の照明を落としてください。


「由紀さん。はじめまして。我々は、山下教授のスタッフです。これから由紀さんの覚醒プロセスを進めるにあたって、お手伝いをするものです。安心してお任せください。」


今日は、彼と私の結婚記念日だ。一人で祝うのもこれで何回目か、とうに忘れてしまったが、年齢を重ねる事が出来なくなった、私にとって、今ではこの日だけが彼と私をつないでいる大事な記念日だ。

あの日、覚醒した私は、周りの大きな変化を許容できずに1週間ほど鎮静剤を処方されて病院に寝かされていた。それでもその間、少しづつ状況が理解できてきた。まず、なぜ、初めに彼がこの場にいないのかを知りたかった。だが、その質問に対しては、だれもが明確に説明してくれなかった。初めは、学会から急いで戻っているところだと言われたり、途中で空港のストに巻き込まれて足止めを食っているなどと説明された。つじつまが合わない説明に私が食ってかかると彼からビデオメッセージが届いていると言われた。考えてみれば、電話でも話が聞けたはずであった。それが、混乱した私の頭には浮かばずに彼の姿を一目見たいという気持ちだけであった。


「由紀。おめでとう。やっと覚醒できたのだね。本当に嬉しい。一緒に喜びを分かち合えないことが残念だし、申し訳ない。覚えているかな。初めて僕と会ったのは、医学雑誌のインタビューだったよね。僕は、インタビューを受けながら本当にドキドキしていたんだ。何を話したか覚えていないくらいだったけど、結構、いろいろとしゃべったようで、後で記事を見てこんな、偉そうなことまで話したかと赤面したよ。それから約一年後、新たな研究テーマの取材に君が現れた時は、神様に思わずありがとう!って感じだったよ。それから、こんなに年の離れたおじさんと結婚してくれて本当にありがとう。夢のような日々があっと言う間に過ぎてしまったね。由紀がレトロ筋ジストロフィーを発症した時は、必ず、僕が直してやると誓ったよ。意識が無くなってから、覚醒する時間が、数日に1回、一週間、一か月、半年と伸びていき、僕の声に応えられなくなってから数年があっという間に経ってしまった。君の体に第2の寿命遺伝子が発現したのさ。多分、君の体が生き延びるために太古の危機を乗り越えた際の遺伝子を活性化させたのだと思う。ただ、そのために君の意識は深い眠りに陥ってしまい、身体も細胞の壊疽が始まってしまった。それを解決するために本来の寿命遺伝子を眠らせることにした。それが由紀の体では、偶然、うまく行ったのだ。実は、由紀がレトロ筋ジストロフィーを発症してから世界的に同じような症例が増加していった。20年後には、全世界の10歳以下の子供たちの50%を超える発症率になっていた。僕も含めて全世界が、このカタストロフィーと戦ったよ。戦争も宗教も、人種も関係なかった。そうだろ、子供たちがある日突然、ベットから起きてこなくなるのだ。そして親たちの悲痛な叫びも届かずに、眠るように死んで行く。こんな悲しいことはないよ。国連もWHOもあらゆる大学、研究機関が協力して打開策を研究したよ。原因は、神経系の細胞が加速度的に寿命を迎えて死んでしまう事にあった。ただ、なぜ、それが発生するかは分からなかった。由紀のように第2の寿命遺伝子が発現するわけでもなかったのだ。ある日、実験室で子供たちの神経細胞を培養している時に由紀のIPS細胞が残っていた採取針を間違って使用してしまった。その後、いつものように培養後の検体を確認してみると細胞の加齢が止まっていた。由紀の細胞が融合していた。これが、由紀ワクチンの誕生だよ。ワクチンは、由紀の卵子をIPS化した単位セルからしか作ることができなかった。まだ、説明されていないと思うけれど、現在の地球上の20歳以下の子供達全てに君の遺伝子が神経細胞として融合している。そうさ、君は、地球人類の共通の母親なのだ。ただ、このメッセージが再生された時は、君の子供達は、もっと増えていると思うよ。僕達の子供は授からなかったけれど、僕は、光栄さ。君に会えなくて、君を抱きしめられなくてごめん。僕は、君を忘れないよ。

今日は、2060年10月23日 僕達の結婚記念日だよ。いつまでも愛しているよ。」


「今日は、何年、何月なの。教えて!」「今日は、2089年7月8日です。」


5.Big mother

すでに寿命を全うして天に召された私の子供達は、もう何人いるだろうか。私は、相変わらず昔のままだ。そして、私のワクチンもまだ、継続して使われている。あれから世界は、私を一つの象徴としてまとまっている。もちろん小さな紛争や社会的な問題は、相変わらず残っているのだが、宗教や人種よる紛争はなくなった。いつまで私の寿命が続くのか、私のテロメアの尻尾がいつ切れるのか、これは、神様しかわからない。ひょっとしたら神様も分からないのかも知れないが。いつか彼のもとに行く時が来る事を信じて、彼がくれた第2の人生を世界の子供たちの母として生きていこう。そう、Big motherとして。


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