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第一夜

 月の光がある限り、夜空は青空の名残を残します。街から灯の消える深き宵にあろうとも、あるいはそこに星々が輝く限り、夜空は青を帯びるものです。

 ですが、そのどちらもが失われてしまったならば……はたして、夜天を塗りつぶすのはただ黒の一色となり、底なしの闇へと夜は沈んでしまうでしょう。


 さて皆様。

 これよりわたくしがご紹介する物語も、そのような暗黒の夜に端を発する一篇です。これなるは語り部たるわたくし自身が、あまねく天下にも二つと例しのなきものとそう認める、一大奇譚にございます。


 大陸を南北に二分する竜骨山脈を背に、重ねた歴史は実に二百と二十と二年。いまや冒険者たる誰もがその名を知るところとなった辺境の精華、城郭都市ローレルキャニオン。

 かつてこの街に、それはそれは愛らしい一人の少女が暮らしていたのです。

 まだ若い両親から溺愛されて育ち、にも関わらず子供らしいわがまま身勝手は皆無。なにごとにつけまず父を立て、いわれるよりも先に母を助ける、模範的な娘御でございました。

 身近な人々から好く思われ深く愛されていることをしっかりと自覚し、それについての喜びと感謝を忘れることなく、故に善良な謙虚さと分け隔てのない慈愛を実践する……そうした彼女のことを憎く思う者など、もちろん街にはただの一人も存在しませんでした。

 年少の子供たちはもとより、しばしば大人たちまでもが手本とする、彼女はそれほどによくできた子供だったのです。

 愛され、愛し、その果てにまたさらに愛される……そうした幸せの循環の中に、少女は十一年の歳月を生きました。

 ですが、禍福とは常に隣り合わせのもの。幸福(しあわせ)の影に雌伏して、不幸(ふしあわせ)はその牙をむく機会を虎視眈々と待ち受けているものなのです。


 十二歳のある日、少女はその優しさ、慈しみの深さがあだと生じて、平穏の日々を永久に剥奪されてしまったのです。



   ■



 距離感すら狂わせるほどの闇が街を食む、そんな豪雨の夜でした。

 嵐もかくやたる強烈な雨勢に怯みながらも、少女は、いつも彼女に親切にしてくれるご近所の老女を思い胸を痛めておりました。


 自分には一緒にいてくれる母がいる、父がいる。

 ……けれど、身寄りのない、一人暮らしのおばあちゃんには、いったい誰が?

 ああ……! きっと、おばあちゃんは心細い思いをしているに違いない!


 少女の心に慈悲は溢れかえります。そうして結局、「危ないからやめなさい」と口を揃える父母に断固たる笑顔で抗って、少女はたった一人、雨降る夜へと飛び出したのです。

 大通りをまたいだら、おばあちゃんの家はすぐそこだ。ほんのちょっと、スープを温めるよりも短い時間で辿り着ける――そう念じることで自らを奮い立たせて、いつもの道を足早に急ぎます。

 そのほんのちょっとの時間がもたらす災いについては、いっかな予感すら抱かぬまま。

 それは、まったく突然のことでした。暗闇から伸び出した太い腕が、無人となった店屋の軒先に少女を引きずり込んだのです。

 乱暴に押し倒されて、悲鳴を上げる間もなく口がふさがれます。

 腕の主は、少女に馬乗りになった影の正体は、歪な筋肉の鎧をまとった戦士風の男でした。暗闇の中で彼女がそれを確認できたのは、この男の仲間とおぼしき痩躯の魔術師が、魔法の光球を角灯(ランタン)代わりに狼藉の現場を照らし出していたからです。

 もちろん、なにが起こったのか少女には理解することができません。しかしこの状況からはなんとしても逃れ出なければならないとそう直感し、死にものぐるいで手を、足を、髪を振り乱して暴れます。

 ですが次の瞬間、口元を押さえつけていた手がすっと離れて、恐怖に引きつった頬を力一杯に殴りつけたのです。

 平手ではなく、握り固めた拳による容赦のない暴力。それは、少女から抵抗の意思をもぎとるにあまりあるものでした。もう一度戦士が拳を振り上げてみせると、少女はひっと悲鳴を漏らして顔を庇い、屠殺人に怯える子羊の瞳を指の隙間から覗かせました。

