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待ち合わせ場所であるバス停に現れた人物は、お待たせ、と声をかけてきた。その人物に対して、怪訝な眼差しを向けながら直人は声を上げた。
「……誰……?」
知らない女だった。巧みに盛られ、カールされた金色の髪。ゴテゴテのまつ毛。凶器のような派手な爪。ギャル感満載のセーラー服姿の女。知らない女だ。
だがその女は聞こえていたのかいないのか、直人の言葉には構わずに突進してくる。ガバチョと彼の腕に飛びつき、体を擦り付けてくる。ムニムニと何か押し付けられる。
(ええええーッ!?)
声にならない絶叫を上げる。歓喜と動揺が同時に襲ってくる。
(なんなんだコレ、痴漢冤罪か!?)
反射的に突き飛ばしてしまいそうだったが、相手が女の子だったためそれは躊躇われた。その間にもギャルはにゃんにゃんとネコが甘えるように擦りついてくる。その光景を見て、バス停で待っている他の乗客たちがクスクス笑ったり、ヒソヒソと話をしていた。中には自分たちと同じ学校の制服を着ている学生もいた。
「直人くーん、春休み中寂しかったよォー。会いたかったー」
そう言って彼女は直人の胸の中に顔を埋めてくる。ふわりといい匂いが漂ってくる。多感な男子の理性を捻り潰すぐらい容易にできてしまう程の破壊力だ。
(かわいい……)
改めてその子の顔を覗くとエライ美人だった。ギャルの様相をしているが肌もキレイなものだ。
が、重要なのはそこではない。ふと気付き、頭の中から必死に煩悩を振り払う。
「な、なんで俺の名前知ってんの?」
スンスンと自分の胸元でニオイを嗅ぐように鼻を鳴らしている彼女を引きはがして、直人はその顔を覗き込んだ。
直人の疑問に対して、彼女は怪訝な表情を見せた。言っている意味が分からないように首を傾げ、疑問符を浮かべている。
ピンっと何か気付いたよう体を跳ねさせ、彼女眉根を寄せた。
「もしかして、私のこと誰かわかってないの?」
ぷくっと頬を膨らませる。
「アナタの愛する船坂綾ちゃんに決まってるじゃない!」
(バカな……)
ぐらりと、クリティカルヒットの拳を貰った時のように体が揺らぐ。衝撃に脳が麻痺しかける。
実のところ予想していなかったわけではない。何故なら、この場所で綾と待ち合わせしていたのだから。普通に考えれば、声をかけてくるとすれば彼女しかいないのだ。
よくよく見れば、目の前のギャルには綾の面影があった。化粧は濃いが、彼女が本来持っている素地の優秀さがにじみ出ている。
脂汗を滲ませ狼狽している直人とは対照的に、綾はあっけらかんとおどけるように目元にピースなどあてがいながら舌を出して見せる。
「ど、どうしたの、それ……」
彼女を示す指先が震えているを直人は自覚した。
(高校デビューって奴か……?)
可憐な天使が夜の蝶のような姿になってしまった。魅力的と思わないわけではないが、明らかに自分とは別の世界の生き物だ。交流を持つような人種ではない。直人は愕然とした。もっとも、天使と交流が深かったというわけでもないが。
「どう? カワイイでしょー?」
直人の反応など露ほども気にした様子もなく、綾は無邪気だった。
「お化粧とか、可愛いアクセとか、雑誌で勉強したんだよ!」
やけに自慢げだった。花の髪飾りや、肩掛けバックに吊られたぬいぐるみ等を見せつけるように、綾は直人に身体を寄せる。
のみならず、彼女はまたがばっと抱き着いて、上目遣いに潤んだ瞳で見つめてくる。
「ねえねえ、どう思うー?」
「ど、どうって……」
彼女が明らかに同意を求めているのはわかったが、果たして安易に肯定しても良いものだろうか。確かに彼女の可愛さに関しては疑いようもなかったが、いくつかの点で簡単に首肯するわけにもいかなかった。
今日は登校初日である。初っ端からこれは明らかにマズい。問題にならないはずがない。
という実害的な理由もあるが。それ以前に直人は感じていた。裏切られたと。
チクリと小さな棘のような痛みが胸にあった。ほんの小さな痛みだが、無視することもできない疼きだった。
今までの彼女に不満があったわけではない。むしろ好意的だった。清楚で、勤勉で、非の打ち所がない優等生だった彼女に憧れさえ抱いていた。付き合う前は崇敬さえ抱いていたかも知れない。
その彼女を、否定された気がした。しかも、彼女自身に。
「どうして黙ってたの?」
小さく燃える怒りを隠しながら直人は尋ねた。自身の質問が無視されたのも気にする様子もなく綾は答えた。
「だってぇー、ビックリさせたかったんだモーン」
「いや、モーンじゃなくてさ……」
軽い目眩を覚えて頭を抑えた。聡明だった彼女が、ここ一か月でバカになってしまったようだ。何故なのだろう。何か事故で頭でも打ったのか、高校生活への期待感が彼女の理性を蝕んでいるのか。
だが、彼女の顔は大真面目だった。直人の瞳をまっすぐに見つめ、妖艶な笑みを浮かべる。
「どう? これが私、本当の私。私が船坂綾なのよ」
正体不明の得も言われぬ迫力に、直人はたじろいだ。そのセリフも意味が通るような訳のわからないような不気味さがある。僅かばかり背筋に悪寒が走り、場が凍り付いた。男女のじゃれあいを好奇の眼差しで見ていたオーディエンスも瞬間沈黙する。
だがそんな空気も数秒の出来事だった。ちょうど良いタイミングでバス停にバスが滑り込んでくる。軽快なバスの警笛が場を和ませる。
「さあ直人くん、行きましョ♪」
また直人の腕に飛びつき、ネコのような愛嬌を振りまく。その顔は、快活な少女のそれに戻っていた。