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四月の快晴、桜の花びら舞い落ちる学園の校庭。生徒たちは新たなる希望に満ちた新生活に目を輝かせている。その生徒たちが、皆一様にこちらを見ている。
ヒソヒソと話す声が聞こえる。好奇の視線と指先が突き刺さる。バス停からずっとメッタ刺しにされて直人はもう重症だった。今後この傷が癒えるかも疑わしい。
直人の腕にはずっと綾がくっついていた。マタタビに酔ったネコのようにうにゃうにゃとまとわりついて離れようとしない。
(化け猫にでも憑かれた?)
あり得そうではあった。まるで人が変わったようだ。前の彼女は思慮深く、控えめで、思いやりがあって、絶対にこんなアホ面を人前で晒すような人物ではなかった。人とはこんなにも以前の自分を捨てて別人のように振る舞うことができるのだろうか。
案外、化粧や髪型を戻すとその下には別人の顔があるのかもしれない。
直人は彼女の顔を覗き込む。即座に彼女の無邪気な笑顔が返ってくる。そこに悪意は感じられないが。
悪意は感じられないが、彼女は災厄をまき散らす。きっと噂は千里を駆け、登校初日からイチャ付いてるバカップルとして有名になる。その後の生き辛さを想像すると気が重い。
かと言って、彼女を強引に引き剝がすのも気が引ける。やっと本格的に付き合えるのに悪印象を彼女に抱かせるのも損な気がする。何のために苦労してこの高校に合格したのか。程度の差はあれ、こういうことをしたくて頑張ったのだから。
とにかく、初日からこれはハイレベルすぎる。直人の想定としては手をつなぐとかそういう辺りのレベルから始める予定だったのだ。学生ならば、学生らしい異性交遊をせねば。彼は意外と真面目だった。
「あ、あのさ、もうちょっと離れて歩こうよ。ホラ、みんな見てるし……」
やんわりとたしなめるが、彼女はイヤイヤをして聞く気はないようだった。
「ダメだよー! 恋人っていうのはね、ずっと一緒に居て、離れちゃいけないんだよ!」
恋の病にかかった女の子は強情だ。この程度でめげるようなものではない。仕方がない、しばらくはこのままにさせておくしかない。さすがに教室まで行けば離れるしかない。クラスメイトたちになるだろう生徒たちに見られて死ぬほど恥ずかしい想いはするかもしれないが、まあ付き合っているのは事実だし仕方がない。
しばらくこのままとは言っても、校庭を抜ければ昇降口はすぐそこだった。時間にすれば物の数分である。直人と綾は人の流れに乗るように、下駄箱で上履きに履き替え、校内へと入って行った。
と、人溜まりがあった。どうやらクラス分けが張り出されているようだった。生徒たちはそれを見て各々が自分の行くべきところに流れて行っていた。
「えーっと、俺たちのクラスは……」
クラス分けの文字を目で追っていく。しばし自分の名前を探して――見つけた。
だが、そのクラス表の中に、船坂綾の名前は、なかった。
悲鳴があがった。遠くから聞こえるものではない。すぐ隣の彼女のものだった。
まるで全く予想していなかったかのように取り乱し、泣き崩れる。
「やだやだー! 直人くんと離れるなんてッ!」
どよどよと、周りが騒ぎ始める。
「ちょ、ちょっと何やってるの!?」
床にぺたんと座り込んで目元を押さえる彼女を立たせようと肩を掴むが、立ち上がる気配はない。
「だって、だって……ッ!」
「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか……」
駄々をこねる彼女にそんなことを言ったって、それこそ聞く耳はなさそうだった。
周りの視線にバツが悪くなり、直人は彼女を抱き寄せた。
「休み時間の度に会いに行くから、我慢しようよ」
彼女の御し方が少し分かって来た気がする。彼女は抱き着き返して直人の胸に顔を埋める。
「本当に? 浮気しない?」
「う、うん、わかったから、立ち上がって」
ぐずりながらも彼女は立ち上がった。
と、ほっとしたのもつかの間――
「どうしたどうしたァー」
