第五夜
ここで少しだけ、地上の出来事にも触れておきましょう。
これは都市歴二百二十年のこと。その年の夏、透き通った真昼の蒼穹を引き裂いて巨大な雷がひとつ、塵埃吹きすさぶ竜骨山脈の一画に落ちました。
文字通り晴天の霹靂たるこの稲妻は、ローレルキャニオンより東の方角、距離にしてわずか三里ほどの山裾にあった大岩を真っ二つに打ち割って、その裏にすっぽりと隠されていたものを外界に露見させました。
ほどを経ずして落雷場所の検分に訪れた騎士団の分隊は、これを目の当たりにして全員が言葉を失います。緻密な作りのレリーフに飾られ、見慣れぬ言語でなにごとか記された洞穴の口……落雷の現場に現れていたのはそれでした。
博識の分隊長はすぐさま領主にありのままを報告し、その結びにこう附言しました。
「おそらくは……いえ、ほぼ間違いなく、ドワーフ族の遺跡でございましょう」と。
確証はただちにとられ、分隊長の言には裏付けがなされます。洞窟の正体はまぎれもなくドワーフ遺跡。他のすべての例に漏れず、魔物どもの住み着く迷宮へと成り果てた地下都市でございました。
さて、『深い仁愛と正義の心』でおなじみの当時まだ若きローレルキャニオン侯は、領地図面に唐突に浮かび上がった魔境におののきながらも、同時にその正義感から強い使命の念を疼かせておりました。
「本来地下都市の主たるべきは魔物どもにあらず。その真の所有者にはドワーフ族こそがふさわしい。異存はあるまい?」
臣下を集めた席で同意を求めるようにそう言うと、彼は返事も待たぬうちに一人納得して頷き、はやくも次の日には具体的な考えを纏め上げてしまったのです。
地下都市を魔物どもより取り返すための、聖戦の筋書きを。
とはいえ、些か思いこみの激しいところはあるものの 彼は決して暗君ではございませんでした。自らの理想を今ひとつ身勝手なものとわきまえており、それに家臣や領民を巻き込むことを良しとはしなかったのです。
「騎士団の手を煩わせることなく、では、別の者たちを送り込めばよいのだ」
彼の閃きはこのようなものでした。
後日、領主の居城に接する大路には、次のような立て札が設置されます。
『都市東方に突如として現れたドワーフ遺跡に関して、領主家はこれを占有とせず。冒険者諸君に広く開放することをここに記す』
これとまったく同じものが、近隣のいくつかの都市にも立てられました。
簡素極める文面は、読む者の想像力によって期待をどこまでも膨らませます。口から口へと語られて、多くの人に伝わります。
かくしてそれから一年を待たずに、ローレルキャニオンは冒険者たちで溢れかえる有様となったのですが……。
ああいえ、他ならぬ皆様のこと、これらの経緯をご存知でないわけがありませんでしたね。
失礼をいたしました。
さぁ、余談はここまでです。
物語に戻りましょう。
■
血は水よりも濃く、親子の縁は他人とのそれよりも強固なもの。父から息子へと人生は受け渡されて、母から娘への命の循環の中に人々の歴史は刻まれます。
そしてそれは、皆様、我らが親子にもまた同じことがいえるのです。
暗き迷宮の内にも、ひとつの世代交代はありました。
ここに至り、主人公は母から娘へと交代します。
物語の焦点は、ジズからオーリンへと移り変わるのです。
大勢の魔物に祝福されて生まれ落ちた、あの赤子へと。
■
人間族の常識から著しく乖離した生育の場にありながらも、魔物どもと山羊頭、そして狂人の母のもとで、オーリンが愛情に飢えたことなどただの一度としてありませんでした。
