一
この小説は『そしてぼくは道を踏みはずす (一)』(N4548BQ)の続きです。
(承前)
ナラクシティの森、春。地面を這うようにして生える丈低い木に、釣鐘のような小さな白い花が頬を寄せ合うように咲いている。森の中を風が渡る。木々がまばらになったあたりにたくさん咲くその花々が一斉に首を振る。森の中にしゃらら、と花の形をした小さな鐘が一斉に鳴る音が満ちる。森の中の黄輪党の墓所でコウジは美しいひとを抱きしめていた。
――よかった。
自分の知るいとしいひとがたとえいなくても、時の流れが変わりそのひとが自分の知るひとでなくてもかまわない、そう思い切りはしたものの、故郷を捨て世界を渡ることはコウジにとって重い決断であった。
――ほんとうによかった。
この数ヶ月、得意先の応接室に活けてある花を見て、バタさんの隣で川風に吹かれて――折に触れ切なく思い出した橘にあたたかく出迎えてもらえてコウジは感無量だった。
うう、うううううう。
なんて剣呑な唸り声なんだ。分かってる。忘れてない。ちゃんと覚えてる――ちょっと、ちょっとだけ待ってくれないだろうか。橘の明るい金色の髪に頬を寄せコウジは念じた。
うう、うううううう。
吹雪丸、今すごくいいところだから、もうちょっとだけ待って――コウジの念は巨大な三頭犬に届いていないようだ。腕の中で橘がもぞもぞし始めた。仕方なく顔を上げると予想以上に物騒な顔が三つ並んでいた。
うう、うううううう。
白い被毛に日光を反射してきらめく銀色の隈取り模様。鼻に皺を寄せ牙と目を剥く表情、逆立つ毛、地面を踏みしめる逞しい足が怨念を体現しているように見える。機嫌悪い。機嫌が云々というよりものすごく怒ってる。吹雪丸より先に橘にぎゅうとかちゅうとかやっちゃったのがいけなかったんだろうか。吹雪丸も女の子だからな――。「私たちのうち誰が一番好きなの? ねえ、お父さん」と詰め寄られ三姉妹を平等に扱うことに腐心していた亡父をコウジは思い出した。まだ結婚どころか橘を恋人にできるかどうかも未確定の現況でお父さん的配慮を求められるとは。
うう、うううううう、おおおおおお。
うちのお嬢さん、かなり怖いよね。みんながびくびくするほど怖くないって思ってたんだけどやっぱり至近距離に「取って喰う」「はらわたはご馳走」「末代まで呪ってやる」みたいな臨戦態勢の凶悪顔面が三つ並んでると怖い。ナラクでどのくらい時間が進行しているのか分からないけど、数ヶ月留守にして悪かった、他の犬に浮気していたわけでは――あ、実家の柴犬るーちゃんとは思いっきり仲良くしたけどもしかしてぼく、るーちゃん臭かったりするんだろうか――。
「コウジ。動かずそのまま聞け」
腕の中の橘が囁きかけた。
「これから私の後方、いま吹雪丸のいる方向にお前を投げる」
「投げ――?」
「力を抜いて私に身体をゆだねろ。そして受け身を取れ」
「要求が高度なんじゃ……」
「受け身を取ったらすぐ逃げろ。いいな」
「いや待って、よくな」
ぞくり。
後頭部から背中にかけて冷たいものが走る。何だ。怒る三頭犬、不穏な挙動を見せる恋人はコウジの前方にいる。じゃあ、背後の冷たい気配は何だ。
「っどりゃあああ」
身構える暇もなく胸ぐらを掴まれた。橘の足が深く入ってきたと思ったら身体が浮き上がり天地がひっくり返る。
「うわっ、うわわわ!」
ぐるりと視界が回転するのと同時に吹雪丸の姿が消えた。「あ、受け身」と脳裏をよぎった時には背中からしたたかに地面に叩きつけられていてそれでも頭を打たずに済んだってことは受け身っぽいことができたんじゃなかろうかいやそれにしても当然だけどすっごく痛いよいったい何事だよ、と起き上がろうとしたコウジを橘が飛びついて
「ぐえええ」
引きずった。
「このままシティへ向かって走れ。――振り向くな!」
中腰のまま森の外へ駆け出そうとふらりと身を起こしコウジは驚いた。森の奥に向かって橘が山刀を抜き身構えている。振り向いてコウジはよろめきくずおれた。
おお、おおおおお。
ごお、おおおおお。
大きな獣が二匹、睨み合っている。逆立つ白い毛から火花が散りそうなほど張り詰めた表情の吹雪丸と、白と黒、ツートンカラーのパンダに似た獣、鬼熊。唸り声が途切れすす、と後ずさったかと思うと同時に地面を蹴り、ぶつかり合った。鬼熊が払った前脚を避けて吹雪丸がしゅたた、と飛びすさる。入れ替わりに橘が跳んだ。
一閃。
鬼熊の左目を一筋、橘は山刀で斬った。
うがっ、うがああああ。
血の流れる左目を前脚で押さえ鬼熊が激しく頭部を揺する。吹雪丸が隙を突こうと飛びついたが興奮する鬼熊に弾き飛ばされた。
「吹雪丸!」
腰を抜かしていたコウジが思わず叫んだ。三つ頭のひとつがコウジの声に反応する。鬼熊が振り下ろした前脚がその頭をかすった。
「――あっ!」
痛みをこらえるような短い鳴き声をあげる吹雪丸に駆け寄りたくても身体が動かない。
「コウジ、走れ!」
橘が振り返らずに叫んだ。
「吹雪丸の気を乱すな、行け!」
――でも、でも……!
橘と吹雪丸を置いていけない、行きたくない。しかし自分には何もできない。こうして腰を抜かしている間に、自分が逃げるのを躊躇している間にどんどん橘たちの生存確率がすり減っている、それを頭では理解している。でも身体が言うことを聞かない。
おお、おおおおお。
ごお、おおおおお。
吹雪丸と鬼熊が吼えた。じりじりと間合いをはかる吹雪丸の三つ頭のひとつがぴくり、と耳を動かした。森の、シティの方向から何かが近づいてくる。
ど、どど、どどど。
大きく立派な角をした馴鹿、カートが立て続けに森の中から飛び出してきた。細身の女がカートから飛び出し、身軽く着地するとぎりりと弓を引き絞った。
びゅいいいいいいいいん。
鋭い音を立てながら鏑矢が鬼熊の頭部をかすめるように飛んでいった。耳障りな音に鬼熊が棒立ちになる。
「去ね! 疾く去ね!」
王が次の矢をつがえる。ぎりぎりと弓を引き絞り、射た。
びゅいいいいいいいいん。
鬼熊の頭をかすめ、鏑矢が飛ぶ。王はすぐに次の矢をつがえた。空気が張り詰め緊張で痛みを覚える。しかしコウジは鬼熊の躊躇も感じた。
――そうか、王様が来て人が増えたから……。
森を走る道を複数のカートの駆動音、馴鹿を急かす声が近づいてくる。
ごお、おおおおお。
咆哮が空気を揺さぶる。左目から血を流す鬼熊はひと声吼えるとくるりと背を向け、森の奥へ走り去った。




