12
ひた走るタクシーの車窓から、夕日が沈む山の風景を眺めながら、弁護士の守井は動揺を隠せずにいた。街中から離れた郊外の雰囲気は穏やかで、人の心を和ませそうな魅力はあったが、今はその効果は微塵も現れなかった。それでも気を落ち着かせようと、白くなった口髭を指で撫で付け続けた。
知らせが入ったのは昼を少し過ぎた辺りと言ったところか。その電話を受けた守井は今日の仕事を早めに切り上げ、残りの作業を事務所の者に任せて、必要な物を急いで揃えてタクシーに飛び乗ったのだった。それでも街中から郊外まではそれなりに距離があり、タクシーに乗って目的地に向かっている間に日が傾いてしまったのだった。
程なくしてタクシーが止まると、立派な門構えのお屋敷に人の姿が引っ切り無しに出入りする光景が目に入って来た。
守井はさっと一万円札を取り出すとタクシーの運転手に手渡した。そのまま釣りを受け取らずに降車する。
以前ここに来たのはついこの間のことだった。その時と同じ門を、守井はくぐって行った。慌ただしく出入りしている人たちに、すれ違い様に軽く会釈をしながら。
「先生! いらして下さってどうもありがとうございます!」
玄関に着くと、家政婦のキヌ代が恐縮した様子で出迎えてくれた。守井はそれに対して沈痛な面持ちで頭を下げた。
「この度は誠にご愁傷さまでございます。急なことで未だに信じられない想いではございますが、深くお悔やみ申し上げます……」
両者、深く深く頭を下げて挨拶を交わすと、家政婦は快く守井を家の中に招き入れた。
「さあどうぞ、お上がりなってお顔を見てあげてくださいませ……」
そう言って通され、廊下を進んでいく。少し奥まった畳敷きの部屋に入ると、そこに彼女が横たえられていた。顔には白い布が被せられていて様子を窺うことはできなかった。
枕飾りの前に座り、香炉に線香を立てて、リンを打ち鳴らす。甲高い音が室内に木霊する中、合掌する。
「では、拝見させて頂きます……」
神妙な面持ちでキヌ代に許可を得ると、守井は彼女の枕元へ行き、合掌してから顔掛けを取った。
「良い御顔でございますね」
そこにあったハル子の顔は、以前にあった時よりもむしろ血色がよいように見えた。それはおそらく既に死に化粧を纏っているせいなのだろう。葬儀屋の人がやってくれたのか、それとも家政婦のキヌ代が自らしたのだろうか。亡くなった時の壮絶さを思わせるような苦悶もなく、眠っているかのような穏やか表情だった。
再び合掌し、目を瞑って深く黙祷すると、元してあったようにまた打ち覆いを被せておく。
「ご家族はもうご到着されておりますか?」
守井はキヌ代に向き直ると尋ねた。
「ああいえ、もうすぐご到着なされると思いますが……」
話しているとちょうど、廊下をどたどたと複数人で歩いて来る足音が聞こえて来た。
「お母さん!」
先頭を切って進んできた女性がわっとハル子の体に取りついてきた。確かハル子の娘の長女だっただろうかと守井は思い出していた。
「ちょっとどうしちゃったのよ! こんな急に亡くなるなんて!」
そう言って目元をハンカチで拭っている。ハル子も九十を過ぎているので娘の彼女も老齢であった。
(急にと言うことはないだろうに……)
と、守井は思っていた。近年ハル子は体調を崩し気味だった。体も徐々にやせ細り、体力もなくなっていただろうと会っていれば気付いたはずだ。きっと長女は長らくこの家を訪ねたことはなかったのだろう。もしかしたら近況も知らなかったのかもしれない。
それでも、先日ハル子と会ったばかりの守井には突然の事のように感じられていた。死期を悟っていたのではないかと今ならば思えてならない。
「おそらく、心臓発作で亡くなられたのだと思います」
現れた集団の中からまた一人前へと出て来る。恰幅が良く頭が禿げあがった年配の男だった。
「かかりつけ医の高多と申します。奥様は最近体調も優れず、心臓も弱っておいででした。ペースメーカーを入れる手術を御勧めしていたのですが、この歳での手術は心身共に辛いとおっしゃられて……」
言って、沈痛な面持ちを見せた。彼も葬儀に参加するつもりなのか、他の者同様喪服を着ている。
「そう、寿命だったわけね……。なら仕方ないわ」
高多の言葉に納得するように頷くと、長女はハル子の体から離れて手を合わせていた。
「あのぉ……」
