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綾は体の弱い娘だった。生まれながらに心臓に疾患を持っており、それが原因で命を落とす場合もあると医者からは警告されていた。運が良ければ成長と共に改善されるかも知れないとも言われていたが、彼女の場合そうはならなかった。成長するに連れ、新たに体に問題が見つかり、医者から余命一年と宣告されたこともあったが。
それでも綾は今でも生きている。希望した高校に入学し、不良のような振る舞いをし、教師を困惑させ、こうして自宅まで相談の電話までさせるほど元気に生きている。
ハル子は何度目かになるか分からない謝辞を述べて、電話口で頭を下げた。
「申し訳ございません。最近は私の体調が優れないものでして、あの子への管理がままならず大変申し訳なく思っています……。帰りましたならば、必ずきつく言って聞かせますので……」
ハル子が畏まって言うと、相手は逆に恐縮した様子で慌てて言い返してきた。
「あ、いいえ、お婆様……そのようにお気になさらず。こちらにも多少不手際がありましたし……」
沈黙があった。どう会話を繋ぐか考えているのだろうか。ややあって教師は言葉を紡いだ。
「……実は、なにも彼女を責めるつもりでお電話させていただいた訳ではないのです……。その……こちらとしても、どのように対処したものかと困っておりまして……」
教師の口調は実に物を言いにくそうな感じであった。言葉を選びながら慎重に発言しているようだった。
「……その……私、綾さんの入学面接の時に面接官をしておりましが……今日登校されてきた時とあまりにギャップがあったものですから……」
教師が言わんとしていることを察して、ハル子は唇を噛んだ。だが何も言うことができずに、教師の言葉をじっと聞いていた。
「失礼なことを申し上げるようで恐縮なのですが……今日お見掛けした時、ご本人とは信じられず、どうしたものかと……お電話でご報告したわけでして……」
「……本当に、申し訳ありません……」
ハル子の声は期せずして震えていたようだった。そのせいで大いに教師を慌てさせてしまった。
「あ、いえ、本当に、そのようにお気になさらずに……! なるべく大事にするようなことは致しませんので……。その……そちらの旦那様には色々とお世話にもなっておりますし……」
言いにくそうに若干声を潜める教師。確かにハル子の夫は生前、学校への寄付など頻繁に行っていた。偶然この学校にもそういったことがあったのかもしれない。相手は善意のつもりなのか分からないが、ハル子は毅然とした声で言い放った。
「いえ、先生。そのような特別待遇をされては困ります。主人が生前に関わったこともありましたが、それももう遠い昔の話ですし、私や綾とは何ら関係ありません。それに、そのような社会正義に反するようなことを口にするべきではないと思います」
「あ、いえ、決してそのような意図の発言ではなく……ハイ、まことに申し訳ございません……」
教師はさらに縮み上がった様子で言葉を絞り出していた。電話の向こうでペコペコ頭を下げている姿が目に浮かぶようだった。権威というのはそういうものだ。とっくに失われてしまった威光であっても、意図に関わらず相手をひれ伏させてしまう。
これほど相手が畏まってしまっては、相手から電話を切るというのは難しいだろう。ハル子の方が話を切り上げて電話を切るしかあるまい。
「ともかく、綾とはじっくりと話し合ってみますので、今日のところはこちらにお任せいただけませんか?」
「はい、そのようにして頂けると、こちらとしても助かります。お婆様にお任せすれば間違いはないと思いますし……」
「ではそのように。では、失礼致します……」
相手の返事を聞かずにハル子は電話を切った。正直、ハル子の気力と体力は限界だった。肩を落とし、ヨロヨロと布団中に身体を倒す。
そこはハル子自室である小さな和室であった。畳敷きの部屋の中に、いくつかのこじんまりとした家具に囲まれて、部屋の中心に使い慣れた煎餅布団が置かれている。
ハル子はここ数日、その布団から起き上がることができずにいた。元々体が丈夫な方であったが、さすがに白寿の祝いも近づく年齢になれば、次第に弱ってきても仕方がなかった。寝たり起きたりを繰り返すことも多くなり、その頻度も次第に多くなっていた。
数分ほど体を休め、体力が僅かばかり回復したのを感じると、ハル子は体を起こした。今では声を張り上げるのも億劫になってしまい、人を呼ぶのもままならなくなってしまった。ハル子は枕元に置いてある小さな鈴を手に取って鳴らした。金属の甲高く長く響く音が、屋敷の中に染み渡っていくようだった。
ややあって、部屋に人の気配が近づいてくるのがわかった。屋敷の静けさを壊さぬように配慮しているかのように、滑るような足取りだった。
「奥様、お呼びでしょうか」
すっと襖が開いて、この家の家政婦が姿を現す。白髪が混じった頭の年配の女性だった。この家に長らく務めていて、ハル子と一緒に暮らすうちに、ハル子と同じように年老いてきた人間だった。一緒に暮らしてきた分だけ年季を積んでいた。
ハル子は手に持っていた電話の子機を家政婦に渡しながら訪ねた。
「あの子は……綾はもう帰って来たのかしら」
「はい、つい先ほどご帰宅されたようです」
家政婦は電話を受け取ると、やはり滑るように襖のそばまで下がるとそう答えた。それに満足するようにうなずくと、ハル子は家政婦に言った。
「そう……なら、あの子をここに呼んでちょうだい」
その言葉を聞くと家政婦は分かりましたと頭下げて退出していった。
