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再会は雪のホームで

作者: 群青色

「まもなく1番線に停車中の本日の最終列車が発車します。閉まるドアにご注意ください。」

陽はとっくに沈みひっそりとした暗闇の中に私の声が吸い込まれて、そして消えていった。今日も誰1人乗せることなく最終列車はホームを離れていった。蛍光灯の明かりがホームの上にうっすらと積もった純白の粉雪を照らし出していた。何度見ても夜の闇に雪の白はとても映えてきれいだ。早いものでこの駅にやってきてからもう30年も経った。気がつけば私も50代になり、黒かった髪には白髪が混じり始め、体のあちこちにガタがきはじめている。日常に変化なんてものはほとんどなく、都会生まれの私もすっかり雪国の人間になってしまった。始めの頃は寒さに震え少しでも早く暖かいストーブのある駅員室に戻りたいと考えていたが、こうしていつもある景色に見とれてしまうなんてことも最近増えてきている。歳をとったといえばそうかもしれない。けれど昔と違うというそれだけで少しだけ寂しい気がした。

ぴゅうと音を立てて北風が吹いた。冷たい風は分厚いコートや毛糸で編まれたマフラーをしていても意味などない。私が勤めている駅は北端の駅というのを前面に押し出している。その名の通り駅より先に線路はなく、少し行けば冷たい海が広がっている。線路は南に向かってまっすぐに伸びており、そのせいか北風がまるで突風のように北風がホームを駆け抜けるのだ。風のせいでバタバタと暴れるマフラー(妻の手編みだ)を押さえつけながら風が止むのを待つしかない。この風は雪降らしとも呼ばれていて北風が強く吹けば大雪になると言われている。この手の迷信めいたものを私は信じないたちなのだが私の過ごした10年という時間はそれが真実であることを証明していた。

「明日も大雪か。まあ慣れてしまったけどな。」

言葉とともに吐き出された白い息は私の目の前に広がったかと思うとすぐに夜の闇へと消えていった。

「さて、そろそろ帰るとするか。妻が暖かい食事を用意してくれているだろうし、それに明日は大雪。仕事が山積みだろうしね。」

私はそう1人でつぶやいた、これは日課のようなもので誰もいないことを確かめているようなものだ。夜の駅舎で一晩を過ごそうものなら凍え死んでもおかしくはない。日課を終え安心してあとは鍵閉めだけだとホームを立ち去ろうとした時だった。再び強い北風が吹いた。先ほどの北風とは比べ物にならないくらいで私はマフラーを抑えることさえできず、その次に大事な帽子だけは無くすものかと必死で抑えて時間が過ぎるのを待った。永遠のようでいてほんの一瞬の出来事だった。ホームの上にうっすらと積もっていた雪は風に飛ばされ空に舞い、私の視界を白く塗りつぶしていく。そして再び空から降ってきた。そこに突然現れたのだ。それはまるで手品を見ているかのようでさえあった。蛍光灯の明かりをスポットライトに、舞い落ちる粉雪はさながら紙吹雪のように。そしてその中央、私がいるのとは反対側のホームにマジシャンのように1人の女性が立っていた。空を見上げ何か遠くを見つめる小さな瞳が反対側のホームからでもよく見ることができた。まるで映画のワンシーンのように彼女の姿は画になっていた。30年も続けてきた私の仕事を忘れさせるほどに。


「本当に泊めていただいていいんですか?」

「いいって、いいって。本当は私の家に泊めてあげれるのが1番いいんだけどさ。」

「そんな申し訳ないことできないですよ。駅の待合室に泊めていただけるだけでもありがたいのに、そのうえストーブまで持ってきてくださって。わたしは防寒対策はしっかりしてきていますから大丈夫ですよ。」

「ここの寒さは甘くみんほうがいいよ。まあどうせ朝まで誰もこん場所やから遠慮せんと。」

駅長室から運んできたストーブのおかげで待合室の中は少しづつ暖かくなってきており、薄いガラスが白く染まり始めていた。見知らぬ女の登場から我に返った私がまずしたことといえば彼女に声をかけることだった。私が声をかけると彼女ははにかみながらこう言ったのだった。「すいません、ここの待合室っていまから使えたりしますか?」。普段の私なら近くの旅館でも紹介しただろう。しかしその時はどうしてかそうしなかった。なぜかと聞かれたら答えることは難しいが彼女がそれを目的にこの場所へとやってきたように感じたからだ。彼女はここにいることこそ意味があるのだと、そんな気がしたのだ。

