118:開幕
ゆっくりと、目を開く。
今まで感じていたガラス越しのような視界とは違う、己の瞳に映る世界。 頬を切る風。 空気の匂い。
考え無しに爆発して飛び出したあの子のお陰で宙空に投げ出された四肢に意思を向ければ、当然のように私の意に沿い思うが侭に動く。
この世界に来るまでは当たり前であったそれが、今は無性に嬉しくて仕方がない。
宙を跳ねる感覚、ヒトでない身体の操作。
問題ない、あの子の中でずっと見てきたのだから。
宙を踏み、蹴り、跳ねる。
あり得ない現象も、この世界とこの体なら容易い事だ。
空を駆け、一目散に走る先にはあの子命名・ムカデマン。
アレは、あの子を悲しませた。
アレは、あの子を怒らせた。
だから、決して許さない。
右手…右前足? に明確な殺意を篭め、知覚されるよりも更に早く距離を詰め、すれ違いざまにその首元目掛けてナイフを振るうように右前足を振るう。
勿論、今の私の掌にナイフは存在しない。 けれど、確かに私の前足は命を刈り取る手応えを感じた。
着地した勢いそのままに、後ろを振り返る事無く地を蹴り宙へ跳ぶ。
次はちみっこ皇女をその手に捕らえた蜘蛛美人。
あの子が恩義を感じているちみっこ皇女を泣かせた顔面、あなたは最後に刈り取ってあげる。
さぁ、久々の宴、存分に愉しみましょう?
…それにしても。
あの子のネーミングセンス、どうにかならないものかしら?
この世界に来て一層酷くなっている気がするのは私の気のせいだといいんだけど。
■□■□
私は、夢でも見ているのでしょうか。
体中を襲う痛みも忘れ、おちびの事さえも意識から離れ、私はただ目の前で繰り広げられる信じがたい光景を呆然と瞳に映している。
私の目で捉えきれない程のスピードで空を駆け現れた白い、小さな影。
もしも私の目がガラス玉にでも替わった、などという事でない限り、アレはシェラの部屋で見たラビの幼体に見える。
突如降り降りて来たソレは一条の稲妻が如く宙を走り、私を打ち据えた百足腕の頭部のすぐ傍をすれ違うように着地し、一瞬首を巡らせたと思いきやすぐに地を蹴り舞い上がり。
少し遅れて、百足腕の禁獣の首がごとり、と地に落ちた。
残された体はびくり、と小さく跳ね、一拍を置いて床に沈む。
それはまるで、己に起きた事象を知覚し、理解してしまったが為に死を迎えたように思えてしまう。
そんなあり得ない想像を抱く程に、今目の前で起きた現象はあまりにも理解不能で、現実として受け入れ難く。
呆、と口を開き、床に伏したまま唖然とする私の目の前で、ごとりと人蜘蛛の禁獣の首が地に落ちた。
■□■□
体中が、痛い……。
腕を動かした瞬間、全身が悲鳴をあげる……。
右腕、左足。 たぶん、右足も折れてる…?
意識が朦朧とする、視界もボヤけている……。
私、何をしていたんだっけ……?
…いいや、もう、寝ちゃおう……。
「おねえさま! おねえさまぁっ!!」
沈みかけた私の意識を、そんな叫び声が呼び起こす……。
今の声は、確か……。
そこまで考えた瞬間、私の脳裏をさっきまでの出来事が過ぎり。
「ティセリナ様っ!!?」
叫び、身を起こそうとし、激痛に悶え床を転げる。
そうだ、私はティセリナ様を助けようとして割って入ったバケモノに吹き飛ばされたんだった。
なんで忘れてたの、私のばかばかっ……とか言ってる場合じゃない、早くティセリナ様を助けにい゛っ……。
…忘れていました、そういえば今、私は全身が悲鳴をあげているんでした。
跳ね起きようと力を篭めた足はそれがとどめになったのか痛みすら感じないくらいに感覚がない。
体を起こそうと無理矢理動かした右腕は僅かに浮いた全身が悲鳴をあげて倒れこんだ瞬間にボキリという嫌な音をたて、さっきまで以上の痛みを私に訴えかけてくる。
つまり、現状私が動かせるのは左手一本のみということで。
思わず私が脳裏に浮かぶお義父さんに縋ったのはきっと仕方ない……よね?
などと、私が現実逃避している間にも状況は変化し続けていくわけで。
右肩口から大きなムカデを生やしたバケモノに叩き付けられたエンフェイナ様が床に爪を立て、動かない体を無理矢理這わせティセリナ様へと向かう様を見せ付けられた私の背を嫌な汗が流れる。
あれ、私もやらないとだめ……だよね?
お義父さんだったら絶対にするよね? なら、義娘の私がやらないなんてきっと許されないよね……?
泣きたくなる心を必死に奮い立て、歯を食い縛って、いざ、と気合を入れ前方を見据えたその瞬間。
私の頭は真っ白になった。
気合? 霧散しちゃったよ?