彼女が赤子の時分には子守役を志願する連中が殺到しましたし、種々の贈り物を持参するものも日々数多。
オークどもは豚面に似合わぬ手先の器用さを発揮し、なめした皮などから産着や子供服を作っては次々にこれを神殿へと届けました。まだ小さな物を掴むのがやっとのうちから石器や骨の武器を贈る気の早い者どももいれば、迷宮内や森に自生する花々をそっと揺りかごに添えるのは妖精たちです。
揺りかごと言えばこれはコボルトとリザードマンの合作で、仕上がりには山羊頭すらが感嘆した逸品でございました。
不思議なことにはジズもまた、授乳の前後だけはその瞳に宿した狂気の色を薄くしました。そうして乳を吸う我が子に向ける眼差しは 尋常の母たちと何ら変わらぬ優しさに満ちたもの。
少しばかり風変わりではあったものの、このようにオーリンに注がれた愛と慈しみの念は、街で産まれた子供らと比べても同等。いえ、それ以上でございました。
ですが、その育ちぶりだけは同等とはいきませんでした。
あ、いえ……これは、ともすれば誤解を招く表現でしょうか。
ええ、ええ、別に問題があったというわけではないのです。
とにかく、オーリンの成長の過程には、同年の子供たちはおろか、人間族の常をも逸脱した面がしばしば見受けられたのです。
たとえばそのひとつが、実母ではないもうひとつの母性により培われたもの。
最初の遭遇のときより親子の絆でジズと結ばれた白虎は、もちろんオーリンに対しても同様の可愛がりようを見せました。山羊頭と並び神殿でもっとも多くの時間を二人と過ごし、また日に一度は必ず、産着の襟首を銜えてオーリンを地下迷宮の外へと連れ出しました。
枝や雑草に赤子が傷つけられぬよう細やかな注意を払いつつ、薄暗い原始林に自ら拓いた獣道を通り抜け、そうしていつも白虎がオーリンを運んだ先は、斜めに差し込んだ陽光に温もる草の上でした。
魔獣の高い知性から、人間の赤子の健やかな成長には太陽の光が不可欠と、そう知ったうえでのこの散歩だったのです。
ですがこの日課がオーリンにもたらした変化は、当の白虎もまったく予期せぬ誤算でした。
暗い迷宮で多くの時間を過ごし、時折陽光を浴びに森へと連れ出される。そんな習慣の果てにオーリンが手に入れたのは、まるっきり白虎のそれと同じ機構を有した瞳。夜と昼、明と暗の双方を見抜く、これなるは一種の魔眼でございました。
人間族の身では通常、魔術師の視力強化呪文により一時的に同じ能力を有するにとどまる魔獣の瞳を、オーリンは自然な機能として自らに備えてしまったのです。
この僥倖と並べて語られるべき次なるひとつは、母性に対しての父性とでも申すべき、山羊頭の親心により育まれた一面です。
オーリンがはじめて言葉を口にしたのは、生後九ヶ月をわずかに満たさぬある日。地上の刻限に照らし合わせれば昼餐時のことでございました。
曖昧な音の作りで、しかし二度、三度と、同じ言葉を反復したのです。
人間の言語で。
山羊頭のある思惑が、最初の実を結んだ瞬間でありました。
――いつの日か年頃の娘となるオーリンに、地上へ戻り同族と暮らす選択を残してやってもよかろう。
そんな将来を見据えたうえで、彼は熱心に人間の言葉で彼女に話し掛け続け、はたまた物語もわんさか聞かせていたのです。
顔色や挙動はまったくいつも通りを取り繕いながらも、もちろん内心では叫び出しそうなほど大喜びの山羊頭です。それからはいっそう熱がこもった様子で、主人公たちの人類であるか魔族であるかもお構いなしに、数々の冒険譚を赤子に語って聞かせました。