「寒いだろ?良かったらコーヒーくらい飲みな。といっても安い缶コーヒーだけどね。」

「わあ、ありがとうございます。じゃあせっかくなので頂きます。って、そういえばわたしまだ自己紹介をしていませんでしたね。わたしは二樫雛ふたがしひなっていいます。出身は〇〇なんですけど、今日はちょっとした約束があってここまで来ました。わたしって結構こういうことがあって何かしたいなとか何かしなくちゃなって思うとすぐに行動に移しちゃうんすよね。そして行動に移しちゃうとそれしかできなくなるっていう結構めんどくさい人なんですよ。今日も仕事を放り出してここまで来ちゃったくらいですから。」

えへへとあたまをかきながら二樫さんは話を続けた。

「普段は真面目に仕事して〆切とかも守ってるからすごく驚かれちゃうんですよね。わたしって本当はすごく適当な人間なんですけどね。」

「二樫さんか。私はこのぼろっちい駅の駅長をしている渡橋だ。」

「ぼろっちいなんてことないですよ。わたしはそうは思いませんよ。風情がある…ではないな。なんというか包容力があるっていうか、どんなことでも受け入れてくれるような気がして。わたしはこういう駅が好きなんです。」

「ああ、二樫さんって鉄女ってやつなのかい?なら仕方ないね。ここの駅はその手の人たちに人気があって正直その人たちのおかげで成り立っているところもあるからね。」

「そんなのって言ったら失礼ですけどわたしは違いますよ。職業病みたいなものでネタに飢えているんですよいいネタを見つけるとひとりでに妄想しちゃうんです。例えば、そうですね。山の中にポツンとある無人駅。周りは田んぼばかりでその中をまっすぐに伸びる線路とベンチくらいしかない小さなホーム。電車を待つのはいつも2人だけ。といっても向かう方向は正反対で、いつも向かい合って座っている。一緒時間を過ごしているはずなのにそうじゃない。時間が来れば必ず引き裂かれることになる。それでもそれはかけがえのない時間であることに間違いはない。って感じですかね。まるで一枚の絵になりそうな風景からお話を妄想することが好きなんです。」

カタカタと窓ガラスが音を立てていたがわたしは一切気にならなかった。私の心は現実の世界を離れ見たこともないはずの景色を確かに思い描いていた。彼女の語りは静かで染み込むようにわたしの元へやってきて鮮明な世界を作り出した。経験したこともないのに無人駅の雨風でボロボロになったホームに腰掛け風の音や柔らかな陽の光までも感じた気がした。そこには少しばかりの懐かしささえ含まれていた気がする。その一つ一つが私の経験であるかのように。

「二樫さんは話がうまいんだねえ。もしかしてアナウンサーとかの仕事をしてるのかい?」

「アナウンサーですか、それもそれで面白そうですね。でも違いますよ。私の仕事は話すことじゃなくて描くことなんすよ。これでも一応連載を持ってる漫画家なんですよ。といっても絶賛スランプ中なんですけどね。」

「漫画家さんだったのかい。すまないね、この歳になるとなかなか最近のはやりってもんがわからないんだよ。そうか、そうか、ならサインでも貰っておこうかな。」

この駅は観光を売りにしているだけあって時々芸能人やらや、漫画家、小説家などが取材に足を運ぶ場所となっている。駅長室にはちょっとしたコレクションになるほどのサインが飾られている。

「そんな、サインだなんて。わたしにはまどまだ恐れ多いですよ。」

「そうかい?なら偉くなったらこの駅にまたおいでよ。そんときにちゃんとサインをしてくれればそれでいいよ。ついでにここを舞台に漫画でも描いてくれりゃ完璧だね。」

「内緒ですけど実はわたしここを舞台に一つだけ漫画を描いてるんですよね。けどまだ発表はできてないのでもしその機会があればその時にでもサインはしましょうかね。」

そう言って彼女は笑った。



「さて、話もそろそろ終わりにするとしましょうか。二樫さんもお疲れでしょう。私も明日の仕事がありますし、帰るとしましょう。朝は冷えるのでストーブは点けたままにしておいた方がいいかもしれませんね。火事だけは気をつけてくださいね。」

