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「最近はどうなのよ、噂のお隣のカレは」
「どうもこうも相変わらずって感じ。カレの方はなんだか頼りなさげだし、カノジョの方は最近大人しくしてるつもりみたいだけどやっぱどこか変だし、今日もお弁当持参で通い詰めてたし」
「それアタシも見た見た。あの空気読めてない感じの運動会弁当でしょ? やっぱあの子どっか変だよねー」
「やっぱさー、イイトコのお嬢様ってどこかズレてるんだろうねー」
「えー何その情報、アタシ知らないんだけど」
「なんかすごいデッカイお屋敷に住んでるらしいよ。この学校にも家の圧力使って入ったんじゃないかって噂だし」
「えーマジでー? てかお嬢様なんだからもっといい学校入ればいいのにねー」
「そんなのカレシに合わせたに決まってるじゃん。どうみても平凡なサラリーマンの息子ですって顔に描いてあるし」
「頭もまあ悪いようには見えないけど、フツーって感じだよね。顔偏差値も並みって感じだし。むしろなんであの二人付き合ってんのって感じしない?」
「カレシの方がよっぽど上手く騙したんだろうね。ああいう一見モテなさそうなのが結婚詐欺とかするんだよきっと」
「えー、あのマヌケ面がそんなの無いでしょー。むしろアレでしょ。初日の時の様子見るにカノジョの方が色々ありそう。お嬢様特有のお家事情みたいな?」
「あーそれありそうだよねー。キビシイ躾にグレちゃってみたいな?」
「そうそう。ガラにもなくハデ格好しちゃってさー。ちょー恥ずかしいねー」
「ウケるー」
「あのカレシじゃあ彼女のこと支えてあげるとか絶対無理だと思うな」
「うんうん、彼女カワイソー。男見る目無さすぎぃー」
「あの二人絶対別れるね」
「まあ見てる方としては精々がんばって欲しいって感じだよねー」
「アハハハハー!」
今日も今日とて鐘が鳴り、一日が終わっていく。ルーチンワークのように毎日が巡り、つつがなく終わっていく。実際のところ学校生活などそれと大差はないようなものである。流れに沿っていれば誰でも問題なく終わっていく。
学校掃除とは清掃を通じて心の汚れも払うという日本独特の教育思想に基づいているが、行っている本人らにその自覚があるかどうかは甚だ疑問がある。効果の程は置いておくとしても、高尚な思想に基づいて清掃に取り組んでいる生徒と言うのはそう居るものではないだろう。彼女もその無自覚の大多数の一人だ。
教室内の机を移動し、軽い掃き掃除をして、ゴミを集めて集積場まで持っていく。毎日の締めくくりのイベントに、別段何を思う訳でもなく淡々とこなしていく。なんなら友達と雑談しながらでも出来る余裕もある。
「あ、大丈夫? 手伝うよ」
彼女がゴミ袋を抱えて教室を出ようとするのを見かねたかのように、噂のカレが声をかけて来た。
「えっ、大丈夫だよ」
正直心配されるような量のゴミでもない。一クラス分のゴミでそれなりの量はあっても、決して抱えきれないほどの量ではない。しかし彼は引き下がらなかった。
「でも、いつも昼休みに席借りちゃってるしこれくらいは手伝わないと」
余計な気遣いだと内心げんなりとする。彼としては善意以外の他意はないのだろうが、それだけに断るのも難しい。さっさと終わらせて、どこか適当なところに友達と立ち寄ったりしたかったのだが。まあ少々面倒くさいが隣人との関係を悪化させてまで断るほどの手間ではない。
「じゃあ、お願いしようかな」
ファーストフードでも売りそうな営業スマイルで彼女は答えた。二つあるゴミ袋の一方を彼に手渡して教室を出る。
彼とはそこまで親しい間柄と言うわけではないが、席が隣と言うことで何かと関わることが多かった。もちろん清掃班も一緒で、彼女が教室を掃除するならば彼もオマケのように付いてくるという訳である。
「彼女さんとは最近どうなの?」
社交辞令のためでもあるし、友人との会話のネタのためでもある。彼女が尋ねると、彼は複雑そうな顔をした。
「いやあ、問題ないと言えばないけど、あると言えばあると言うか……」
見ていて実際そうなのだろうと思う。諸々の問題に目をつぶれば、一見順調なように見える。彼女の所見では、一番の問題はこの男がどこが問題か理解していない所なのではないかと考えていた。
「最近、彼女のことが分からなくなってきて……」
実際彼の言葉は彼女の推測を裏付けているように思えた。自分の彼女がどういった問題があるのか興味がないのではないだろうか。一度として彼女の身の上など想像したこともないのだろうか。質問すらしたことがないのではないだろうか。
(なんか彼女にちょっと同情しちゃうな)
質問する度胸もない腰抜けなのか、それとも想像する脳すらないニブチンなのか。どちらにしても自分の彼氏にしたくはない男だ。悪い人間ではないが、善人でもない。主体性のないツマラナイ男でしかない。
(本当になんでこんなのと付き合ってるんだろう……)
永遠に解けることのない謎かもしれないが、恋愛と言うのはそういうものなのかも知れない。条件さえ揃えば不合理な流れに身を任せてしまうものなのだろう。そんな恋愛などしたことがないので想像するしかないが。
(ダメな男に引っかかるタイプって奴なのかな?)