これに応えるかのようにオーリンも次々と物や現象の名を覚え、それらの言葉を継ぎ合わせてお喋りをはじめるまでには、さらに半年を待ちませんでした。
ここまでならば山羊頭も、ただただ満悦のうちに「まったくなんと利口な子」などと嘆息するに過ぎなかったでしょう。
しかし、オーリン二つの誕生日。この日彼女が口にしたのは人間の言葉にあらず、明らかに魔族のそれでございました。
山羊頭の唱えた魔神への祈りの節を、そっくりそのまま復唱して、にっこり笑ったのです。
無邪気な笑声の前に、絶句して凍り付いたのは山羊頭です。
そもそも魔族の言語とは、数多ある人間族のそれとは本質からして異なるもの。言の葉はそれそのものが呪言の韻律さながらの魔の息吹です。原理を心得た高位の妖術師でもなければ人間が真似ようなどは到底不可能な代物なのです。
ですが、オーリンはほとんど見事にそれをなぞったのです。擦過音のような乾いた高音と、断末魔のように湿った低音を絡ませた音を、人間の舌で模倣したのです。僅かながら魔力の蠢動も、山羊頭はこれに感じ取りました。
さぁ、この日より、山羊頭の教育はさらに白熱します。人間の言葉と共に魔族言語も仕込もうという彼の試みは、貴族の子供が施される英才教育も真っ青ではございませんか!
やがて三歳が四歳となり、四歳が五歳になります。
そうして当初の年齢に倍する六歳になった頃、悪魔と少女とは両方の言語を気まぐれに用いて会話するほどになっておりました。
……少女。
そう、既にオーリンは赤子ではありません。このようにして幼児期は過ぎ去り、オーリンは少女と呼ばれる年齢にまで成長したのです。
この頃になると、はやくもオーリンは魔物どもに混じり迷宮内を駆けずりまわって遊ぶようになっておりました。
申すに及ばず、彼女が遊び相手に欠く事情などあろうはずもなし。
では一番の親友は誰であったのかといえば、これがなんとあの白虎の子供! あの母性の化身をそっくりそのまま小さくしたような、真っ白な体毛と真っ赤な瞳の雌の若獣でございました!
オーリンが一歳のとき、母白虎がどこからともなく銜えて連れてきたのが、子猫さながらの大きさだったこの一頭でした。本当に彼女が産んだ子なのかを知るものはおらず、ですが誰もが、当たり前のように二頭を親子とみなしました。
よちよち歩きのオーリンは一目でこの子猫に興味を抱き、子猫のほうもすぐにオーリンに打ち解けました。
それからの二者の関係は、これはもうまるで本物の姉妹のよう。オーリンは毛深い妹をしみじみと可愛がり、子猫のほうも母親を超えて姉を慕ったのです。この関係は妹の方がむくむく成長して、姉の体の数倍の大きさになったあともまったく変わりませんでした。
母親譲りの魔獣の力を次々と開花させる妹に、負けるものかと張り切る姉。そうして共に遊び育つうちに、オーリンもまた猿もかくやの鋭敏な身のこなしと、それを可能とする強靱な足腰を身につけてゆきました。
暗がりに抱かれて、まさしくオーリンは愛情の受け皿。
愛されれば愛されただけ、際限なく新たな素質を開花させて成長する、迷宮の寵児。
生まれついての人間の知性。魔物たちにより培われた野性。そして、山羊頭により育てられた魔性。
それら三つの渾然となった、どこまでもしなやかな至高の雑種でございました。
では、心根のほうは?
オーリンの性格、人となりといえば、こちらはどう育ったのか?