そう言って駅長さんはガラガラと音を立てて古い引き戸を開けて待合室を出て行った。そういえば結局駅長さんの名前を聞くのを忘れていた。胸ポケットの所に金色に光る名札が付いていてそこには「橋渡」と書かれていたけど実際の所はなんと読むのかすら分からなかった。

人1人いなくなっただけだというのにまるで世界に1人取り残されたような錯覚に陥る。駅長は待合室の明かりを残して全ての明かりを消して帰って行った。それは当然のことだし、わたしがここに泊まっていること自体が異常なのだ。オレンジ色の明かりがぼんやりと部屋を照らすのをただぼんやりと見つめる。普段の〆切に追われた生活では考えられないような贅沢な時間の使い方だ。ろうそくの明かりが揺らぐようにとりとめもないことが思い浮かんでは消えていく。それは当然のわたしのこれからのことであったり、やりたいことであったり、行きたい場所であったり。未来のことばかりを思い描いていた。そこには少しばかりの妄想も加えて華々しいとまではいかないものの満ち足りた明るい未来を。

さて。そろそろいいだろう。わたしはそっと『彼女』に話しかけた。

「ねえ、覚えてる。」

わたしには見えて、駅長さんには見えなかった『彼女』にわたしは話しかけた。

『彼女』はストーブを挟んだ反対側のベンチに座っていた。その格好はといえば夏服のセーラー服といった全く季節感のない代物だ。しかし『彼女』の長い黒髪に映えてとても似合っていた。『彼女』の真っ白な手足には生気がなくまるで待合室の外に積もる雪のようだ。『彼女』は心底つまらない質問だというように答えた。

「何を?」

「何をって色々。」

「だから色々って何。」

「色々って言ったら色々だよ。んー、じゃあまずあなたが誰なのかから。」

「あたしのこと?あたしは都万麻妃美つままひみだよ。それくらい知ってるでしょ雛姉。」

『彼女』は、いや、妃美の顔をした、妃美の声をしたそれは『彼女』がわたしをそう呼んでいたようにわたしの名を呼んだ。

「本当に妃美なの?あの時、わたしが駅のホームに立って強い風が吹いてきた時空から降りてきたでしょ。そのせいで積もっていた雪が紙吹雪みたいにキラキラと……ってそんなことはどうでもいいのよ。本当に妃美なら証拠を見せてよ。」

「証拠ってねえ、雛姉。あたしはこれでも幽霊なんだよ。幽霊に幽霊であることを証明させるなんて結構ひどいよね。そもそも自分が死んでるんだって認識することなんて無いんだから。まあいいよ。なんかそれも雛姉っぽいしね。えっとじゃあ雛姉の中学時代に描いた初恋の人をモデルにした漫画の」

「って言わんでいい!」

誰かに聞かれたら即死レベルの黒歴史である。その幻の作品は実家の庭の木下深くに封印されているはずだ。しかし、当時はそれのヤバさを理解せず1番仲の良かった近所に住む3歳下の女子小学生に見せたのだった。それが妃美。今わたしの目の前にいる少女だ。いや、わたしが彼女を知っていたのは彼女が中学三年の時までで、それから先はあったことがなかった。わたしが親の反対を押し切って都会の大学に入学することにしたからだ。その頃にはわたしの漫画家への夢は固まっていて大手出版社に作品を持ち込むためには都会に行くしか無いと少ない知識をもとに考えたのだ。都会の街へと向かうわたしを見送りに来てくれた妃美のことはしっかりと記憶に焼き付いていた。

「そっか。やっぱり妃美なんだね。でもどうして?」

「それを雛姉が?雛姉さっき駅長に言ってたじゃない。約束があるって。もちろんそれってあたしとのことって覚えてるよね。」

「覚えてるよ。忘れるわけないじゃない。」

「嘘だね。だって最近まで忘れてたでしょ。雛姉のことだからなんか失敗して昔のこと思いしてたんじゃないの。高校生の時だってよく言ってたじゃない。『ああ、中学生の頃はよかったなあ』って。」