 男たちは満足げに目配せを交わしあうと、どちらからともなく下卑た笑いをこぼし、それから、必要以上の乱暴さで彼女から雨合羽を剥ぎ取ってしまいます。ひかえめなワンピースは魔猿の猛々しさで引き裂き、そのままの勢いで下着もむしりとってしまいます。


 そして……ああ! この後に展開されたのは、語るも憚られる悪夢の時間でございました。


 人面獣心の外道どもは、その嗜虐性を余さず発揮して少女を弄びます。

 破瓜の激痛に彼女が悲鳴をあげれば、ただちに拳が頬を打ちます。それで口を切り鼻血が出ても、喚くことも、慈悲を求めることも許されません。声を漏らすまいと両手で口を抑え付ければ、かわりに両の瞳から涙がどっとあふれ出します。

 そのとき、少女は自分にのし掛っている男の口元が笑むように吊り上がったのを、涙に歪んだ視界の向こうにはっきりと認めました。

 悪夢は延々と循環しました。戦士が情欲を解き放つと、入れ替わりに次は魔術師が少女に覆いかぶさります。それが済むともう一度戦士が。そして、また魔術師……。

 寄せては返す暴力の波。その前には、幼い街娘の心など小舟ほどの強度も持ちません。陵辱に次ぐ陵辱に、たちまちのうちに双眸は虚ろな色に濁りはじめます。


 一時的に雨脚が弱まった頃、男たちは享楽の余韻を引きずりながらどこぞへと立ち去ってゆきました。

 加害者たちは去り、あとには被害者たる娘だけが残されます。

 打ち捨てられた少女は、虚脱したまま、もはやいかなる反応も示しません。

 ――新月の夜には、新婚夫婦のもとに聖獣が赤子を届ける。

 そんなおとぎ話を否定するだけの知識すら持たなかった十二歳の精神を、一連の出来事は隅々まで破壊して過ぎ去ったのです。

 誰しもが最良の女子と認めた少女は、もうどこにもおりませんでした。そこにあるのはただ彼女の残骸。多くの人々に愛され、あるいはその後の生涯においてさらに多くから愛されるはずだった娘の、不当に過ぎる末路を辿った精神の抜け殻でございました。

 時折瞳をまたたかせるほかには身じろぎひとつしなくなった少女の上を、時間だけが絶対の精度で通り過ぎてゆきます。和らいでいた雨脚は次第に激しさを取り戻し、遠く酒場の灯りも消える頃には、もともとの勢力をすっかり上回っておりました。


 少女がむっくりと起きあがったのは、それからさらにしばらくをおいたころでした。

 上体を起こしたあと、かなりの時間をかけてなんとか立ち上がることに成功すると、かろうじて雨から守られた軒下よりふらふらと歩き出して、彼女は豪雨にその身を曝しました。

 そして、笑ったのです。


「あ、あふ、……あはっ」


 それは、笑い方を知らずに育った者が、おそるおそる笑んでみた。そんな印象をそなえる不気味な笑いでございました。

 笑声は少しずつはっきりとしてゆきます。そしてそれを追うように頬もにんまりと吊り上がり……しかしすぐに、笑顔を通り越した狂相の域に達します。

 狂気が少女に噛みついた、これがその瞬間でございました。

 狂気はあまりにも迅速に彼女を支配すると、理性に取って代わって死にかけの心と癒着し、これを仮初めに蘇生させたのです。


「きゃ、きゃはッ、アハっ! あーっハっはっハハハは!」


 雨音を圧すけたたましき哄笑は、さながら二度目の産声でございました。

 そうしてひとしきり笑いつづけると、夜明けを待たずに、少女は街から姿を消しました。

 彼女を愛してくれた誰にも知られることなく。


 そして、もう二度とは戻らなかったのです。



   ■



 これよりわたくしが譚りますのは、美しき狂人の姫君にまつわる哀話にして、可愛くもしなやかな雑種の娘をめぐる悲劇の真実でございます。

 真実?

