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その決断が正しかったのか、未だに分からない。だが、幸せだった時間があったのは確かだった。後悔と、後悔ではないモノが。
「必ず……生きて帰ってきてください……」
当時ハル子には、既に好き合った男が居た。これから死地に向かう軍人の彼にこんなことを言えば、彼の地で迷いを与えてしまうかもしれない。言うべきではなかったかも知れないが、彼は黙って頷いてくれた。
そして、一抱えはあろうかと言う壺を手渡すと、彼は怪訝な表情を見せるのであった。
「これは……?」
鬼首の壺。それはそう呼ばれていたようである。
医者である父は、そう言う怪しげな物を集める趣味があった。河童の手やら、人魚のミイラなど、時折どこからか仕入れてきては、何やら研究めいた事をしていた。
当然のこと、これらのほとんどは詐話師の口車に乗せられただけのものに過ぎなかった。
そんな中、またもや壺を三つ買い付けて来たのだった。彼女は懐疑的だったが、父はこれこそは本物だと信じているようだった。
そもそも、買い付けた商人から受けた忠告と言うのがまた怪しいものだった。その壺を決して開けてはならぬと言うものだった。その話を聞けばオチは大体想像が付くだろう。開けてみたら中身は空っぽでしたと。
しかし、実際はそうではなかった。
それを知ったのは、父が軍医として戦地へ赴き、留守にしている間のことだった。父は研究書のようにその内容をしたため、その壺に関する逸話や見分結果を纏めていた。綴られていた内容は、研究書と言うよりも日記のような調子で記されていた。
鬼首の壺。詳しい来歴は不明だが、商人の話によれば、それは倉庫を整理したいと呼ばれた武家の土蔵から出て来たものらしい。一緒に出て来た巻物と対になるものらしく、その巻物にはどうやらその壺の使用方法が書いているらしかった。
まず、次期当主となる赤子を、光の入らぬ土蔵の中に閉じ込める。
次に、土蔵の上より壺を投げ入れて割る。または本人に開かせる。
壺の封印を解く時、光が入り込まぬように注意すること。
封印が解かれて一時待ち、土蔵の戸を開ければ鬼神の子の出来上がり。
この儀式を、赤子が三つになる前までに行うべし。
と、端的に言えばそのようなことが書かれているらしかった。
そして最後に、鬼神となったその者が死んだ場合は、首を切り落としてまた回収することと書き記してあった。
それは一般的に、呪術と呼ばれるものの存在だった。
もちろんその時にはハル子は信じる気がなかった。しかし、その研究書を読み進めていくうちに、段々とその内容が真に本物であるように思えて来たのだった。
商人がこのことを家の主に確認したところ、思い出したかのように昔話を語ってくれたらしい。
昔々、都で暴れていた鬼を退治した武士が居たという。その武士は、帝に鬼の首を献上する前夜に、鬼の首をもう一度確認しようと、首桶を開けて見てみたのだそうだ。すると中からおぞましい怨念のようなものが飛び出し、武士に取りついてしまったと言う。その日から武士は鬼のような剛力を振るうようになり、数々の武勲を上げていった。だが、徐々に人が変わったかのようになり、やがては彼自身が鬼のように傍若無人に振る舞うようになってしまった。そしてその武士は他の武士に討たれ、それ以来その首は鬼を生む首として祀られたらしい。
この鬼首の壺、どうやら家宝として代々伝わって来たものらしいが、その当主の代には、逸話だけが残っているだけで、現物はどこにあるか分からない状態だったらしい。その話も、祖父から御伽話のように聞かされていただけで、当主自身その存在に関して甚だ胡散臭く思っていたらしい。商人に壺が見つかったと聞かされるまで、壺の存在を忘れていたほどだった。まさか実在していて蔵から出て来るとは思ってもみなかったようだ。
この壺は家宝であったようだったが、こんな気味の悪い物を手元に置いておきたくないと、当主は言った。商人も気味が悪くて買うのを躊躇った。壺自体は二束三文にしかならない粗末な壺だ。買い取りを拒もうとも思ったが、タダでも良いので持って行ってくれと言うので貰ってきてしまったらしい。
しかしやはり手元に置いておけば呪われてしまいそうな気がして商人も手放したがっていた。そこに現れた好事家がハル子の父だったのだと言う。
そして驚くことに、父はその壺を実際に使ってみて実験を行っていたようだ。
壺は三つあった。一つは保存状態が悪く、壺には亀裂が入り封もボロボロになっていた。中には犬か何か分からないが、獣の頭蓋骨が収められていただけで、期待したような効果はなかった。しかし、他の二つは違ったのだ。
そこからは研究の結果が記されている。父親の見解では、それは寄生虫か何かなのではないだろうかと言うことであった。断言できないのは、それの特性のせいで、それを確かめる術がなかったためだった。
それは、極端に光に弱い性質を持っているらしい。僅かな光をも嫌い、闇に潜み、光を浴びるとまるで蒸発するように体を消失させて死んでしまうらしい。その特性のせいで、正体を拝もうと不用意に開けてしまったせいで、壺の中身を一匹失ってしまったようだ。
残り一つとなってしまって、父は慎重になったようだ。付属の巻物を読み込んで、失敗がないように注意書きと同じように鬼の子を生み出してみたらしい。無論、人で試したわけではない。子ネズミを使った動物実験だった。
父は、動物でも人と同じような効果が得られるのではないという予測を立てていた。一つ目の壺に獣の頭骨が収められていたためだった。
