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「綾は大きくなったら何になりたいの?」
他の子供たちにとっては他愛ない会話だったとしても、綾にとってはそうではなかった。長い闘病生活の中、明日もどうなるか分からない日々でそんなことを聞くのは残酷なことだった。こうやって何気なく話題に出せる日が来るなど、当の本人も思っていなかったかも知れない。
綾はやや考え込んでいる様子だった。そんなこと考えたこともなかったのか、それともやりたいことが沢山あって絞り込むことができないのか。
「私、お嫁さんになりたい。お婆様みたいなお料理上手なお嫁さん!」
他の子供と特別変わらない夢だったが、そんな平凡な夢が語れることが幸せだった。
病弱だった綾にとって、自分の脚で走り回りたいと言うのは悲願だったかもしれない。辛い闘病生活の中、そう言った素振りは微塵も見せなかったが、同年代の子が楽し気に走り回る姿を見て羨望を覚えなかったはずもないだろう。今までただ眺めているだけだった行事に自らも参加できる喜びに、綾はただただ喜んでいた。
「お婆様! 私、一位になれましたよ!」
初めて参加した運動会で、そう言って自慢してくる綾の姿を見て、今までどれほどの事を我慢させてきたのだろうと痛感させられる。綾のその笑顔が輝けば輝くほど、今までどれほどの苦難を耐え忍んできたのか、それを想像させられて嬉しさと同時に胸を締め付けられる思いを受けた。
余命宣告まで受けていた綾が、初めて参加した運動会で好成績を残す姿を誰が想像しただろうか。医者には奇跡としか言いようがないと言われた。病状回復後も定期的に通っていた病院で、綾が運動会のことを話すと、医者は天を仰いだものだった。
お屋敷の裏山には花見にちょうど良い桜もいくつかあった。そこまでは道も整備されているため、ハル子の脚で行くのも容易だった。高台にあるために景色も眺められて、私有地なのでのんびりできる。人がゴミゴミとして騒がしい不快な思いをしなくとも済む。
「お婆様は本当にお料理上手ですね」
華やかに盛り付けられた重箱を眺めながら綾は言う。しかし彼女も多少手伝ったのだから手柄は半分ずつと言ったところだろう。
ハル子は綾が担当した五目稲荷を重箱からひょいとつまみ上げてパクリと食べた。味を確かめるようによく味わう。
「綾も大分料理の腕が上がってきましたね。ちゃんと我が家の味になってますよ」
綾も小学校の高学年になってくると大分大人びて見えて来た。もう褒められても、以前のようにはしゃぐだけの子供ではなくなってきていた。
「ありがとうございます。これからも精進していきます」
それでも綾の顔はどこか嬉しげだった。
「そうね、これからも努力しないとね。未来の旦那様のために」
からかうようにハル子がそう言うと、綾はただニッコリほほ笑むだけだった。昔尋ねた将来の夢の事を、彼女は覚えていたのだろうか。それを聞くことも、もう無いのだろう。
夢を見ていたのか考え事をしていただけだったのか判然としない意識の波から彼女は目覚めた。浅い眠りの中では夢と現実の狭間はとても曖昧だった。
最近こういうことが多い。寝入ろうと目を閉じていてもなかなか寝入ることができない。体力が衰えてきているのだろうか、深く寝入ったという感覚がない。睡眠で体力の回復を図ろうとしてもしても効果は芳しくなかった。
ついこの間のことだったのだ。今は夢の中と思い出の中にしか残っていないあの幸せだった日々は、たった数年前の出来事のはずなのに、何故か遠い追憶の彼方のように感じられた。自分の足で立って自由に動き回れたあの健康な体も、幼く無邪気だったあの娘も、もう戻っては来ない。
何かに抵抗するようにハル子は横たえていた身を起こした。きっと自分は余命をこの寝床で過ごすのだろう。だからこの寝床は、自分を縛る鎖なのだ。だから、何もできないとしても、意志だけは示しておかなければならないのだと。彼女は億劫な体を引き起こした。
「お婆様……」
唐突に部屋の外から声をかけられる。誰何の呼びかけを待つこともなく、不躾に戸が開け放たれる。
「お加減如何でしょうか……」
膝をついた綾が恭しく頭を下げ、手を突く。綾はあの学校の蛮行以来大人しくしているようだった。真面目に学校に通い、特に問題になるようなこともしていないように見えた。
有体に言って加減がいいようには見えなかっただろう。だがそれでもハル子は気丈に振る舞った。
「何の用ですか?」
「お夕飯の用意ができましたので……」
もうそんな時間になっていたのか。軽く寝入っただけのつもりで随分長く寝ていたようだった。一日のほとんどを寝て過ごすようになってからは、もう時間の感覚も危うくなってきている。
体調を崩してから家事全般はほぼ家政婦に任せっきりにしていた。それまでは主に広いお屋敷の掃除に専念してもらっていたのだが、ハル子がこうなってしまっては料理や洗濯も回らなくなってしまった。給仕もいつもは家政婦の仕事のはずなのだが。
ハル子が訝しんでいると、脇に控えさせていたのだろうお膳を綾が持ち上げ、部屋の中へと入って来た。
「最近食欲がないとの事だったので、今日は私が作らさせていただきました」
すっと、ハル子の横まで来て彼女の側にお膳を置いて見せる。
「お婆様の好物ばかりご用意致しました」
煮物やおひたし、湯気を立てる吸い物、煮豆や里芋の煮っ転がしなど、確かにハル子の好物ばかりで固められていた。上品に盛り付けられていて小憎たらしいほどの出来栄えだ。病人食としては少々豪華すぎる。
「全部、お婆様に教わった物ばかりです。これも、これも、これも……」
何かを確認するかのように数え上げていく綾に、
「やめて!」
ぴしゃりとハル子は言い放った。吸い物の横に小皿に乗せられたいなり寿司が目に入る。
「食欲ないのよ。下げてちょうだい……」
それは本当のことだった。最近食が細くなり、食事が喉を通らなかった。一日の食事の内何度か断ることもあった。
しかし、それでも綾は引かなかった。
「でも私頑張って――」
ハル子は怒りに任せてお膳をひっくり返した。勝手に思い出に踏み込まれ、不愉快極まりなかった。
ハル子の怒りの形相に綾はこちらを呆然と見返してきていた。その女の顔にさらに怒りが沸き上がる。
「あの子の真似をしないで! 馬鹿にしないでちょうだい!」
その叫び声や物音を聞きつけて来たのだろう、家政婦が足音を立てて部屋の中に飛び込んでくる。
「大丈夫ですか!?」
状況が飲み込めないながらもやや慌てた様子で、ひっくり返ったお膳を片付け始める。その姿に申し訳ないと思いながらも、やはりハル子の感情は収まらなかった。
「出て行って……あなたの顔は見たくないわ……」
言葉通り、ハル子はもう綾の顔を見ていなかった。布団に横たわるとそっと目を閉じた。見ていなくとも怒りと憎しみに任せて綾が部屋から出ていくのは分かった。
「ごめんなさい、また、眠らせてちょうだい……」
家政婦にそう告げるとハル子は意識を落としていった。もう何もできない身体になったとしても、夢の中に逃げ込むことぐらいは許されている。絶望の中、命に繋がれるこの鎖の中で、唯一見ることのできる偽りの救いだったとしても。