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付き合い始めてから数か月。正直に言えば、このように彼女と二人きりで出かけるのは初めてだった。デート、と呼んで差し支えないだろうか。
三月の吹き曝しの風は時期的にまだかなり冷たい。それでも海から吹く風は爽やかに感じる。潮の香りが鼻を刺激し、空では海鳥がしきりに鳴いている。
「海……キレイだね……」
感嘆を漏らすように彼女がつぶやく。海は決して穏やかではなかった。吹きすさぶ風に揉まれて波は荒く、静かな情景の海とは程遠い。しかし沈みかけた太陽を背にして水平線を眺めるこの光景に、彼女はそれでも満足しているようだった。
だが、彼にはそれを楽しむ余裕はない。
彼の名は直人と言う。年齢は十五歳。人生初の女の子とのデートである。
対して、彼女の名前の方は綾と言う。同じ中学校に通っていて、直人の方から告白した。付き合い始めてからしばらく経つが、学校以外での交流はほぼ無いに等しい。かと言って校内でもクラスメイト以上の交流があったとも言い難い。高校受験が控えている時期と言うこともあって、派手に遊び歩くと言うこともできなかった。それ以上に、彼女の家庭事情が大きく影響していた。かなり厳格な家のようで、習い事をいくつかしていて、門限も厳しいようであった。そのため、二人で過ごす時間がなかなか作れなかった。
彼女の横顔を見つめる。長く艶やかな黒髪。柔らかい雰囲気の容貌。所作も雑なところがない。世間一般でいうところのお嬢様というやつなのだろうか。詳しくは知らないが、ただならぬ家柄ではないようだ。本人はあまり話したがらないが。そのミステリアスな魅力に直人は魅かれていた。
(綺麗だなあ……)
夢見心地のように心中でつぶやく。このガラス細工のように繊細な少女が、彼女と言う立場で自分の隣に立っているこの状況が未だに信じられない気分だ。容姿は並、平凡で何も取り柄がない自分の告白が何故成功したのか。少し間違えれば黒歴史になるところだった。それほど思い上がった行動だと思う。直人はそう思った。
ふと、海を眺めていた彼女が、こちらの視線に気づいたように振り向く。彼女はニコリとほほ笑んだ。
それだけのことに直人は耐えられない。赤面し、視線を逸らしてしまう。
(ううう……やっぱ場違いだよな……俺)
青春ドラマかよ、と胸中で突っ込む。
あつらえたかのようなシチュエーションだった。中学校の卒業式が終わってここへ直行した。夕日が空に浮かぶ岬の公園。設置されたベンチに二人で並んで座り、空と海を眺めていた。
(どうしたらいいんだ!)
助けを求めるように胸中で喘いだ。経験もなければ対処法も知らない。
手でも握った方がいいんだろうか。でもそんなこと突然したら驚かれないだろうか?
笑い返した方がいいんだろうか。一度視線を逸らしたのに、もう一回彼女を見て笑うのはタイミングがおかしくないだろうか?
何か気の利いたセリフでもいうべきか。そんなもの思い付くかよクソが!
罵ることで胸の中に溜まったモヤモヤを消したかったが結局は無駄だった。
とにかく、このままではダメだというのは直感で分かった。現状、彼女の言うこと対しても、笑いかけてくれたことに対しても無視する形になっている。有体に言って最悪だ。
がばっと衝動的に立ち上がる。
(どうすればいいんだ!)
再び嘆きの声を胸の中だけで上げる。次の手が思い浮かばない。空虚な時間が数秒流れる。耐えかねて、直人は何も思い浮かばないままただ無意味にツカツカと前へと歩き出した。
岬の突端は崖っぷちになっていて、そこに転落防止用に柵が張り巡らされている。彼はそこの前まで来るとその柵に両手をついた。胸の高さほどあるその柵の向こう側の崖下には、荒く打ち付ける波と岩礁が見える。そのさらに向こうの海は、奥に行くほど穏やかになって行くように見えた。
(さあ、ここで気の利いたセリフを!)
