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高校の入学式から数日、特に問題もなく平凡な日々が過ぎていた。あの騒動のせいでひっそりと噂は残っていたが、それでも明らかな不和などもなく問題が表出することはなかった。教室内で会話するようなクラスメイトとも何人か知り合えたし、順調かどうかは分からないが、平穏平和な生活が戻りつつあり、学校の生活に馴染んできたところだった。
「今日の授業はここまでだ。みんな予習復習筋トレを怠らないように!」
終業のチャイムを聞いて、いかにも体育教師風の巨漢の物理の教師が教室内へ言い放つ。この男、第一印象とは裏腹に体育教師ではなかった。知った時は軽くショックを受けた。30代後半のヒグマのような巨体の毛深いその男は、実際は20代前半の新任教師だった。人を見た目で判断してはいけないと言う学校側からの訓示であろう。多分。
起立、礼、着席の号令。閉店ガラガラとばかりに教師はとっとと教室を出ていく。急がなければ購買部で目当てのパンが売り切れてしまうのだろうか。
昼休みに入り、一斉に教室内の生徒たちが騒がしくなる。教室内に友達と留まる者、連れ合って教室を出ていく者、一人で残る者、一人で出ていく者。三々五々、思い思いに散っていく。
基本的に昼食は自由にしていいことになっている。学食や購買部を利用してもいいし、弁当を好きな場所で取ることも許されている。まあ常識の範囲内ならば概ね規制されることはない。
「直人くん、今日も彼女来るんでしょ?」
隣の席の女の子が直人に尋ねて来る。気まずそうに頭を掻きながら直人はうなずいた。
「う、うん、多分ね……」
学校生活が始まって数日、昼時間になると綾が来ることが習慣化しつつあった。そして毎日手作りのお弁当を持ってきてくれるのだ。
彼女は元々料理上手だった。中学生の時にも直人は何度か手作りのお弁当を持ってきてもらったことがあった。その時持ってきてくれたものは、小さく小奇麗なお弁当箱にバランスよくオカズが詰め込まれ、から揚げ、卵焼き、葉物の緑やニンジンやトマトの赤などでカラフルに彩られていて彼女の器用さを窺わせる一品だった。すごいねと素直に褒めると彼女は謙遜して、そんなことないよと言ったものだった。
「いいなー。ラブラブでさ」
からかうように隣の席の女の子が言って来る。その目には若干の羨望の眼差しも窺えた。
「いやいや、そんなことないって……」
直人が言うと女の子はおかしそうに口元を歪ませた。
「じゃあ私、友達と学食でお昼食べるから」
そう言って彼女は手を振って席を離れていった。それは、自分の席を使ってもいいよと言う許可だった。昼になると綾が毎回来るようになっていたので、席の貸し借りが暗黙の了解になりつつあった。申し訳なく思いつつ、直人も手を振り返した。
去りゆく彼女の背後にありがとうと言い放つのと、綾が女の子とすれ違って教室に入ってくるのはほぼ同時だった。
「直人くん、今日もお弁当作って来たよ」
現れた綾の姿は、登校初日のような派手な格好ではなくなっていた。化粧や無駄な装飾もなくし、髪もストレートヘアに戻っている。髪色は金髪ではなくなっているものの、若干前のような黒とは違うようにも見えた。光が当たるとブラウンに発色しているように見えるが、まあこれならば体質と言うことで誤魔化せる程度には抑えられている。度重なる脱色や染色、ヘアアイロンなどでダメージを蓄積してしまっているため、少々髪質が荒れているのは仕方ない所だろう。
あの一件以来、彼女素行は極めて品行方正だった。あの一日が冗談だったかのように、彼女の学校生活は誰の目からも模範的に映った。生徒から尊敬され、教師から信頼を得る優等生の振る舞いを、彼女は難なくこなしていた。彼女の若干の髪色の変化だけが、あの件の名残を窺わせる。
「なんだか悪いね、毎回お弁当作ってきて貰っちゃって……」
中学の時にも何度か機会があったことだが、そうそうしょっちゅう起こるイベントでもなかった。精々片手で数える程度の頻度でしかなかっただろう。これが毎日行われるようになったのは高校になってからだった。いい加減弁当を作るのも煩わしくなってきてたのか、直人が母に弁当はいらない、学食や購買部で済ませると告げると、母は意外とすんなり了承してくれた。一日数百円で面倒がなくなるなら安いと考えたのだろうか。そのため昼飯代として貰っている小遣いが、地味にヘソクリになりつつあった。小遣い自体もおいしいし、彼女との色恋沙汰を探られるのも喜ばしくないので、綾にお弁当を作ってもらっているのは黙っていることにした。
「何言ってるのよ。直人くんは私のカレシなんだよ?」