私の目線の先、視界を駆け抜けた小さな白い影。
一瞬だったし、距離もあったけど見間違う筈がない。
てのひらに収まるくらいの小さな、ふわふわもこもこの体。
間違いない、あれは……。
「シロ、ちゃん……?」
幼体のラビが一匹でふらふらするなんて聞いた事がないし、シロちゃん以外に考えられない。
私の視界にシロちゃんが映ったのは、本当に一瞬だった。
空から駆け下りてきたシロちゃんが、右腕ムカデのバケモノとすれ違った。 ただ、それだけ。
けど、それを目にした瞬間に私の肌が粟立ち、全身に鳥肌が立つ。
そんな私の感じたナニカが正しかったことを証明するみたいに、右腕ムカデの首が唐突に床に落ちる。 そして、ちょっとだけ間を置いてから後を追うように体も倒れていった。
何が起きたのか分からない、シロちゃんが何をしたのかまるで理解できない。
でも、シロちゃんがあの右腕ムカデを狩ったことだけは絶対に間違いじゃない、と思う……たぶん、きっと、おそらく。
お義父さんだったらたぶん何が起きたのか見えていたんだろうなぁ……あ、今度は人蜘蛛の首が落ちた。
と、遠い目で呆然とその光景を視界に捉えていた私はふと気付く。
…シロちゃんって全身真っ白じゃなかったっけ?
耳の先っぽ、黒かったっけ?
はてな、と首を傾げる私の視界の先、エンフェイナ様の少し後ろの辺り。
そこに、唐突にメイドさんが飛び降りてきた。
…私、うそ言ってないよ?
目にしたはずの私も何を言っているんだ、っていう気分だけど、でも本当なんだよ?
黒……じゃない、濃いめの青色っぽい色? の髪を後頭部の辺りで束ねたポニーテールのメイドさん。
見覚えがない髪色の人だけど、結構な高さから飛び降りた風なのに足音一つ立てず平然としてるし、皇族付きのエリート戦闘メイドさんなのかな?
…ついでに、高所から飛び降りたのに翻るどころか捲れすらせず微動だにしなかったあのスカートの裾は一体どうなってるんだろう?
■□■□
ムカデマンの首を刈り、着地と同時に地を蹴る。
次に狙うは宣言通り蜘蛛美人、状況を理解できず呆然と立ちすくむその姿に思わず笑みが浮かんでしまう。
ほんの僅かの悪戯心でわざと蜘蛛美人の目で追える程度に速度を落とし跳び進んでみれば案の定考えなしに腕を振るってこちらを攻撃してくる。
せめて人間の腕で糸でも出せばまだ多少なりと目があっただろうに、事もあろうに蟷螂の鎌を振り下ろしてくるだなんて愚かにも程がある。
ムカデマンを仕留めた私の動きが目で追えなかった癖に、子供の掌に収まる程度の体躯の私をどうやって線の攻撃で捉えるつもりなのやら。 咄嗟の反応にしてもせめて巨腕を振るう程度の機転は利かせて欲しいものだ。
尤も、どちらにしても無意味だけれど。
鎌を振り上げ、振り下ろす動作に移行するその瞬間、私はスピードのギアをトップに上げ、私を仕留めるべくその腕を振り下ろす蜘蛛美人の首を刈り取る。
ごとり、と首が地に落ち、それを追う様に振るわれた鎌が大地を抉る。
やがて、思い出したかのように崩れ落ち大地に沈む蜘蛛美人の姿を横目に捉えつつ、私は最後の標的である顔面へと目を向け……。
…首がない相手でも、 "首刈リ兎" は発動するのかしら?
などと一瞬益体のない考えを抱きつつ宙を蹴り肉薄する。
流石に仲間達の末路をその目で見たからか私に対して最大限の警戒をしているようではあるのだが、如何せん意識に肉体がまるで追いついていない。
反応する暇を与えぬまま駆け抜け、すれ違いざまに右前足を振るえばその顔面が上下に分かたれ地に沈む。
どうやら首がなくともスキルは発動可能らしい、とひと安心しながら地面に降り立った私は、ゆっくりと振り向く。
視線の先には呆然とした縦ロール、……ではなく、その後方に音もなく飛び降りてきたルカの姿。
あの子にいらぬ猜疑の目が向かぬよう、と人前では姿を見せず声を出さず影に徹していた彼女が周囲の目を気にせずこちらへと向かってくるその姿に、自然と頬が緩む。
口先ではなんだかんだと言いつつも、いざの状況に陥ればなんの躊躇いも無く行動に移す。
ぽんこつなあの子は気付いていないようだが、態度や仕草でばればれだった。
嗚呼、彼女もあの子に魅了されているのだと理解した私の脳裏に、ふと悪魔が過ぎり。
その悪魔の誘いのままに、私はニヤリと笑いながら口を開く。
…尤も、この体に発声器官は存在しないらしく仕草だけ、というなんともしまらない話であるのはご愛嬌。




