15
突如殴り込んできた少女に男たちは動揺しているようだった。屈強な男たちに囲まれていても物怖じしない、どこから見ても普通の女子高生に警戒すべきものを感じて動けずにいる。ただそこに立っているだけでにじみ出て来る妙な迫力が備わっているためだろう。
「このアマァ!」
一番軽率な男が先走って飛び掛かっていく。体格で勝っているため余計な策も考えない。その太腕で小柄な少女を押さえ込んで捕獲しようと突進していく。
組み合ったのはほんの一瞬だった。まるで踊るように綾が一回転する。それにつられるように男の体も踊る。そのまま壁を突き破るような勢いで男の体が叩きつけられる。跳ね返る勢いで男の体が引き倒され、再度男は床に叩きつけられる。潰れたカエルのように床に伸び、喉の奥から奇妙な音を漏らす。
その様子に男たちはより一層警戒感を増した。さすがに喧嘩なれしている様子で、そこいらのチンピラとは一味違うようだった。各々武器を取り出し対峙する。
「やっぱりタダのガキじゃねえなあ。お前さんどこの回しモンだ?」
ボスの発言に綾は答えなかった。ただ静かに周りの男たちを待ち構えていた。
ボスの男が鼻を鳴らす。
「やれ。殺すなよ」
それを合図に男たちが躍りかかった。
まずは金属バットを構えた男からだった。先ほどの綾の手並みを見たためか、無理に間合いは詰めない。にじるように足を滑らせ、間合いに入った瞬間にバットを横に振りぬく。殴られた時の凄惨さを想像させる空を切る音が鳴り響くが当たらない。紙一重で身を僅かに引いて綾はそれを避けた。それが二、三度繰り返されると、綾は壁際まで追い詰められてしまった。
だが、他の男たちは追い詰められた少女に殺到できずにいた。バットの男がフルスイングしているために、それほど広くない――と言って狭すぎるわけでもない――事務所の中で、攻めあぐねていた。
壁際まで追い詰めたことを好機と見たのか、バットの男が得物を大上段に振り上げた。気合の雄たけびと共に振り下ろされる。
しかしそれが完全に振り下ろされることはなかった。まるで男のその行動を待ち構えていたかのように、綾が男の内側へと体を滑り込ませた。男の手元を左手で受け止めて、男の顎に掌を添えた。そのまま男の上体を仰け反らせて床に叩きつける。背中を強打した男が呼吸困難に陥る。
その男に綾が止めを刺そうとする。が、その隙を縫って別の男が踊り掛かって来た。
ボスの宣言はどこへ行ったのか、振りぬかれた刃が綾の喉元目掛けて閃く。倒れた男への一撃を諦めて綾が身を引く。綾の長い髪が数本宙に舞った。
続けざまに、引き戻された刃が綾の顔目掛けて突き出される。彼女はそれを両手を交差して手の甲で男の手首を受け止めると上へと受け流した。そのまま手首を返して男の手首を掴むと、相手の腕を相手の体の内側へと巻き込んだ。腕を極められ身動き取れなくなったところに渾身の蹴りを膝に叩き込む。一瞬通常曲がらない方向に歪んだ脚に絶叫を上げる男。崩れ落ちるその瞬間に、腕を開放して男の顎に肘を入れる。
その男が完全に伸びるのを見送る暇もない。すでに次の男が飛び掛かってきていた。今度は素手の男が綾に迫っていく。その男の構えから鑑みるに、何かしら格闘技をかじっていそうではあった。
綾が素早く身体を舞わせようとした瞬間だった。後ろからがっしりと抱き着かれて身動きが取れなくなった。止めの一撃を免れた金属バットの男が、根性を見せて綾の行動を封じたのだった。
その一瞬の隙を素手の男は見逃さない。すぐさま綾の顔面に拳を叩き込んだ。二度、三度と、鈍い音が響き渡る。
さらに殴りかかろうとする男に対して、綾は封じられていない足を放った。身動きが取れないと油断して大股開きでいた男の股間に直撃する。苦悶に身を屈める男の体を蹴り飛ばす。