こちらの思惑も露とも知らず、綾はさも当然といった調子で天使の笑顔を振りまいた。その優し気な表情は、中学の時から変わらない彼女の顔だった。お嬢様で、優等生で、思いやりがあって、非の打ち所がない大好きな彼女だった。
綾は直人の物とその隣の席の机をくっ付けて即席の食卓にする。そうして手に提げていたカバンから弁当の包みを出すと、食卓の真ん中にお弁当を広げ始めた。
「ここ数日、お弁当作りながら思ったんだけどね」
そう言いながら彼女が開けるその包みを一目見て直人は気付いていたのだが、今日のお弁当はいつものよりも少々、と言うかかなり大きいように見えた。包んである風呂敷もなんだが上等な生地のような気がする。
「どうせ同じお弁当二つ作るんだし、一つにまとめちゃった方が面倒なくていいかなって」
風呂敷の中身が露わになる。中からは、漆塗りの上等な器が三段重ね。直人はその光景に軽く面食らってしまう。思わずえっと声を上げてしまった程だった。
「お重に詰めちゃった♪ どう? すごいでしょ?」
「すごいでしょって……」
蓋を広げて見せるその中身は確かにすごかった。これならば軽く花見や運動会にでも参加できそうなくらいだ。この出来栄えはまさに晴れの日の料理だった。
「今日って何か特別な日だっけ……?」
念のために聞いてみたが、やはり彼女はかぶりを振った。
「そういうわけじゃないけど……なんだか作りすぎちゃってさ。上手くできたし、直人くんにも食べて欲しかったから……」
彼女は少々不安げだった。
「う、うん、ありがとう、とっても嬉しいよ」
ばつが悪くなり直人はとっさに取り繕った。彼女の表情がぱっと明るくなる。
「やった! 私一生懸命作ったんだよ!」
その彼女の言葉通り、重箱の中身にはその成果が表れていた。上段にはおにぎりや海苔巻きやいなり寿司のようなものが入っている。真ん中の段にはから揚げや卵焼きなど、かつて彼女が作ってくれたお弁当のオカズが入っている。そして一番下の段には、煮物やおひたし、煮豆に芋の煮っ転がしなど少々渋めのラインナップになっている。真ん中の段を抜かせばどこかの料亭で作られたのではないかと思わせる。実際に買ってきて詰めたのだど言われた方がよっぽど信憑性があるかも知れない。
「本当にスゴいね……」
うなるように言う直人に、綾はさらに表情を輝かせた。はしゃぐように手を合わせる。
「そうでしょ? スゴくない!?」
不意に、直人は違和感に胸を握られた。あの入学式の日から、時たま顔を覗かせる奇妙な感覚だった。まただ、と言う思いで彼女表情を見た。
彼女の天使のほほ笑みはどこか得意げで、満足そうに輝いていた。今までの彼女は絶対に見せない表情だった。この顔を見せるようになったのはやはり、高校に入ってからだろう。以前の彼女ならばありえなかった。何かを自慢するなど。
彼女はあの高校デビュー事件以来、心を入れ替えたように以前の彼女に戻っていた。穏やかな語り口調、優雅な仕草、控えめな面差し。そう言ったものは以前の彼女のそれと、それほど変わっているようには見えなかった。表面上は……。
(彼女は嘘をついている……)
品行方正で清廉、謙虚なることを美徳とするその船坂綾と言う人間性を彼女が前面に出して見せるほど、言動の端々からは内面と外面の乖離が浮き出て見えた。
(前の彼女なら、絶対自慢するなんてことしなかったのに……)
以前の彼女ならば、すごいねと褒めても、そんなことないよと謙遜するような人間だった。自らの手柄を自慢するような娘でもない。
それを良いとか悪いとか言いたいわけではなかった。ただ、考えてしまうのだ。以前の彼女ならば、と。
以前の彼女ならば……以前の彼女ならば……
やはりそう考えてしまうのは、あの彼女の奇行のせいだった。あの一件さえなければ、きっと彼女が不意に自慢げな顔を見せたとしても、ちょっとしたお茶目を見せている程度にしか思わなかったのかも知れない。たった一つの事実が、今までの、そしてこれからのすべてを歪ませる。
彼女は、船坂綾と言う人物を演じているのではないだろうか?
「どうしたの?」
不意に呼びかけられ、直人はハッと我に返った。意識せず綾の顔をしばらく見つめていたらしい。
「あ、ああ、ごめん、本当にすごいんでビックリしちゃって……」
そう直人が言うと、綾は照れたように笑うと隣の席の椅子へと座った。
「さ、食べよう。このから揚げとか、直人くんが前にすごくおいしいって言ってくれたからまた作って来たんだよ」
また彼女は直人が知っている馴染みの顔を見せた。しかし今まで、それ以外の顔を直人は知らなかった。彼の知っている彼女の顔は、学校と言う限られた中にしか存在しないものだった。
その愛する女の顔が、演じられていたものだったのならば。自分の愛した女は――そして、愛であると思った想いは、いったいどこにあるのか。
思い浮かんだ不安を、直人は無理やりにかき消した。