「はは、やっぱりばれてたのか。」

妃美は昔から勘がいいというか、こちらの心の内を簡単に見透かしてしまう。年上ではあるものの精神的面で言えば妃美の方が上だった面もあった。それでいいのかと思わなくもないが特に気にしていない。わたしたちの間には姉妹のような関係というより同じ歳の親友のような関係があった。わたし自身も妃美を年下として扱うことはなかったし、妃美もまたわたしを年上として扱うことはなかった。

「まあ、いいや。思い出してくれただけで。」

妃美はそう言って初めて表情を柔らかくした。まるで怒っていた母親がずっと笑顔に戻るかのように妃美は笑った。


約束。遠い昔のことのような気がする。都会に出てあれよと言う間にデビューが決まってしまい、学生生活と月一の連載の掛け持ちというありえない生活を送ることになってしまったわたしにとってつい3年ほど前のことなのに遠い昔のことに感じる。いや、それだけではなく思い出すことを極力避けてきたからだろう。明るい未来ばかりに目を向けて過去を振り返ろうとしなかったから、最近のことですら遠い過去の彼方に感じてしまうのだ。しかし、こうして、幽霊ではあるものの妃美と再会したことでわたしは過去を振り返るざるをえなくなった。

あの日のことはしっかりと覚えている。妃美と約束を交わしたあの日のことも、妃美が死んでしまったあの日のことも。そのどちらもはっきりと昨日のことのように思い出すことができる。目をつぶればそこにあの日の光景を映し出すこともたやすいだろう。そしてそれは妃美と再会した今、いつもに増してあの日のことがわたしの心を染め上げていた。

テレビはつけっぱなしになっていた。いつものことだ。漫画を描いている時に何か音が欲しくてラジオやらテレビやらをつけっぱなしにしておく。その日はクイズバラエティーをつけていた。あの手の番組からネタを見つけられることもあるしなんて気軽なものだった。番組が終盤に差し掛かった時だった。ぴーと聞き慣れた音がテレビから響いた。緊急ニュース速報ってやつかななんて思いながらペンを原稿にはしらせていた。目線はずっと原稿にあってテレビの画面は見ていなかった。しばらくして賑やかな声が突然消え、緊迫した声へと切り替わる。

番組のとちゅうですが、緊急ニュースをお届けします。先ほど20時45分頃〇〇線で大規模な脱線事故が発生しました。繰り返します。先ほど〇〇せんで大規模な脱線事故が発生しました。まだ被害の規模は分かりませんが多数の負傷者がいる模様です。ただいま現場上空のヘリコプターと中継が繋がっています。

〇〇線って地元じゃないか。そう思い顔を上げた。高校時代に嫌という程乗ったカラーの車体が線路を大きくはみ出していた。その車体は斜めに大きく傾き今にも倒れそうだった。ふと、妃美の顔が浮かんだ。

「あたし雛姉と同じ高校を受験するんだよ。」

そう言った妃美のことを。

携帯電話を取り出した。手が震えてボタンが押せない。大丈夫だ。大丈夫。妃美は部活をやっていなかった。こんな時間に電車に乗るはずがない。震える手を思いっきり押さえつけることでなんとか妃美に発信した。1、2、3、……コールオンを一つづつ数えていく。何度目だろうか、コール音がプツンと切れて電話の向こう側からくぐもった声が聞こえてきた。

「雛姉?ねえ、雛姉なの?」

「妃美?妃美だよね。今ニュース見てるんだけど大丈夫だよね。無事だよね。」

「……………」

「妃美、妃美、ねえ、妃美。答えてよ。無事だよね。」

「ダメだな雛姉は。雛姉がそんなに取り乱すからあたしが落ち着いちゃったじゃない。」

それこそお姉ちゃんがいたらこんな感じなのだろうなと思わせるように妃美はため息をついた。

「ねえ、あたし死んじゃうのかな。」

涙をこらえて、ガマンしているのが手に取るように分かった。

「大丈夫だよ。大丈夫。きっと助かるから。大丈夫、絶対助かるから。」

大丈夫だよ、大丈夫。わたしはそう繰り返すことしかできない。

「そんなのじゃ全然大丈夫に聞こえないよ。」

声が震えている。それでも電話の向こうで妃美が必死に笑顔を浮かべているのがわかった。でもわたしには声をかけてあげることしかできない。

「あっ」

妃美の声が聞こえた。わたしの視界にさっきからつけっぱなしになっていたテレビの映像が映り込んできた。大きな鉄の塊がその傾きを一層大きくし、そして倒れた。耳に当てた携帯電話から大きな音とノイズが走り通話が切れた。さっきまでわたしが電車の中にいたかのような破壊音が耳に残る。そして嘘のようにテレビから流れるアナウンサーの焦った声だけが聞こえてくる。