抱き着く男はそれでもなお力を緩めなかった。仲間がやられても怯まず、さらに拘束する腕に力を増した。
だがあっさりと、綾はその拘束から逃れた。僅かに身を捻ると、するりと体を沈めて男の腕から抜ける。そのまま飛び上がる勢いで、男の顎をかち上げる。ぐらりと揺れた男をオマケとばかりに投げ飛ばす。
「クソがッ!」
股間を蹴られて痛みと恥辱に憤怒した素手の男が突っ込んでくる。冷静さを失った男の拳など捌くのは造作ないと言った様子で綾は組み付いた。あっさりと男は宙を舞って、その先にあるファイルが収められている棚に突っ込んだ。派手にガラスが割れる音が響き渡る。
「な、なんなんだこのアマ……ッ!」
あっという間に四人の部下を叩きのめされ、さすがにボスの男も余裕がなくなって来たようだった。そのうめき声からは焦りの色が伺える。
「なにしてやがんだ! 相手は小娘たった一匹だぞ!」
真面目にやれとでも言わんばかりだったが、無論男たちが手を抜いているようには見えない。
目の前には冗談じみた強さの女。後ろからは逆らえない頭の命令。尻に火が付いた男たちはもうがむしゃらだった。
一際体躯の目立った男が雄たけびを上げながら突進していく。それは文字通り突進で、殴りかかろうとする素振りすら見せなかった。腰を低く落としてラグビーのタックルのような姿勢で飛び込む。
綾は待ち構えた。そしてカウンターのような形で飛び込んでくる男の顔面に拳を打ち据えた。しかし、ダメージを覚悟して突撃する男はそれでは止まらなかった。身を低くして顎を引いているために致命打にならず、そのまま男に抱え上げられるように綾は壁に叩きつけられる。
綾は今度こそ身動きが取れない。男に腰の辺りから抱え上げられ、身体が宙に浮いた形になっていて足も上手く使うこともできない。足掻く様に拳を振るうが身を丸くする男を怯ませられるような一撃を与えられなかった。
「うルァッ!」
木刀を持った男が駆け寄って来た。じたばたと揉み合っているところに、気合の声と共に木刀を振るう。巨漢の上体から覗く綾の姿目掛けて軌跡を描く。
この体勢では避けることなどできない。綾はとっさに左腕で頭を庇った。すんでのところで攻撃が弾かれ、激しくぶつかった両者が鈍い音を立てる。
骨も砕けそうな強烈な一撃に、さすがに苦悶の声を上げる綾。そこにもう一撃と再び木刀を振り上げる男だったが、なかなか狙いを定められないようだった。押さえている男の頭が近くにあるため、手元が狂ってしまうかもしれないと遠慮がちな様子だった。
なんとか拘束する男の腕こじ開けようと、綾は男の二の腕の間に手を差し込む。だが男の剛腕を綾の細腕で跳ね除けるのは難しいように見えた。
もう一度木刀が振るわれる。手が空いていないために今度は腕で防ぐことができない。直撃を避けるために綾は首を捻る。完全には避けられず、いくらか威力を殺す事しかできない。掠めるように額の辺りを木刀で打ち据えられた綾は頭を揺らした。
一瞬意識を手放すように瞳から光が失われる。しかし次の瞬間にはカッと目を見開いて目の前の男を火のついた眼差しで睨み返した。
咆哮がコダマする。少女の口腔から発せられたとは思えない獣のようなその猛りに木刀の男が怯む。拘束する男も怯えるような様子を見せた。
血管が浮き出そうな形相で、拘束に抗う腕に力が籠められる。瞬間的に少女の細腕が数倍に膨れ上がったかのような錯覚を感じさせるほどに。綾の絶叫に押されるように少しずつ男の腕が開いて行く。男の肩からゴリゴリと関節が擦れる音と、男の苦悶の鳴き声が響いて来る。
力ずくで押し開いた腕の間から滑り降りると、綾は素早く攻撃に移った。素早く貫手で喉を突き、相手の体を後ろに下がらせる。次いで拳でみぞおちに一撃、顎に掌打を一撃ずつ入れる。崩れ落ちる寸前の相手の首を左手で鷲掴みにして倒れられないようにする。指にはギリギリと力が籠められ、男の苦し気なうめき声が聞こえて来る。
