二
「ふ――吹雪丸、大丈夫?」
腰が抜けたままのコウジが腕を差し伸べると吹雪丸が寄ってきた。鬼熊にはたかれて怪我をしていないだろうか、大丈夫だろうか、おろおろするコウジの前で
「わふ」
吹雪丸は巨体を伏せばっさばさ尻尾を振る。
「助けてくれてありがとう」
三つ頭をそれぞれに撫でコウジが囁きかけると、吹雪丸はぴすぴすと鼻を鳴らした。
橘が王の前で跪いた。
「わがきみ、ありがとうございます――」
コウジも橘に倣おうとしてくにゃりとくずおれた。
「ああ、よいよい。かまわぬ」
へたりこんだコウジを引っ張り上げようとした橘を王が笑いながら制した。
「それにしても何と言えばよいものか。マレビトどのよ、もしかして久しい――のか?」
腰を抜かしたままだが何とか上体を起こしコウジは答えた。
「はい。数ヶ月、元の世界に戻ってまいりました」
「そうか。――こちらは時間の差はない。おそらく黄三家の目の前でマレビトどのは消え、すぐに戻ったように見えたろう」
「王様、なぜぼくが戻ったことを――」
「そなた、馬頭の頭領と牛頭翁に行き先を告げたろう。黄輪党の墓所へ行く、と」
それだけで? 首をかしげるコウジを見て王はからからと笑った。黄輪党の墓所はそれまで二度コウジが出現した場所だ。そこへひとりで出向くというのだから何らか動きがあるに違いないと王は考えたのだという。一度日本から水ぼうそうを持ち込んだのだ。警戒されるのも無理ない。
「私だけでなくキ神もそう考えたようでな。今日は動きに備えることになっておったのだ。だいたいそなた、牛頭翁の部屋に保管してあった異界の品々を持ち出したであろう」
異界の品々とは一年前に牛おっさんに没収されたスーツやかばん、粉ミルクなど日本から持ち込んだ荷物のことだ。こっそり取り返したつもりだったのだが疾うの昔にバレていたらしい。コウジはがっくりうなだれた。
「じゃあ、みなさんご存じだったんですね」
「黙ってこそこそするほうが悪い」
橘の感情の昂ぶりを抑えた声が隣から聞こえてきた。怒って当然だ。
「わがきみは『好きにさせればよい』『戻って来なければ来ないで仕方ない』とおっしゃるし私は……」
「ごめん、橘。ほんとうにごめん」
「さて黄三家の」
ぽん、と王が両手を合わせた。
「そなたには一瞬姿が消えただけに見えただろうが、マレビトどのは異界へ行って戻ってきたのだとキ神が言うておる」
「そのとおりです」
以前のコウジはナラクにいても存在が二十一世紀の東京に半ば引っかかったままの状態だったとキ神が主張しているらしい。髭も伸びず、睡眠も食事も排泄も必要としない時間の止まった状態だったのはふたつの世界でどっちつかずになっていたことが原因だったのかもしれない。
――そういえば東京に戻ってもあの状態、続いてたもんな。
ナラクを忘れず、折に触れ思い出していたのは、心の軸足が元の世界からナラクへ移ったからだとコウジは気づいた。
――愛着っつうか、思い入れっつうか、そんな何かが世界に関する軸足とか、時間の進み方に関係してるんじゃないかと俺は思ってる。
東京で年を重ね老いる陽気な異世界人。今日も足下にあの指輪の埋まる河原で釣り糸を垂らしているに違いない。そしてバタさんの言ったとおり、時間の進み方は思い入れがより深いほうへ傾いていた。
「もうぼく、道を踏みはずしたりしません」
「そうか。マレビトどのはこちらを選んだのか」
王は黒く煤けた墓石へ目をやり、ほろ苦く笑んだ。
「よかったな。――ほんとうによかった」
一度目を伏せ、王は橘へ微笑みかけた。そして再度ぽん、と両手を合わせた。
「さてさて」