「妃美が、妃美が、死んじゃった。」

わたしはその事実をぽつりと呟いた。吐き出した言葉はまるで現実味を帯びておらず、しかし紛れもなく事実であった。

これが妃美との最期の会話だ。妃美のお葬式にはちゃんと出席した。遺体は損傷が激しかったらしく棺に入れられていなかった。だからかもしれない。わたしはしっかりと妃美の死について受け入れられていなかった。だからこそ、こうして今も昔に交わした約束を果たそうとこんな地までやってきたのだ。そう、あれは暑い夏の日だったと思う。


「へえ、これが雛姉の描いた漫画かあ。」

妃美はわたしがこっそり書き溜めていた原稿に目を落としながら呟いた。妃美はわたしの夢の話をするとすぐにわたしの漫画を読みたがった。雛姉の描いた漫画なら面白いんだろうな、なんて言ってなんとかわたしの原稿を読もうとしていたがわたしはなかなか妃美に見せることはなかった。1番の理由は自信がなかったからだ。わたしが描いた漫画が本当に面白いのか、全く分からなかった。わたしが描く漫画ははっきり言って読者を置いてきぼりにしてしまうようなものだ。わたしが好きな話を好きなように描く。それがわたしのスタイルだった。今では多少は読者の読みやすさを意識したストーリーにしているけれど、当時はそんなこと気にせずにわたしの中だけにあるストーリーを描き続けていた。

「うん。これそこらへんで連載してる漫画より面白いよ。やっぱり雛姉はすごいや。」

妃美が読み終わるのを緊張して待っていたわたしにはその言葉は暖かな日差しのようにわたしの緊張をほぐした。

「ほ、ほんとに?嘘じゃなくて?あ、お世辞?お世辞ってやつ?」

「とりあえず落ち着きなよ雛姉。」

「落ち着いてなんていられるかあ!」

「いつもになくテンションが高いから気持ち悪いことになってるよ。」

「いいの、いいの。」

それが妃美の本心だと心からそう思えるから。だからこそわたしは嬉しかった。初めてわたしの漫画を読んでくれた妃美がわたしの漫画を認めてくれた。その事実そのものが嬉しかった。

「たださ、面白いは面白いんだけど」

妃美はそこで言い淀んだ。言葉を選んでいるのか少し考え込んでから話を続けた。

「面白いんだけど現実味がないっていうのかな。夢の国?みたいな感じがしたんだよね。」

「現実味がないって?」

「うん、この漫画の話って青春恋愛モノでしょ。キャラクターの心情はすごくリアルであたしは好きだし、物語の中盤の2人がお互いを思って身を引こうとするシーンからのクライマックスまでの流れもよくて面白かったよ。」

妃美のこの言葉を私は後に某漫画雑誌の編集者から再び聞かされることになった。

「けど、このクライマックスのシーンだけどさ。誰もいない雪の降る無人駅にいる2人、確かにロマンティックだけどリアリティーがないかなって。」

それはわたしがその漫画で最も気に入っているシーンだった。雪の降る小さな無人駅のホームに主人公の少女は立っていた。空は厚い雲に覆われてそこから雪がしとしとと降り続いていた。足元には見慣れた文字。手紙のやり取りをしていたからその文字を誰が書いたのかなんて少女にはすぐに分かった。

さようなら

その一言がホームの新雪に残されていた。しかしその文字も降り続く雪のせいでだんだんとかすれて消えていく。少女はホームの文字の文字を見つめながらその言葉を残した少年のことを想い、たった一言「またね」と消え入りそうな声で呟くというラストシーンだ。

「こんな都合のいい場所あるわけないじゃん。」

妃美はそう言った。

「ここまでのリアルさがこのシーンで崩れちゃってると思うんだ。」

「残念だけど妃美、ここは実際にあるんだ。この町からはすごく遠いところにあるんだけど、北の端にある駅がね、この舞台にぴったりだなって思って勝手に舞台にしたんだよ。」

