17
こんな時間に病院からタクシーに乗り込む傷だらけの少女に対して、運転手は大いに怪訝な様子を見せていたが、逆に異様さが目立ちすぎていた為か、事情を探ってくるような真似はしてこなかった。客商売の鉄則なのか、特別聞き分けのいい人間だったのか、寝間着姿の綾を見れば明らかに病院から抜け出してきたのだろうことは分かっただろうが、それでも詮索されることはなかった。
目的地に着くまで車内は静かなものだった。綾も、直人も、運転手も、剣呑な雰囲気を感じて誰も口を開くことはなかった。
タクシーが停車すると、外はもう白み始めていた。
直人は運転手にありがとうを言うと、ポケットの中の札束の中から一万円を抜き出して彼に差し出した。せめてものお礼にとお釣りを断った。子供が気前よく大金を支払って余計に怪しく思ったかも知れないが、それでも運転手は何も言ってこなかった。
走り去っていくタクシーを見送り、直人たちはゆっくりと歩き出した。徐々に明るくなってきているため足元の危険を察知するのには苦労しない。
そこは以前直人たちが訪れた岬の公園だった。切り立った崖の上から海が見渡せ、水平線の向こうまで遮るものがない。東屋があり、ベンチも設置されていたが、綾は真っ直ぐに海の方へ向かった。
転落防止の柵に身を預けて、彼女は海の方から吹き上げて来る風を浴びていた。彼女の長い髪がバラバラと弄ばれて宙を舞っている。たなびくその髪を手で撫で付けながら、彼女はじっと水平線の向こうを眺めている。
何を語るでもなく、ただずっとそうしている彼女に不安を覚えて直人は尋ねた。
「……ねえ、どうしてここに来たいって言いだしたの……?」
彼女は直人の言葉に振り替えると薄い笑みを浮かべて答えた。
「……来たかったから」
軽く歯を見せて柵から体を離す。後ろ手に手を組んで近づいて来る。
「ねえ……覚えてる? 前にここに来た時の事……」
そう語り掛けつつ直人の脇を通り抜けていく綾。目的もなくただうろつくような足取りでゆっくりと過ぎていく彼女の姿を直人は目で追って見送る。
あの時はただただ楽しかった。彼女と言う華を抱えて夕日に栄える海を眺めるというシチュエーションに酔い、そして未来への希望に溢れていた。何も疑う必要もなく、無邪気にはしゃぐことができた。そんなに昔のことではないのになんだか懐かしいような気持になる。
何か特別な出来事でもあっただろうかと思い浮かべてみるがよく思い出せない。あの時はただ舞い上がって頭がほぼ真っ白だったということしか思い出せない。彼女と何か会話した気もするが、特に重要なこととも思っていなかった。
もちろん覚えているよとうそぶいてみるのは簡単だった。だがそこまで不誠実な態度ができるほど器用でもない。どう答えていいか迷っている渋面を、振り返って来た綾に見られてしまう。
その顔には明らかに失望の色が見えていた。憮然とした表情でうつむき、胸の前で拳を握りしめている。その反応は当たり前のように思えた。
つまり彼女は自分を非難したいのだろうと直人は思った。自分自身、不甲斐ないのは分かっている。男らしくもないし、逞しくもなく頼りにもならない。彼女との会話の内容もロクに覚えてないダメな奴だ。分かっているが、自分の矮小さをどうすることもできない。
彼女は何を求めているのだろう。謝罪か、気の利いた言い訳か、慰めの言葉か。思い詰めた表情でただ黙している彼女の顔を見つめていても、そこに答えは記されていない。
きっと恨めしく思っているに違いない。実質初デートのようなものだったのに、何一つ覚えていないのだから当たり前だろう。きっと彼女にとっては大切な思い出だったに違いない。
罪悪感に駆られながら必死に思い出そうとするも、焦れば焦るほど思い出せない。そうしている間にも彼女はどんどん思い詰めた表情に変わっていく。
何か言わなければ。何かしなければ。何か思い出さなければ。考えだけがグルグルと巡り、ただ時間だけが過ぎていく。情けなさに泣きたい気分だった。
突然に、堪り兼ねたかのように彼女が身を乗り出してくる。そのまま直人の胸倉を握りしめて顔を寄せて来る。痣と包帯だらけの女の顔が迫る。
殴られる。そう思った直人はとっさに彼女の手を払いのけていた。弾かれるように彼女との距離が開く。
離れたところで佇む彼女は酷くショックを受けたような表情をしていた。その顔を見て、彼女が殴ろうと迫って来たのではないと悟った。彼女は、唇を近寄らせてきたのだ。
「ご、ごめん……」
今更謝っても遅い失態だった。どう言いつくろったところで彼女のキスを拒んだと言う事実は消えない。それが故意なのか過失なのか、証明することもできない。
直人の謝意にただ無言で背中を見せる彼女の姿は、同じ場所で立っていたほんの少し前の彼女の影と重なりそうで重ならなかった。
花のようにただひっそりと佇む彼女。口付けを求めて強引に迫る彼女。獣のように唸る暴力的な彼女。相反する色んな姿を見た。どれが本当の彼女なのだろう。別人がいつの間にか綾とすり替わってしまってのではないかと言う気さえしてくる。
「……今の綾ちゃんは本当に綾ちゃんなの……?」
思っていたことがついポロリと口をついて出てしまった。口にして、それがずっと綾に言いたいことだったのだと直人は気付いた。あえて避けていたのかも知れない。聞いてしまえば相手の奥深くまで踏み入れなければならない。恋愛ごっこではいられない。彼女のアイデンティティーに問いかける質問。
「わかんないよ、そんなの」
どこか困り顔で振り返ると、彼女はあっさりとそう答えた。
ふわりと彼女が身を舞わせる。直人が驚く間もなく崖っぷちの柵の上に乗ると、そこにバランスよく立ち上がった。
ちょうど朝日が昇ってくる。それを背後に浴びて彼女は輝いて見えた。突き刺さる光に目が眩む。
「キス、したかったな……」
陽光の隙間から呟きが聞こえて来る。次の瞬間にはその姿が宙に浮き上がる。まるで翼が生えたかのような軽やかさでふわりと、崖の上から飛び上がる姿が僅かに見えた。そのまま舞い上がって行くかのように思えたがもちろんそんなことはなかった。吸い込まれるようにゆっくりと、崖下に呑み込まれて行く。
無論直人は駆け寄ったがもう遅かった。捕まえる間も止める間もなかった。ただ直人は彼女が消えた崖下を覗こうと身を乗り出した。
遥か眼下に広がる荒波は、岸壁に何度も打ち付けられて白い波しぶきを渦巻かせていた。そこには人影はなく、彼女の痕跡は何一つ見当たらなかった。
呆然と水平線の向こうを眺める。新たに姿を現した太陽が、いつもと同じように世界を照らしていた。