再び咆哮が轟く。まるで気合をためるように右拳が硬く握りしめられる。綾は振り上げたその拳を顔面に突き刺した。文字通り、男が吹き飛ぶ。男の巨体が弧を描いて飛び、先客のホスト風の男が荒らした事務机の群れの中に、さらに壊滅的な被害をまき散らしながら沈んでいく。
「な、なんなんだあの女、バケモノか!?」
鬼の形相で荒い息を吐いているを見やりながらボスの男が呻いた。確かにその様相と怪力は化け物じみたものを感じさせるものがあった。この強さは合気道をやっているからと言うレベルの話ではない。敵ではないはずの直人もその光景に戦慄していた。
無数に居ると思われていた男の数も、ここに来て数え上げて見ればもうボスの男を入れても5人しか居なかった。綾の異様さを見ればその数が多いとは言えないだろう。
「なにビビってんだ! さっさと行け!」
完全に腰が引けてしまっている男たちにボスの叱責が飛ぶ。それに押されるように木刀の男が雄たけびとも悲鳴とも分からないものを上げながら突っ込んでいった。
木刀が振り上げられる瞬間、綾が素早く動く。側に落ちていた金属バットを拾い上げて、振り下ろされてくる木刀に向けて叩きつけた。木刀は男の手からすっぽ抜けて、明後日の方へと飛んで行った。返す手で男の横っ面を金属バットで殴りつけて男を昏倒させる。
また一人部下がやられたのを見てボスの男が歯噛みしているのがわかった。舌打ちすると、ボスの男は部下に対して指示を出した。
「オイお前ら、こいつの相手してろ!」
一番近くに居たナイフを構えた男が困惑の声を上げるが、ボスは無視して社長室の方へと移動した。
「おいクソボウズ! てめえはこっちへ来い!」
言われて直人も引きずり込まれる。だが足を縛られているため身動きが取れない。直人はボスの男に床を引きずられながら部屋の奥へと連れていかれた。
「クソ! クソッ! クソッ!!」
ボスは直人を部屋の奥まで連れてくると、床に彼を放り出して社長室の机を荒らし始めた。何かを探してポケットに入れたり、書類のようなものを灰皿で燃やしたりしている。
隣の部屋では激しく戦闘する音が響いてきていた。
「なんで俺がこんな目に合うんだ! クッソ!」
ボスの男が机の下に潜り込んで何かを引きずり出す。どうやら金庫のようだった。手早くダイヤルを回して錠を開けようとしている。格闘すること数秒、カチリと錠の開く音がする。勢いよく金庫の扉を開くとそこには――
そこには何もなかった。男が面食らった顔をしている。ただ金庫の中には一つ、白い封筒が置いてあるだけだった。男の顔を見れば、それが男の欲しがっていたものではないことが伺えた。
封筒には退職届と書いてある。呆気にとられた様子でその封筒を手に取り裏面を見ると、男の形相が怒りに変わった様子だった。裏目には誰かの名前のようなものが書いてある。
「ナメやがってクソがァッ!」
くしゃくしゃに丸めてそれを床に叩きつける。その勢いのままショーケースの上に飾られている日本刀の一本を手に取ると、ボスの男は直人の目の前で抜いて見せた。
殺される、と思ったがそうではなかった。実際殺されそうな勢いであったが、男は直人の足のロープを切ると立つように促した。逃がしてくれるのかとも思ったが、足を縛ったまま連れ歩くのは面倒だと判断したようだった。腕は後ろ手に縛られたまま直人は立ち上がった。
隣の騒ぎが社長室に乱入してきたのはそんな時だった。ドアがけたたましく破られ、吹き飛ばされた男が乱入してくる。手に持ったナイフを取りこぼしながら床を転がり、そのままぐったりとして動かなくなる。
すっと、慌てるでもなく、綾が部屋へ侵入してくる。血の付いた金属バットを手に携え扉の前に立つその姿は、正に鬼の脅威が立ち塞がっているように見えた。