その後姿にキヌ代が話しかけた。
「葬儀屋の方がご家族とお話ししたいと」
親族ではないキヌ代では進められない話も多いのだろう。その言葉に長女が頷いた。
「ええ、わかったわ」
「では、私が話を聞いてこよう」
集団の中からまた一人前へ出る。素朴な雰囲気の老紳士だった。
「ええアナタ、お願いします」
長女が頷くと老紳士は部屋を出て行った。どうやら長女の旦那のようであった。
「実は皆さん、私の方にもお話がございまして……」
老紳士が出ていく後姿を見送ってから、守井は話を切り出した。
「あらアナタは?」
不思議そうに長女が尋ねて来た。
「弁護士の守井と申します」
名乗って恭しく頭を下げた。そうして懐から封筒を一つ取り出して見せた。
「実は奥様から遺言状を預かっております」
込み入った話のために場所を移した。卓を囲んで親族が集まっている。楽しく談笑と言う雰囲気ではまったくないが。
ハル子の子供は四人。娘一人と息子三人。その中でこの場にいるのは長女と次男だけだった。長男は長らく音信不通で連絡が取れず、三男は海外に住んでいるため今日中に到着できないようだった。
「本当によろしいのですか?」
守井が尋ねると長女は先を促した。
「構わないわ。海外から呑気に飛んでくるのなんか待ってられないし、兄さんはほとんど絶縁状態なんだから」
長女の口調からは険悪な雰囲気が漂って来る。兄弟仲はそれほど良好と言う訳でもないように思えた。
「分かりました。では少々今日までの経緯をお話ししましょう」
言って守井は咳払いして声を整えた。
「私は旦那様の生前から懇意にしていただいておりました。その伝手で奥様にも今回の件を任せていただいたわけですが……」
すっと遺言状を取り出す。
「数年前でしょうか。奥様に遺言状の相談を受けてお預かりしたわけですが、実は先日もう一度呼び出されて遺言状の変更を承りました」
「どういうこと……?」
きな臭い物を察して、訝し気な表情をしながら長女が身を乗り出してきた。
「何よそれ、おかしいじゃない。まさかアナタ、良からぬことを考えているんじゃないでしょうね!」
色めき立ってテーブルを叩く。
「アナタ、母さんをたぶらかして財産をせしめようって魂胆じゃないでしょうね? そうよ、そうに決まってるわ。大体お母さんが亡くなる直前に遺言書の変更なんて怪しいじゃない! 大方アナタを後見人にしてそこの小娘に財産全部相続させようって腹なんでしょう!?」
言って、部屋の隅に小さく座っている少女を指さした。そこにはこの家に住んでいる綾と言う少女が居た。
「お母さん随分とその子の事気に入ってたものね。私たちに何の相談もせずに家に招き入れたりして……。どこの誰の子か知らないけど、財産目当てでアナタがこの子潜り込ませたんじゃないでしょうね!?」
狂ったように長女は喚き散らした。
「いいえ、滅相もございません!」
言い掛かりに対して守井は即座に否定した。
「お気持ちは分かります。奥様が亡くなったと聞いて、私もあらぬ疑いを掛けられないかと思いました。ですが逆なんです」
「逆……? どういうこと?」
怪訝な表情で問い返してくる彼女に対して守井は答えた。
「遺言状の内容を聞いていただければ分かります」
そう言って遺言状を広げた。
遺言状にはまず、家政婦に対する感謝の言葉が綴られていた。人生の大半をこの家で過ごした家政婦に対する労いは当然のことだろう。そして自分の死後に彼女が金銭的に困らないようにと、退職金に五千萬円を渡すようにと記されていた。
そして次に、子供たちへの言葉と財産分与。固定資産を含めて兄弟で話し合って分与すべしと書いてあった。
「ちょっと待って。それって兄さんに対しても相続の権利があるってこと?」
にわかに長女の形相が歪んだ。
「冗談じゃないわよ! なんであんな男に財産渡さなきゃいけないわけ!? この家さんざん引っ掻き回しておいてふざけるんじゃないわよ! あの人は絶縁状態なのよ!」
「そう言われましても遺言状は正当なものですし、実子であられるならば法律上、最低限の権利が保障されていまして……」
説明するが長女の腹の虫は収まらない様子だった。そんな問答がやや続いた。
と。
すっと部屋の障子戸が開いた。
「そのことについて話に来た」