念じる。なんなら祈った。祝福を受けた神の啓示のように、何か降りてきてくれと。
だが、人生とは非情である。何も降りてこなかった。また沈黙が刻々と刻まれていく。
そもそも彼女と付き合えていることが奇跡なのだ。これ以上の奇跡を望むのがおこがましいのかも知れない。これが、分不相応な願いを叶えた男への罰なのか。
結局出たのは情けない溜息だった。不甲斐ない自分に涙が出そうになる。
ふわりと、何か絹のように柔らかい物が自分の手を覆う感覚に、ドキリと心臓を跳ねさせ視線を向ける。
「今日、ここに来れて、良かった」
白く細い指先の手で直人の手を包んで、綾が祈るように目を閉じていた。
まるで風に押されてよろめくような様子で、綾の体が直人に寄せられる。錯覚かと思えるほどの小さな差異だった。
その些細な行動が、直人の心に些細ではない変化をもたらす事を分かって彼女はしているのだろうか。
(ヤバイ、マジヤバイ、あり得ない!)
猛烈にいい匂いがする。シャンプーの香りなのか、それとも女の子本来の匂いなのか。こんな至近距離で女の子と触れ合ったことがない男子には判断つかなった。
鼻孔がくすぐられ、包まれた手は柔らかく、寄せられる体からは体温が感じられる気がした。
ぐんぐんと急速に欲望が膨らんでいく。この清楚で可憐な女の子を好きにしてしまいたい。抱き寄せ、抱きしめてその後なんやかんやしてしまいたい!
だが同時に理性が激しく警告を発していた。やめておけ。痛い目を見るぞ。
もし拒まれてしまったら。
そう思うと膨らんだものも少しずつ萎んでいく。
決して怖気づいたわけじゃない。彼女は可憐な花なのだ。そこらの軽薄なビッチとは違う。簡単に汚し、花弁を摘み取っていいものではない。と、言い訳しながら。
彼はそっと彼女から離れた。
「ほら、もう遅いし、そろそろ帰らないと……ね?」
沈む太陽の加減で時間を計りながら直人は言った。声の動揺を悟られないように、なるべく平静に聞こえるように努める。
振り向くと、彼女沈んだ表情をしていた。ように見えたのは一瞬で、すぐに笑顔を向けてきた。
「そうだね、怒られちゃうね」
優し気なその声に、直人は何か許されたような気がした。
「いよいよ来月から高校生だね。高校生になったら、こんな風に一緒に色んなトコ、色んな事一緒にできるのかな……」
言いながら綾は、そのまま飛び出しそうな勢いで柵から身を乗り出した。崖下から吹き上がる風が彼女の黒く長い髪を撫でていく。
そうだ、綾とは来月から同じ高校に通うことになっていた。辛く長い受験戦争を生き抜いてきたのはこの為だった。遊ぶ時間も惜しみ、彼女と過ごす時間も我慢して、分不相応のランクの高校を希望し、彼女にはランクを下げてもらってやっと実現したのだが。想像するしかないが、彼女の家庭事情を考えれば相当モメたのではないかと思える。彼女はそんなことはおくびにも出さない。
その分、期待が膨らむ。ここまでの苦労が報われる高校生活がきっと待っているに違いない。
「そうだね、受験も終わって時間もあるんだし、これからもっと一緒にいられるようになるよ」
直人は言いながら思わずはにかんでしまう。そうだ、これから時間はあるんだ。焦ることはない。
「私ね、生まれ変わるの!」
唐突に綾がぱっと振り返り、笑顔でそんなことを言ってくる。何故かわからないが、直人はその笑顔に悲壮さを感じた。どうしてそう思ったのかは分からないが。
意味が分かりかねて疑問の表情を投げかけるが、彼女は気にした様子もなく続けた。
「今の私は綺麗さっぱり消えて、新しい私が……そんな……そんな予感がするの」
結局は直人の疑問に対して何一つはっきりとした答えはなかった。話す気がないのか、それともこれですべてを語りきった気になっているのかは分からなかった。
直人がこの言葉の意味に打ちのめされるのは後になってからであった。