綾が一歩、静かに踏み出そうとするのを見て、ボスの男が直人の首に腕を回してくる。締め上げながら、手に持った日本刀を直人の首元に突き付ける。
「う、動くな! こいつがどうなってもいいのか!」
ピクリと綾が静止するのを見て男は気を良くしたようだった。綾の様子から人質作戦が効かないかもしれないと思っていたのかも知れない。効果があるとみて、僅かに男の声のトーンが上がる。
「そうだよな。大事なカレシだモンなァ……」
警戒しながらじりじりと移動する男。引きずられるように直人もその動きに従うしかない。
「俺たちが部屋を出るまで大人しくしてろよ……」
男が出口に向かおうとする。だが綾は男の言葉にただ無表情に見つめ返し、立ち塞がるだけだった。
「オイ! このガキがどうなってもいいのか!」
人質が有効と分かって男は高圧的になっていた。出入口を指し示すように刀の切っ先を綾の方へと突き付けた。
「さっさとそこどかねえと――」
刹那、風が通り抜ける。直人の頭のすぐ側を重厚な風切り音を残して、男の顔面を金属バットが打ち据える。横面に飛沫を感じて背筋にぞっとしたものを感じて直人は身を震わせた。
次の瞬間には直人は身を投げ出していた。扉の方へ綾に引き寄せられて床を転がる。勢いが治まって身を起こすと、刀を持った男からは大分離れたところに居た。
「ガ……ハァッ……!」
血を流して折れた鼻を押さえる男。のたうちながら男の目は怒りに燃えていた。
「この……クソアマッ……! ぶっ殺してやるッ!」
ガムシャラに刀が振り回される。練達の刀捌きなどではなく、男はただ力任せに振り抜く。
二度、三度と繰り出される攻撃を綾は左右に避け、大振りになったところを一息に詰め寄った。金属バットで刀の根元辺りを受け止めて押さえつける。耳障りな甲高い金属の音が部屋に鳴り響く。そのまま体を使って後方へ押しやった。
体勢が崩れた瞬間を狙って綾が襲い掛かる。あっさりと金属バットを投げ捨てて、男の手元に掴みかかる。ぐるりと手を回転させると男の手から綾の方へと刀が移っていた。あっという間もなく、鉄の刀身が閃く。男の肩口と腹とを薙ぎ払う。男の鮮血が飛び散らないのを見て、直人はそれが峰打ちだったのだと知った。男がうめき声をあげて倒れ伏す。
静寂の中、少女の息遣いだけが聞こえて来る。あれだけいた男たちは皆、沈黙し動かなくなった。綾が刀を遠くに投げ捨てる音が響く。そうして近寄ってくる綾の姿を直人は見上げた。
「大丈夫?」
声をかけられて、その生物が人間だったのだと思い出した。久しぶりに聞く優し気な綾の声。そんな訳はないのだが、そんな心持で直人は頷いていた。
無双を演じていたように思えた彼女だったが、その姿を見ると頭から出血し顔も痣だらけだった。
「痣になってる……痛くない……?」
自分の事は差し置いて、直人の顔の傷を触りながらそんなことを言う。
「だ、大丈夫だよ……。それより早く逃げよう」
早くこんなところ離れたかった。促すと、綾は近くに落ちていたナイフで腕のロープを切ってくれた。
「あ、ありがとう……」
縛られていた手首をさすりながら立ち上がる。それに追随して綾も立ち上がるとニッコリと笑顔を返してくる。
「うん。じゃあ、行こっか」
言うと、突如として綾の顔が険しくなる。跳ねるような動きで直人に飛び掛かって来た。訳も分からぬまま直人はそのまま綾に突き飛ばされていた。
次の瞬間、爆竹のような乾いた音が響いたかと思うと、目の前に赤い飛沫が舞った。その正体が何なのか悟る間もなく、直人は綾と一緒に床に投げ出された。
すぐさま音の正体を探る。その先には、腹を押さえながら立ち上がるボスの男の姿があった。右手をこちらに突き出し、手に収まるぐらいのサイズの黒い物体を握りしめていた。その先端からは白煙が立ち上っている。