 そう、これなるはまことの物語。

 この譚りのうちに織り込まれしあれこれのことは、そのすべてがすべて、紛れもない事実なのでございます。

 私はそれを、皆様に……皆様にこそお伝えしなければならないのです。


 さぁ、それでは。

 放浪と説話を司る古き神の、忘れ去られた御名において。

 はじめましょう。



   ■



 この街の西、竜骨山脈に沿ってどこまでも伸びる月桂樹の森を、もちろん皆様もご存じのことと思います。

 辺境と呼ばれるこの地方にあってすら、あまりにも広大な版図を埋める樹木の海。土地の者はたった一言『森』と呼び、しかし強烈に崇拝する。

 街の名(ローレルキヤニオン)の由来ともなっている、それを。

 一夜の(ほう)(こう)の果てに少女が辿り着いたのが、まさにその場所でございました。

 この地の人間にとって、森は信仰と畏怖の対象です。悪童ですらが妄りにこれを侵すことなく、木こりや狩人など森に活計(たつき)を求める者もまた、作業の最中には常に霊的な何かを意識するほど。

 しかし気の触れた少女は、もはやその限りから外れていたのです。

 温もる平地と魔の森を分ける境界をいささかかの逡巡も要さずに踏み越え、導かれるように、少女は深緑の胎内へと飲み込まれてゆきました。

 (きよう)(ぼく)(かん)(ぼく)が幾重にも(こずえ)を重ねて頭上を覆い、古木と新木が遠近に連なり光を遮る。まるで未明へと時刻(とき)が遡上するかの如く、進めば進むほど、森は薄暗くなってゆきます。

 そして、ほとんど明かりも届かぬほど深くまで少女が至った頃です。

 ひそかに、ひそかに。彼女に興味をもった存在があったのです。

 それは、森をたゆたう悪霊の一塊(ひとかたまり)でございました。

 群体の悪霊どもは当初、好き勝手に千切れたりくっついたりしながらこの珍妙な侵入者を観察しているだけでした。

 ですが、群体を構成する意識の一つがふと、少女の視線が時折自分たちを追っていることに気付いたのです。狂人が見えざるものを見る話はたびたび耳にしますが、彼女もまたその一人だったのでございましょう。

 さぁ、発見はすぐさま群体中に伝播します。悪霊どもを揺さぶったのは動揺か、あるいは歓喜か。

 発見に確証が持たれた瞬間、(そう)状態はついに極まります。彼らの共有した少女への興味は爆ぜ、意味不明な欲求として膨れあがり、そして最後には強烈な愛着へと(しゆう)(れん)してゆきました。

 悪霊どもの見解はまさに一糸の乱れもなく、次のようにぴたりと一致します。


『この娘に取り憑こうよ』

『この娘を守ろうよ』

『この娘を案内(あない)しようよ』


 そのように。


 かくして、少女は奇妙奇天烈な後見役との邂逅(かいこう)を果たします。

 必要な諸事万端をここに調え、物語はようやく廻りはじめたのです。

 申すに及ばず、悪霊どもが少女を『案内』したその場所こそが、この物語の舞台となるべき場所。

 彼らに導かれるまま少女が道なき道を歩きつめると、唐突に視界が広くなります。

 そこだけ木々と緑の密生がほどかれた、森の中の空間です。

 毒々しいほど極端な色彩の小花がひらけた空間に咲き乱れ、そしてその先には、見上げても先の見えない一枚岩の岩壁。岩壁にはぽっかりと洞穴が口をあけ、精緻なつくりのレリーフがその周囲を飾っておりました。

 厳かに刻まれたレリーフの文章は、たとえ少女が正気のままだったとしても決して解読は できなかったでしょう。

 なにしろそれは、古代ドワーフ族の固有言語だったのですから。

 あー、うー、と(なん)()のような呻きをあげて、少女が虚空に視線を彷徨わせます。

 この場所こそ、悪霊どもの安住の(すみ)()

 記録も残らぬほどの太古に滅び去った、ドワーフ地下都市、それが洞穴の正体でございました。

 原色の花々と(おう)(いつ)する森の霊気に演出されたそこは、さながら魔界のとばくちとでもいった気配を強く発しています。

 あー、うー。

 悪霊どものたゆたう空間にもう一度呻きを投げると、誘われるままに、少女は魔の領域へと沈んでゆきました。


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