先ほど申し上げた通り、山羊頭は彼女の人間世界への帰還も考えておりました。魔物どもの反対は無論のこと承知した上で、しかしオーリンが望むのならば決別もまたと、そんな腹構えを決めていたのです。
ために、彼女には己の身の上がどれほど異常なものであるか、それを説いて聞かせる必要がありました。
ですが、これに関して山羊頭がもっとも深く悩んだのは、その機会を設ける時期です。早すぎる説明は幼い心に正しく諒解されず、その後の成育にも陰りを落とす恐れがあります。かといって、彼女が自らを一匹の魔物と認識してしまってからでは、これはもう手遅れ。
熟慮と熟考の果てに、山羊頭はこれをオーリン七歳の夏と決めました。驚くべきオーリンの利発さに賭けようと決意し、遊びに出掛けようとした彼女を引き留めたのです。
その日、山羊頭はこれまで語り聞かせてきた人間たちの冒険物語をひとつひとつ数えることで彼女の興味を引き、しかる後に、
「だがそのいずれにも劣らぬほどに、オーリンよ。お前の身の上もまた、人の世に二つと例しのないものなのだ」
そう切り出したのです。
どうして? そう魔族の言語で問い返した教え子に、可愛い娘に、山羊頭は遇えて厳しい口調で人間の言葉を使うよう言いつけて、説明を続けます。
迷宮で魔物と暮らす人間が決してありふれた存在ではないこと。妖術師が実力においてそれを支配するのならばまだしも、世捨て人や狂人が同じことを真似ようともたちまち餌食にされるのが関の山であること。
そのうえ母子二代にわたり魔物に養われた事例ともなれば、これはもうまったくの前代未聞であろうこと。
「ほんとなら、オーリンはみんなに食べられちゃったの?」
山羊頭は問われるままに首肯し、さらに続けます。
これまで語られることのなかった人間族の常識を、魔物ども本来の獰悪な性質を、ジズが迷宮に迷い込んでよりの経緯を、余すことなく伝えます。
長い説明が終わったとき、少女は両の瞳からさめざめと涙を流し、しゃくりあげながら泣いておりました。
「動揺するのも当然。だがオーリンよ。お前が望むならば……」
稚い心を慎重に気遣いつつ、山羊頭は胸にわずかな痛みを伴いながら、兼ねてよりこのときのために用意していた言葉を続けようとしました。
ですが、「ちがうの」と反論でそれを遮ったのは、他ならぬオーリンでございました。
「ちがうの、そうじゃないの。涙がでたのはね、悲しかったからじゃないの。みんなが優しくしてくれたのが普通のことじゃないってわかってね、オーリンはね、なんだかうれしくなって泣いちゃったの」
それだけ言うと、少女はさらに感涙に咽びます。
感涙に。
ああ、そうです!
理解がこの娘にもたらしたのは、自らの出自を呪う心とも、いましがた教えられた常識的な人生を歩む子供らを嫉む心とも無縁のものでした! 生来の純粋さから己が立場を僥倖の賜物と捉え、魔物どもへの深い感謝の念を抱いたのでございます!
「……してオーリンよ。お前が望むのならば、地上に戻り人間族と共に暮らすという道もあるのだぞ。そのようにお前を育てたつもりだ」
オーリンが泣きやむのを待って、山羊頭は先ほど途切れた言葉の先を口にしました。
赤くなった頬に笑顔を広げて、オーリンは言いました。
『みんなとさよならするのはいや』
遇えて言いつけを破って魔族の言語で答えてみせた教え子の愛嬌に、「やはりなんとも利口な子」と山羊頭が深く感激したところで、その日の語らいはおしまいとなりました。
こうして、身体だけではなく、心に蒔かれた愛の種にも肥やしは十分に与えられたのです。
やがて七歳が八歳となり、八歳が九歳となります。
野生児らしい気性の激しさとは無縁に、オーリンは柔らかく温かな娘へと成長してゆきました。魔物どもを押し並べて愛し、その与える愛までも自らの喜びとする、優しい子供へと。
ですが、あの日の山羊頭との語らいから芽吹いたものは、もうひとつだけあったのです。
地上に住み暮らす人間たちへの、強い興味の念でございました。
今回挿絵として使用したイラストを描いてくださったのはイラストレーターのいもいち(http://www.pixiv.net/member.php?id=5606018)さんです。