始めのうちはネズミに目立った変化は現れなかった。しかし、しばらく観察していると、その変化が如実に表れ始めた。比較対象として飼って居たネズミたちの中に居て、明らかに目立ち始めた。
生命力の向上、運動能力の飛躍、傷への耐性、驚異的な回復力、そして、知性を帯びたようなこちらを窺う眼差し。
実験のために非道な行いもした。そして、父は恐ろしくなったらしい。そのネズミの目が、自分を警戒するような、敵視するような目に見えて、父はそのネズミを処分してしまった。
そして次に父が考えたことは、もっと長期的、安定的に観察したいと言うことだった。壺の効果が実証され、もう非道な実験をする必要もない。次に望むのは、観察対象の自然な状態での経過観察だった。
父は、良く訓練された犬ならばそれが可能だろうと考えたようだった。数年かけて躾けられた忠犬ならば制御も容易だろうと。
ハル子もその事について覚えていた。その犬は、自分たちの家族として少し前まで一緒に過ごしていた犬だった。そして、その最期も覚えていた。
賢く、偉丈夫で、良く人に懐く犬だった。しかし歳を取ると、言う事を聞かなくなり、凶暴になって行った。時代が戦争の足音が聞こえ始めた頃、逃げ出してしまった際の危険性も考慮し、父が泣く泣く殺処分することとなった。
欲求に対する忍耐の欠如、社会性の喪失など……
そこにはそう記されてあった。どうしてそうなってしまうのか、父にも明確な答えは出せなかったようだった。
そしてそれ以降、実験は行われていない。人に使えばどうなるのかと言う好奇心はあっただろう。そのため、自身で試してみようかと言う葛藤があったようだ。だが最終的には踏みとどまったようだった。
これさえあれば、苛烈な戦場でも生き残れるかもしれないと言う想いが、父にはあっただろうか。そのことについての文言は記されていない。軍医とは言え、身に危険が及ばないとは限らないだろう。それでも、父はこれを使うことをしなかった。
ハル子は、彼に対して、それを使ったのだった。
戦場で、不死身と称されるほどの戦いを見せた彼には秘密があったのだ。
彼は瀕死の重傷を受けながらも戦い抜き、そして生き残った。紆余曲折を経て、彼は帰国し、ハル子と結ばれた。必死に働いて財を成し、子を何人も設けて、年老いて、そして死んだ。その時間は間違いなく、幸せだったのだ。
そして、幸せではないモノもあった。ハル子はそれをずっと眺めて来た。いつも傍らに居て、旦那と旦那ではないモノを見つめていた。
観察して分かった。アレは悪魔だった。人の中に潜み、何もかも奪っていく。記憶や思い出も、そして身体さえも乗っ取って、最後には完全に成り代わってしまう。
旦那は葛藤しているようであった。自分の中に居るもう一人の自分に。それは年々深刻さを増していき、年老いて白髪が目立つようになる頃には、気難しい偏屈な老人のようになってしまっていた。普段は気の優しい夫であるのに、時折癇癪を起して怒鳴るのだった。子供が大きくなっていくと、次第に衝突も多くなっていき、独立した子たちはみんな家を出て行ってしまった。
晩年の夫は疲れ切っていた。自分の良心と、それに反発する人間性に、自己嫌悪さえ抱いていたようだった。そんな夫を見守るハル子も辛い思いをしていた。それの正体を知っていたから。
夫は気付いていただろうか。そして自分を許してくれていたのだろうか。許されなくとも構わない。それでも自分は願わずには居られなかったのだ。たとえ悪魔と契約するようなマネをしてでも、僅かな希望のある未来を。
ハル子にとって計算外だったのは、綾の症状の進行の速さだった。夫の例を鑑みるに、あの悪魔に体を完全に乗っ取られるまでに数十年は掛かると思っていたのだ。だが綾が見せる急激な変化にハル子は戸惑った。
病状が回復し始め、他の子よりも少し運動が得意になって行った。そこまでは予想を超えるものではなかった。だが段々と彼女の身体能力が超人染みて来るとハル子の不安は増していった。そして徐々に彼女が言うことを聞かなくなってくるに連れて、ハル子は確信していった。彼女は憎き敵になったのだと。
幸せだった時の記憶が去来し、霧のように散り、胸を締め付ける思いだけが残る夢の中で。
彼女は頬を伝う涙を感じ、乾いた手のひらでそれを拭った。
ハル子が目を覚ますと、もうその世界には愛する人はこの世には居なかった。だだっ広い屋敷の中には、空虚な風が流れているだけだった。あの憎き相手にすべて奪われた。
愛する人たちはあの世に居る。もうすぐ自分もそこへ行くのだろうと言うことをハル子は感じていた。
否とかぶりを振った。自分は同じところには行けないだろう。自分のゆくところは地の底だ。悪魔と契約した人間はそこへ行くのだと相場が決まっていると、彼女はそう自嘲した。
だが、タダでやられはしない。抵抗してやるのだ。お前などに屈しないと言う意志だけは示しておかなければ。そう念じて彼女は横たわっていた布団から身を起こした。傍らに置いてある呼び鈴を持ち上げる。
軽く振ると、静けさに支配されていた屋敷に染み渡るように音が広がっていく。滑るようにして、家政婦の彼女がやって来るのだった。
「奥様、お呼びですか?」
遠慮がちに覗き込みながら訪ねて来る。ハル子は頷くと、弱々し気に頼んだ。
「ちょっと電話を掛けたいところがあるの……持ってきてちょうだい……」
「分かりました」
そう言うと家政婦は、現れた時と同じ軽やかさで部屋を離れていった。
それは、巨悪に対してのほんの小さな抵抗なのかも知れないが、彼女はそれを決断した。