騒ぎを聞きつけたようで、のっしのっしと巨体を揺らしながら男が現れた。ジャージ姿に角刈りに近い短髪、男らしい口髭と厚い胸板。長身から見下ろされる眼差しは厳しく、体育教師然とした風貌だった。
「あ、いえ、大丈夫です。問題ありません」
問題ないわけはないが、直人はきっぱりと言い切った。この上なく厄介なことが起こりそうな気がする。
「ん、なんだ、お前らは。新入生か?」
まだ幼さの残る直人の風貌をまじまじと眺めながら察したように教師は言う。もっとも、一年生のクラス分け表の前に居るのだから言わずもがなではあったが。
直人の安いセリフで誤魔化し切れるものでもなかった。教師の厳しい目がギャル姿の綾を捕らえた。
「なんだその恰好は。初日からいい度胸だなァ」
ずいっと教師の巨体が前に進み出てくる。
「よォーし、先生と生徒指導室までランデヴーするかァー」
むんずと綾の腕を掴み取る。
が。
次の瞬間、教師は床に寝ころんでいた。
「な、なんだァ?」
本人も何が起こったのかわかっていない様子だった。慌ててがばっと立ち上がって再び綾に掴みかかる。
彼女は立っている場所を少し移動しただけに見えた。そして掴まれた腕を軽く振り払う。それだけの動きで教師の巨体がコロンと転がった。
「ちょっと、セクハラやめてくださーい」
冷めたように綾は言い放った。教師の顔面が紅潮する。
「ナメてンのかァ!」
怒声を上げて意地になって掴みかかる教師を綾は背後へといなした。つんのめるようにたたらを踏んで、教師はそのままズテンと転んだ。
「やめてって言ってるでしょ! ネイル折れちゃうじゃない!」
「貴様ァッ!」
怒声を上げ、青筋を立ててさらに掴みかかろうとする教師。そこに声が割って入った。
「何やってるんですか!」
人垣をかき分けて、メガネの女教師がツカツカと寄ってくる。その厳しい目は巨体の男に向けられていた。
睨まれた教師はやや気勢を削がれた様子であったが、それでも彼は言い返した。
「だって、この生徒がですねえ――」
「そのことは後でよろしい」
グイッと彼の鼻先に指を突き付けて、女教師は言い放つ。
「アナタの先ほどの怒鳴り声、言葉遣い、暴力的な行為、教師として適切とは思えませんが?」
「態度の悪い生徒を叱るのは教師として当然の行為です!」
「ナメてンのか、貴様、と怒鳴って掴みかかる行為がですか?」
さすがに痛いところを突かれて巨漢は口をつぐむしかなかった。
そうして黙らせておいて、女教師は綾へ向き直った。その厳しい目は、今度は綾のことを品定めする。
「アナタ、名前は?」
明らかな校則違反の生徒に対して怪訝な表情だった。
しかし綾はそんな女教師の態度に物怖じせず、平然と自分の名乗った。
その名前を聞いた途端、女教師の怪訝のシワが増す。
「綾……? アナタがあの綾さんなの……?」
疑うような眼差し。そして、何か思案する。
しばし黙考したかと思うと、女教師は巨漢の教師に顔を寄せると、何事かヒソヒソと話始める。
ややあって巨漢教師が離れると、女教師はこちらに言ってきた。
「とりあえず、アナタたちは教室に行きなさい。詳しいことは後で追々説明してもらいます」
「わ、分かりました……」
逆らっても仕方がないので直人は素直に返事する。綾の手を引っ張って教室へと向かう。
教室への道のりは短い。それまでに間に合うように直人は早口でまくし立てた。
「さっきのは一体なんなんだよ! なんであんな事――」
「ああ、さっきのはね、合気道だよ。習い事で通ってるんだー。薙刀もちょっとやってたりするんだよ」
聞きたかったこととは違ったが、彼女は得意げにそんなことを言う。
そんな彼女に苛立ちを覚えて何か言い返そうとしたが、先に声を上げたのは彼女だった。
「あ、私こっちだから、じゃあね」
不意に顔が近づき、彼女が頬に軽くキスをしてくる。反応する間もなかった。ドキリとする場面だったがそれは苛立ちに消えた。
手を振って消える彼女に取り残され、直人はひとりごちた。
「なんなんだよ一体……」
頬に手を当て、しばしその場に立ち尽くした。