彼の顔を見ると実に情けない顔をしている。助けを求めるような憂いの目を向けられるが、あまりこの面倒ごとに手足を突っ込みたくない。傍観者の位置が一番良い。
「そうなんだ……色々大変だね」
案外手伝いの申し出をしてきたのはこのお悩み相談が目的だったのかもしれない。が、適当なことを言っても責任が取れない。曖昧な返答でお茶を濁しておく。
相手は明らかに落胆した様子だったが、わざわざ面倒ごとに首を突っ込むのも馬鹿げているので気付かないフリをしておく。
しかし彼女は気付いていなかった。すでに片足を突っ込んでいることに。
彼女が階段に差し掛かった時だった。何気なく階段を降りようと足を一歩踏み出そうと足を浮かせかけた瞬間、背中に何かがあたった。強い衝撃ではなかった。撫でるような軽さで押し出された体は、あっさりと重心を見失った。踏みしめるべき地面を探し宙を彷徨ったが無駄だった。もうこの体勢からは一段目を踏むことはできない。躊躇している間に二段目もすぐさま候補から外れていった。加速度的に選べる選択肢が失われて行き、もう彼女には階段を転がる選択しか残されていなかった。
体が階段を転げ落ちていく。何とか押しとどめようとするが何も取っ掛かりが掴めず、下の方へと押し流す力に抗することはできない。なんとか頭を抱えそこだけは死守する。あとは加速度的に落ちていく自分の体を他人事のように考え、祈ることしかできなかった。
どうにか体の平衡を取り戻したのは、階段の踊り場まで落ち切った時だった。やっと体が地面を掴み、跳ねるように身を起こした。
あれだけ派手な階段落ちを演じた割には体に大したダメージも感じない。変に転がり落ちてどこかにぶつかるのだけは避けたかったので、身を横たえて転がったのが幸いしたようだった。ただ心臓だけが底冷えした苦しさを発していた。
階段の上で呆然としていた男がやっと駆け寄って来た。大丈夫かと声をかけてくるが、彼女の目に飛び込んできたのはその姿ではない。見上げれば否が応でも目に飛び込んでくる。二階から三階への上り階段から女が見下ろしてきていた。ぞっとするような冷たい目で一瞬視線が合ったような気がしたが、すぐにその姿は上階へと消えていった。
彼女はすぐさま保健室に連れていかれた。しかし余程上手く転んだのか、大した怪我はないようだった。保険室の先生には念のために病院に行くように薦められたが、事を大きくしたくなかったために彼女はそれを断った。
深刻なのは、精神的なダメージの方であった。彼女は保健室に行くまでの間、記憶がほとんどなかった。ほぼ呆然自失の状態で、保健室の椅子に座らされて先生に質問を受けて我に返ったという始末だった。
あの目が忘れられなかった。底冷えするような黒い眼差し。生まれて初めて殺気にも似た物を向けられた瞬間だった。人から死ねと罵倒されるのとも違う。もっと具体的な感情を思わせる暗さを持っていた。
(どうして――)
意識せずに手が震えていた。掴みようのないものを握りしめるように拳を固める。
(どうして私、突き落とされたの……?)
分かりそうでまったく分からない謎だった。思い当たる理由はいくつかあるが……。
友達と交わしていた陰口が、あの女の耳に入ったのだろうか?
無くはないのかも知れないが、可能性としてはどうだろうか。注意を払っていたわけではないが、陰口を叩いてる間に彼女の気配は感じなかった。誰かが告げ口したとも考えられるが、クラスの中でも浮いた存在になりつつあった彼女に、それを知らせる友人と言うのも思い浮かばない。
浮気を疑われていた可能性。自分の彼氏の隣の席の女を、内心疎ましく思っていたかも知れない。
楽し気に会話しながら並んで歩いている姿を目撃して、突発的に行った可能性――
(冗談じゃない……!)
ぞっとする。まったくもって冗談ではない。どれを取っても階段から突き落とすに至る動機には思えない。
が、自分の認識が甘かったのかもしれない。あの女の執念や嫉妬心と言ったものに対する警戒心が足りなかったのだ。入学式のあの騒動で気付いておくべきだった。好奇心で関わるべきではなかった。
一瞬だけ、復讐してやろうかと考えが廻ったが、その方針はすぐさま振り払って否定する。証拠なんかなくても今回の件の噂を流してやれば、多少はあの女は困るかも知れない。しかし、相手は突飛な発想をする女だ。また報復に何をされるか分からない。
目の前に、愛想笑いのようなものを浮かべて、大丈夫かと聞いてくる男が居る。その凶器のような笑顔に対して、彼女は言い放った。
「ごめん、もう私に関わらないで……」
彼にとっては何を言っているのか訳が分からなかっただろう。あの女の姿を目撃したのは自分しかいない。彼にそのことを言えば信じて貰えるかも知れないが、だから何だと言うのだろう。あの女の怨念をますます買うだけかも知れない。
彼の周りでは今後もこう言った事が続くのだろうか。しかし自分にはもう関係がない。もう関わるつもりもない。そう心に誓って、彼女はその部屋を後にした。直人が呆然とした顔をしているのかも知れないが、その顔を見ることもしなかった。