綾の苦し気なうめき声が聞こえて来る。目をやると、脇腹を押さえてうずくまる彼女が居た。その手の間からは赤黒い染みがジワジワと広がりを見せていた。
「クソガキがァ……」
男が怒りに震える声を漏らした。
「テメエがどんなにバケモンだろうが、これで勝てるってんならヤってみろや!」
男が叫ぶと、動いたのは男の方ではなかった。綾はうずくまっている姿勢から一瞬で跳ね飛び、近くに転がっていたナイフを男に向かって投げつけた。男が打ち返す暇もない早業だった。
ナイフは回転しながら男の顔目掛けてまっすぐに進んでいく。避けられずに男は反射的に銃を持った右腕をかざした。ナイフは腕に突き刺さり、男は拳銃を手からこぼれさせた。
腹を押さえながら綾が立ち上がる。脇腹を銃弾に貫かれてさすがに足元がふらついているようだった。繊細な動きはできそうもない。苦痛に呻きながら落とした拳銃を左手で拾い上げようとする男の姿を見て、彼女は真っ直ぐに駆け出して行った。頭を両腕で庇いながらただ真っ直ぐに。
男が三発、拳銃を発砲する。一発目は頬掠めて外れた。利き手ではない腕でとっさに狙ったために外してしまったようだった。二発目は肩口の肉を抉った。しかし綾は止まらない。三発目は右腕を貫いたがそれでも彼女の勢いは止められなかった。男の悲鳴と処女の雄たけびが木霊する。
ガラス製のショーケースが派手な音をまき散らしながら砕け散る。男と少女はもみ合いながら、その中に突っ込んでいった。その中から、血まみれの少女が這い出して来る。彼女はニ、三歩後退すると直人へと視線を投げかけた。何か訴えかけるように低いうめき声をあげると、そのままフラフラと虚空を彷徨い崩れ落ちた。
「ク……ソッ……!」
頭を振りながら男が立ち上がる。瓦礫をかき分けながら這い出して来ると、男はぴったりと倒れている綾に銃口を向けた。
「死ねやこのクソアマ!」
まずいと思いつつもどうすることもできなかった。叫びながら引き金に手をかける男の姿をただ見ていることしか直人にはできなかった。
銃声が鳴り響いた。立て続けに二発、炸裂音と共に赤い飛沫が花を咲かせる。左腕と胸にそれぞれ一発ずつ弾丸を食い込ませた男は、血を吐いてその場にばったとりと倒れ伏した。
直人の脇をさっと人影が通り過ぎる。背の高いスーツを着た男前の青年だった。手に持った拳銃を構えて油断なくボスの男へ近づいていく。男の傍らに落ちている拳銃を回収すると、男の首筋に指を当てて脈を確かめたり、傷の具合を見たりと様子を見ているようだった。
「まだ息はあるようです」
その言葉に誘われるように中年の厳つい男が入ってくる。だが青年はその男に言った様子ではなかった。中年の男に護衛されるようにさらにその後ろに控える老年の男に対してだった。年の割にがっしりとした体格の、白髪と髭を蓄えた老人だった。杖を突いて歩いているが、どちらかと言えば伊達で使っているようである。
老人は部屋に入ってくると驚いたような顔をしていた。倒れている綾を見て顔を険しくしている。
「娘の方は無事なのか?」
少々焦りの色が見られたようにも感じられた。確かに血塗れで倒れている綾は重症に見える。
老人に促された青年が綾の様子を確かめる。
「銃創による傷は急所を外れているようですが、内臓や動脈を傷つけている可能性はあります。出血も多いので早めに病院に連れて行った方がいいでしょう」
青年の言葉を聞いた老人は黙って頷いた。そして顎をしゃくって指示を飛ばす。中年の男がボスの男を、青年が綾を抱きかかえて部屋を出ていく。
「キミも付いて来なさい」
老人は向き直って、威厳のある優しい声音で直人に語り掛けた。
「このビル全体が組の傘下とは言え、銃声が鳴ってまで呑気しとるとは限らんからな。面倒になる前に退散するとしよう」
言うと、老人は柔和な笑みを見せた。直人を信用させるほどには好感を持てる笑みだった。