「嘘だあ。」

「ほんとだよ。なら」




「一緒に行こうって言ったよね。」

「うん、言った。」

わたしが頷くと妃美は駄々っ子みたいに頬を膨らませてあれから何年経ったと思ってるの?あたしは今でも覚えてるよと言って、そしてもう一度笑った。


「ねえ、せっかくここにきたしあれをやってみない?」

しばらくして妃美は突然わたしに提案してきた。

「あれって?」

「あれって言ったらあれだよ。雛姉の描いた漫画のラストシーン。せっかくここまで来たんだしやっとかないと勿体無いよね。それとも雛姉は初恋の相手を思い出すから嫌なのかな?」

「今はこれでも彼氏はいるんだよ。」

「うそ、雛姉みたいな性格の女子に彼氏ができるわけないじゃん。」

「そんなことないよ。これでもわたし結構モテるんだよ。ほら美人だしスタイルもいいし。」

「信じられない。あたしには彼氏なんてできなかったのに。もういいよ、先に1人で行っちゃうからね。」

そう言い残して妃美は音もなく待合室の外に飛び出していった。

「わたしは寒いのも苦手なんだよね。だからできれば出たくないんだけど」

とはいいつつもわたしは妃美の後を追って待合室の扉開けて外に出た。ガラッという古い木の扉が音を立てて開くと白銀の世界が………と言いたいところだが電気が消されているため真っ暗で正直なところ何も見えない。妃美でさえどこかに消えてしまった。仕方なくスマホを取り出して明かりをつけるとぼんやりと辺りが明るくなる。足元を照らして見るとサラサラとした粉雪が再びホームを白く染めていた。

「おーい、妃美。どこにいるの?」

足元を照らしながらわたしは妃美を追いかけて新雪を踏みしめて進んでいく。キュッという音と雪を踏みしめる感覚が気持ちいい。もっと歩いていたかったけれど小さな駅なのでそうはいかない。すぐに終わりはやってきた。

さようなら。

5文字のひらがなは間違いなくホームの端に残されていた。真っ白なホームには足跡一つなくただ5文字のひらがなだけが残されていた。わたしはその文字から目を離すことができなかった。その文字を見たことがあったからだ。特徴的な丸文字で最後に句点を入れたがる癖。それは間違いなく妃美のものだった。バサッと音がして屋根に積もった雪がその重さに耐えきれなくなり流れ落ちていく。それ以外の音はせず、耳がつーんとするほどの静寂だ。さっきまで妃美と話していたのが嘘であるかのように。

「妃美。」

呼びかけた。

「妃美。」

今度は少しだけ声を大きくして。

「妃美。」

彼女を探すようにして。

「妃美。」

ただ祈るように。

「妃美。」

わたしは彼女の名前を。

「ひ…み。」

呼び続けた。


「あーあ、せっかくの演出が台無しじゃないか。昔からそうだよね、雛姉ってサプライズしようとしたらいっつもあたしの裏をかいて動くんだもん。」

「って今のは絶対消えていなくなるパターンだよね!」

「そんな十八番しなくてもいいじゃん。ってあれ?どいたしたの雛姉。急に笑い出して気持ち悪いんだけど」

どこからともなく現れた妃美に驚きつつもなぜかわたしは笑いが止まらなかった。昔はバッドエンドだったとしてもきっと今なら別の結末に辿り着けるかもしれない。この場所は終着点であり、そして始点でもあるのだから。



次の日私が待合室に行くと彼女達はすでに目を覚ましていた。昨日は物憂げだった彼女の顔には何か満ち足りたものがあるように感じた。長年の勘からいえばきっと彼女にはハッピーエンドが待っているだろう。

「おはようございます。昨日はよく眠れましたか。」

「ええ、ぐっすりと。それにとても懐かしい夢を見ました。というか今も見てるかもしれません。」

えへへと彼女は笑った。もう1人の彼女の言葉は私には聞き取れないが呆れながらも笑っているようにみえた。

「そうですか。それは良かったです。でも二樫さんもお仕事があるでしょうし夢から醒めることも必要かもしれませんね。でも心配はいりません。もしまた夢を見たくなったらここにきてください。わたしなはできることは夢と現実の橋渡し、ただそれだけですからね。」


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