王の視線の先で、牛おっさんと馬頭の頭領がカートから降り立った。
「黄三家の、そなたはほんとうに人の話を聞かないな。マレビトどのに触れてはならん、検査が先だときつく言っておいたであろうに」
「すみません」
しゅん、と縮こまる橘からコウジへ、そして牛おっさんと馬頭の頭領へと王は視線を移した。王の目配せに気づき、牛おっさんがカートの荷台へ歩み寄る。
「一年前と同様、検査が必要だ。黄三家の、そなたもな」
牛おっさんがボールのような検査器を二つ取り出し、ぽいぽいと放った。馬頭の頭領が手もとの何かを指でいじると検査器が勢いよく飛んできて目の前で広がりぼすっ、とコウジと橘の顔を覆う。
「むが」
――そういえば一年前にもこんなことが……。
検査器に頭を包まれコウジはなつかしく思い出した。
「何もかも去年と同じというわけではないようだ」
「どういうことでしょう」
検査器から送られてくるデータを手もとのモニターで確認しながら馬頭の頭領が王へ問い返した。
「そなたたちが到着する直前まで、この者らは鬼熊に襲われておった」
「この墓所も含めシティ周りは祭りの前に念入りに熊避けしてあったはず……」
牛おっさんが腕組みして考え込んだ。王は黄三家の墓石へ目をやった。
「柚子が言っておった。マレビトが現れたとき、鬼熊の仔と遭遇したと」
「まさか同じ個体――」
「あり得る。柚子がマレビトと出会ったのが十一年前。――先ほどの鬼熊も成体であったがまだ若い、そのあたりの年齢と見た」
「それにしても熊避けを回避するとは……」
「うむ。それも気がかりだ。まだ若い個体だからかもしれないがキ神の記録にない熊だったようだ」
春祭りになるとナラクの民がシティを出て森でキャンプに興じる。イベント前に厳重に獣避けをしてあるそのシティの森でまさか熊に出会うとは思っていなかったため、橘も王も追跡装置付きの銃弾などの用意がなかった。
「黄三家のが斬りつけて左目に怪我を負わせた。あれが目印になるといいのだが。――どうもあの熊め、マレビトどのとの間に妙な縁をむすんでしまっているように思えてならぬ」
王は鬼熊の消えた森の奥を鋭く睨んだ。馬頭の頭領が王の前で跪いた。
「わがきみ。検査の結果がだいたい出そろいました。ふたりとも問題ありません」
「当惑星の旧基準で?」
「新型水痘を追加した全検査項目です」
「ふたりとも? 黄三家のはともかく、マレビトどのも?」
冬に起きた新型水痘禍はまだ記憶に新しい。集団発生初期で感染者を隔離し被害を小さく抑えることに成功した。橘は王や他の朋輩と同様に鬼熊狩りに出ていたため感染者に接触することなく予防接種を受けている。感染者に接触したコウジは最後まで隔離されたままだったがはっきりと発症が確認できなかった。
「マレビトどのも十分な抗体価を有しています。予防接種を受けていませんのであのとき感染したのではないかと思われます」
「発症していないはずだが……不思議であるな。異界の者の持つ力なのか」
「いいえ」
馬頭の頭領が検査器に頭を覆われたままのコウジへ視線を投げ、気遣わしげな表情をした。
「キ神の言うとおり、以前は異界とこちらどっちつかずになっていたため結果として傷病を瞬時に治癒して異界にいた時の状態に戻していたのでしょう。今後は以前のままというわけには」
「なるほど。では今は普通の人間と同じように怪我も病気もするというわけだな。それであれば手術も可能だろう。囚人と同じようにキ神の輪に加えるとするか」
「はい。キ神に諮ってみます」
「そうしてくれ」
球体に頭部を拘束されるコウジと橘を、王と獣頭の男たちがじっと見守っている。