プロローグ
全話合わせて本一冊分くらいのボリュームの作品にしようと思っています。
投稿は不定期、シーン毎に書きあがったらしていきます。
暗く、冷たい空気の淀んだ土蔵の中。そこは静謐だった。何者もそれを侵すものはない。自分以外は。
少女は虚空へと手を伸ばした。見えはしないが、そこには箱があるはずだった。木造りで飾り気のないただの箱。
指先がそれに触れて音を立てる。守られていた静寂さは乱され、彼女の手でその木の箱の蓋が開かれていく。それほど難しいことでもなかったが、一切の光明がないこの状況ではただ手さぐりに進めるしかない。
聞かされていた話では、この箱の中には陶器の壺が入っているはずだった。その壺を開くこと。少女が言いつけられていたことはそれだけだった。難しいことではない。
なんの意味があるのか。見当もつかなかったが、聡明なお婆様の言いつけにはいつも意味があった。意味のないようなことでも、お婆様のいう言葉には間違いはない。そういった信頼感があった。
ただ、不安がないわけではない。暗い土蔵に閉じ込められ、何が入れられているかもわからない壺を開けるなど、幼い少女にとって恐ろしくないはずがない。
何の意味があるのか。何が中に入っているのか。
ひんやりとした陶器の感触が指先に伝わってくる。紐で縛られ、封をされている様子も確認できる。
勇気を振り絞る。震える手を抑えながら紐を解き、蓋と思われる壺の上部へと手を置く。
「壺はもう開けたのかい?」
蔵の外で待っているお婆様から促される声で、初めて自分がその体勢のまま数秒ためらっていたのだと気づいた。少女は慌てたように声を返す。
「い、今、開けます……!」
言葉とは裏腹に手はすぐには動いてはくれなかった。先ほど振り絞った勇気が急速に萎んでいく。それでも彼女は、強い意志と万力の祈りを込めて、そろりそろりと蓋を開いていった。
壺の中からふわりと、風が通り抜けていった。
いや、通り抜けていかなかった。
風よりも質量のある何か。淀んだおぞましい何かだ。暗闇の中少女に襲い掛かり、粘液のように彼女を捕らえた。
思わず悲鳴を上げる。蔵の外にいるお婆様が飛び込んできてくれるのを期待して助けを求めた。
声は出る。呼吸もできる。しかし、少女の顔面には正体のわからない暗闇がまとわり付き離れようとしなかった。抗おうにも、闇を掻く手には手ごたえがなく、正に風に手を晒しているのと変わらない。
半狂乱で叫び続けるが、彼女は飛び込んできてはくれなかった。ただ蔵の戸の外で中の様子を窺っているのは分かった。なぜ助けてくれないのだろう。思いながら、少女は叫び続けていた。
大事な何かが侵されているのがわかった。闇が、どことも言わず侵入してくる。彼女の顔面全体から、口とも鼻とも言わず、毛穴という穴すべてから、にゅるにゅると押し入ってくる感触に全身を戦慄かせた。
気が付くと、少女は泣いていた。自身の漏らす音を、まるで他人事のように彼女は聞いていた。
自分以外の気配を探ったが、自分以外に在るものはなく、そこには変わらずに少女が居るだけだった。先ほどの出来事が嘘だったように。辺りは静かで、優しい闇が広がっている。少女だけが音を立てていた。
「どうやら……終わったようだね」
事態の顛末を察知した年老いた声が、そう言って土蔵の中に入ってきた気配がする。少女がふっと顔を上げると、灯りを持ったお婆様が立っている。いつも温和な表情を崩さない老婆が、今は厳しい顔つきで睨みつけるように見ていた。
「……おばあ……様……」
そう呟きながら、ふと気が付いた。彼女が見ているのは自分ではなかった。悲しげな、仇を見るような目で射竦めていた相手は、彼女の眼前に置かれていた壺だった。
蓋が開け放たれたその中には、誰の物とも分からぬ頭蓋が、こちらを見つめていた。