ハル子は再び布団の中へ体を潜り込ませた。先ほどのやり取りだけでも体力を消耗してしまうようだった。老婆はゆっくりと目を閉じて息を吐いた。そのまま魂が抜けてしまいそうな深い溜息だった。
綾は体の弱い娘だった。そして、彼女の両親は彼女が物心が付く前に二親とも亡くなっていた。だからこそ、彼女を自分が守ってやらねばとハル子は思っていた。使命感を持ち、寵愛した。家族の居なくなったこの屋敷で、十数年を一緒に過ごした。
彼女がこの家に来た時、夫はもう存命しておらず、子供たちも独立して家を出ていた。ハル子にとって綾は、唯一の家族だった。親族ではなく、共に同じ家に住まう、唯一の家族だった。老いてから生まれた自分の子のようにすら感じていた。
それが今ではまるで他人だった。綾の考えていることが、ハル子には何一つ理解できなかった。都心の進学校へ行く予定であったのに、突如として市内の平凡な高校へ入学を希望し、止めるのも聞かずに受験してしまった。熱心な説得にハル子も折れてしまったが――
そして、今日の騒動である。もう理解できない。理解もしたくない。理解してしまえば、事実を認めざるを得なくなる。
部屋に近づく気配に気付いて、ハル子はそっと目を開いた。上等で年季の入った天井が、うら寂しい情緒を放って目に飛び込んでくる。よく知った天井だった。何十年と見てきた。おそらく、死ぬ時も見るのだろう天井である。
「お婆様……綾が参りました」
娘の声が聞こえてくる。
「入りなさい」
ハル子は体を起こしながら襖の向こう側へ呼びかけた。
すっと、襖が横滑りして娘が姿を現す。聞こえてきた物静かな声音とは裏腹に、ゴテゴテと着飾った金髪の女だった。これまた似合わない優美な所作で、その女は作法に乗っ取って部屋の中へと入って来た。
「何故呼ばれたか分かっていますね」
「おおよその見当は……」
ハル子が厳しい眼差しで告げると、彼女はそう言ってそっけなく返答してきた。ハル子は忌々しく思いながらも先を続けた。
「学校から電話がありました。大分皆様にご迷惑をおかけしたようですね」
「その件に関しましては大変申し訳なく思っています。もう二度とこのようなことが無きように――」
「だったら何故最初からそうしないの……ッ!」
感情を表さず、作法に従うように粛々と述べる彼女に、ハル子は癇癪を起した。苛立ちのままに叫び声を上げたかったが、年老いて弱った体は言うことを聞いてくれなかった。張り上げようとした声に息が詰まる。
苦し気に息を乱れさせるハル子を、綾は黙って見つめていた。悲し気とも、虚ろとも見える眼差しで。その瞳を見つめ返しながら、ハル子は静かな声音で彼女に怒りをぶつけた。
「……我が家の……今まで築き上げて来た綾の名を、汚さないで頂戴……ッ!」
金髪の巻き髪で、付けマツ毛と付け爪がゴテゴテの、ミニスカートの制服の女に言う。化粧されたその女の頬や唇が、憎々し気に歪んでいた。
「私が綾なのよ……私のことは私が決めます……」
初めて彼女が感情らしきものを見せた。か細く震える声は、きっと自分と同じように相手を憎々しく思っているのだろうとハル子は思った。ならば我慢することはない。思うだけ相手を呪えばいい。
「アナタは……綾じゃない……アナタみたいなものが……綾であるはずがない……ッ!」
ハル子の怨嗟に、相手が呼応する。静かな恨みがましい眼差しが、ハル子に突き刺さる。
きっと相手は自分のことを忌々しく思っているに違いないとハル子は感じていた。きっと思うままに懐柔できない煩わしさに苛立っている。
「なんでよ……」
密かな怒りを燃やすように、少女は声を震わせていた。
「なんで認めてくれないの!? 私はただ自分の心に従ってるだけなのに! なんで誰も認めてくれないのよ!!」
掻きむしるように頭を抱えて少女が吠える。そこにはかつての優しく穏やかな綾の面影はどこにもなかった。ただどうにもならないことに癇癪を起して泣き叫ぶ子供のように、彼女は絶叫していた。
その奇声を残して少女が部屋から飛び出していく。静かな屋敷を震わせるように、その残響が遠ざかっていく。
綾が開け放ち飛び出していった襖の向こうに、ちらと家政婦の姿が見えた。消え去った家族の後姿を追うように家政婦の片手が見送っていた。
「奥様……」
不安げな声で家政婦がハル子に呼びかけてくる。家政婦はことの成り行きを案じてはいるが、決して踏み込んでは来ない。この家政婦が家族ではない所以だった。貞淑な彼女はいつも女中の分をわきまえ、家の問題には踏み込んでは来ない。何か思うことがあっても口を挟むのは領分ではないと心得て今まで一緒に過ごしてきた。おそらくきっと今回もその立場を貫くだろう。
「お加減大丈夫ですか?」
部屋の中に入って、綾が乱暴に開いて行った襖を閉じ、家政婦は座り込んでそう尋ねて来た。苦し気に呼吸を繰り返しているハル子の背中をさすりながら、ハル子が落ち着くのを待ってくれている。
「少し……興奮しすぎたかしら……」
息を整えながら、ハル子は言った。
「お薬を持ってきて頂戴……それを飲んで、少し休みたいわ……」
「御夕飯は如何致しましょうか?」
「食べたくないわ……とても喉を通りそうにないの……」
言うが早いかハル子は身を横たえた。
「とにかく休みたいの……お願い……」
そんな様子を見て、家政婦は分かりましたと頭を下げて退出していった。
このまま眠り込んでもいいかという心持で、ハル子はそのまま瞼を下した。酷く疲れていたが、年老いた体には寝入ることも容易ではないようだった。楽しかった頃の思い出に逃げ込めればいいなと、ハル子はずっと目を閉じ続けた。