その気配に、部屋中の視線がそちらに集まった。そこには、豊かな白髪と髭を蓄えた、紋付き袴の厳めしい顔つきをした老年の男が立っていた。弁護士と長女のやり取りのため、誰もその接近に気付かなかったようだ。
「取り込んでいたようなんでな。勝手に上がらせて貰った」
「兄さん……」
長女の顔色がさっと変わった。
「何しに来たの? よくウチの敷居を跨げたものね」
彼女の含む言葉の棘を気にした様子もなく、男は答えた。
「安心しろ。正式な絶縁状を持ってきてやったぞ」
言って守井に対して白い封筒を差し出してきた。
受け取ると、守井はそれを開けて中に入っていた一枚の紙を取り出して広げて見た。
「これは……相続権破棄を記したものですね」
守井の言葉に男は頷いた。
「後々面倒なことになっても困るしな。きっちりケジメを付けに来た」
次いで男は別の封筒を取り出した。
「これは香典替わりだ。受け取ってくれ」
正式に渡すのが憚られたのか、それはちゃんとした香典袋ではなく、どこにでもありそうな茶封筒だった。膨らみ方から見て数百万はありそうだ。
だが、差し出された長女はそれを突き返した。
「帰ってよ。こんなお金受け取れないわ!」
男は少し粘ったが、彼女の頑なな表情を見て諦めたようだった。茶封筒を再び懐へ収めた。
「分かった。色々と世話を掛けた。もうこの家へは来ない」
軽く頭を下げると、男は部屋にいる面々を眺めまわした。そして、別れの言葉を残した。
「達者で暮らせよ……」
その去っていく男の後姿をやや見送って――
長女が疲れたように長い溜息をついてぼやいた。
「とんだ邪魔が入っちゃったわね。さあ、続けてちょうだい」
「は……?」
言われた守井は話を見失いかけた。
「遺言状の続きよ! 早く続けてちょうだい」
「ええ、ああ、はい……」
長女に促されて、守井は困ってしまった。
「あの、何と言いますか……終わりです」
「……え?」
彼女は呆気にとられた様子だった。その彼女に遺言状を広げて見せながら守井は続けた。
「終わりなんです。私が頼まれたのはその……綾さんに関する記述の削除でして……」
長女は綾を良く思っていなかったのだろう。その言葉を聞いて顔が華やいだ。勝ち誇ったような笑みがこぼれる。
「あらやだ、なんだ、そうなの? 私はてっきり……」
おかしそうな笑い声がこぼれる。
「あらそうなのねー。アナタ、何か嫌われることでもしたのかしら? 一言も残してもらえないなんてねー」
それは、彼女にとってショックなことだっただろう。ハル子は自分の死後、家政婦の生活の心配までしていた。それなのに、我が子同然に育てられて来た彼女は今、一体何を思っているのだろうか。その表情からは何も読み取れなかった。ただ空虚に何かを見つめ、静かに正座を続けているだけだった。
「じゃあこの子はどうなるんでしょう?」
気になったのか、次男が守井に尋ねた。
「ええ、はい……まず住居の問題がありますね。このお屋敷も含めて財産分与されますので、ご家族で話し合っていただかないと。生活資金面の問題もありますから、誰か親戚が引き取ると言うことになるのではないでしょうか……」
「そんな!」
長女が声を上げた。
「私は嫌よ! こんな誰の子かも分からない子預かるなんて! 施設にでも送っちゃえばいいんじゃないの?」
「ちょっと姉さん……!」
さすがに本人が居る目の前でそんな話をするのは気が咎めたのか、次男が長女を止める。だが彼女は引き下がらなかった。
「だってそうじゃない! それともアンタがこの子の面倒見てくれるの?」
「そ、それは……」
長女の言葉に、次男は思わず言い淀んでしまった。
と。
今まで沈黙したままだった綾が静かに立ち上がった。そのまま言い合いをしていた二人を見つめる。
「な、なによ……」
不気味な物を感じて長女が呟いた。
瞬間、跳ねあがるような勢いで綾が動いた。側にあったテーブルに手をかけ、咆哮を上げながらそれをひっくり返した。上に乗せられたお茶や茶菓子ごとひっくり返り、酷い有様になった。その場に居たそれぞれが、思い思いの悲鳴を上げていた。
その勢いのまま、綾は身を躍らせた。絶叫にも似た声を上げながら、障子戸を突き破らんばかりの勢いで部屋を出ていく。
しばらく誰も何も言えなかった。呆気にとられた様子で、その場の者は皆、綾が消えていった空間を見つめていた。
外はもう、宵闇に沈んでいた。




