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野良怪談百物語

合わせ鏡

作者: 木下秋

 喧騒賑やかな居酒屋の大部屋。学友達が大学の悪口を言い合って盛り上がる中、飯沼いいぬま幹彦みきひこは、テーブルの斜向はすむかいのある女生徒を見つめていた。


 部屋の隅に座り、こちらの話題には入ってこようとしないその女は、一人静かにたたずんでいた。両手でコップを持ち、その中の液体――色からしてカシス系のカクテル――をちびちびと飲む。その視線はどこを見るでもなく、テーブルの上のくうを見つめていた。


 幹彦は彼女に――長谷はせ真理亜まりあに密かな好意を寄せていた。ちょうど一年前にゼミで一緒になり、その初めての飲み会で彼女を見かけた時、幹彦は胸の高鳴りを抑えられなかった。――実は更に一年前、大学の入学式の日に、彼は彼女に“一目惚れ”をしていたのだ。




 ――花びらを舞わせる桜の木の下に、たった一人で立っていた。黒く長い髪はシルクのように滑らかで、風にさらさらとなびく。晴れやかな天気――行事の日なのに、彼女の顔にはかげりがあった。どこか思いつめたような、そんな表情。それがまたミステリアスで、幹彦の興味を惹いた。彼女がふいにこちらを向き、眼が合う。病弱さを感じさせる白い肌、少し吊り上がった猫目に、スッ、と伸びた鼻筋。薄い唇。彼は今までになく、その女に惚れた。彼女を“美しい”と思った。


 それ以来、大学ですれ違う度に緊張していた幹彦だったのだが、声をかけることはできなかった。真理亜はいつも一人でいて、誰かと一緒に授業を受けたりだとか、そんな風景は一度も見なかった。……それでも、一度も話しかけることができなかったのである。それには、ある理由があった。


 「長谷真理亜は、ちょっとオカシイ」。そんな噂があった。――ある女生徒が、真理亜の読んでいた本を後ろから覗き込んだことがあった。それが、“黒魔術”に関する本だったというのだ。それから「彼女と関わると、呪われる」といった噂話が囁かれる様になった。――性格さえ変えればすぐにでも人気者になれそうな容姿をしているというのに、いつも一人でいる理由はそれか。と幹彦は合点がいった。学年が上がり、二年生になっても、三年生になっても、彼女はいつも一人だった。――それでも、彼女は授業やゼミを欠席したことは一度も無かった。ゼミの飲み会でも、いつも一人黙って飲んでいるのに、毎回ちゃんと来ていた。ずっと一人でも、そんなことは気にならない性格なのだろう。そう幹彦は思っていた。




 ――飲み会が終わり、複数の居酒屋が入った雑居ビルの前に出ると、学友達がガヤガヤと騒いでいた。二次会に参加する人の出欠をとる者、ひたすら笑っている者、そして電柱に手を突き、嘔吐する者。幹彦はそれらを気にせずに、辺りをきょろきょろ見回した。――真理亜を探していたのだ。


 真理亜はいつも、二次会には参加せずに帰ってしまう。今年大学三年生になった幹彦は、焦っていた。初めて彼女を見たあの日から、ずっと真理亜に想いを寄せてきた。しかし、もう半年もすれば就職活動が始まり、さらには卒業論文、と忙しくなってしまう。大学生活最後の――もしかしたら人生で最後の、許された時間。夏休み。その時間を、彼女と一緒に過ごせたら、どれほど幸せなのだろう――。幹彦は(今日こそ、話しかけよう)と意気込んでいた。眼を凝らし、彼女の姿を探す。すると……いた。真理亜はすでにその場を離れ、駅の方へと向かっていたのだ。全身黒系統、フリルで飾られた“ゴシックロリータ”――いわゆる“ゴスロリ”調の服で身を包んだ真理亜は、今にも夜の闇に溶けてしまいそうだった。


 学友達の方を見る。どうやら先ほど吐いていた者の体調が悪いらしく、みんなはその者を心配し、介抱している。誰もこちらを見ていない。幹彦は静かにその場を離れ、真理亜を追った。



「……あのっ、……長谷さんっ!」



 少し走ると彼女に追いつき、その姿がはっきりと見えた。幹彦は呼びかけた。入学以来、初めて声をかけたのだ。



「……」



 真理亜は立ち止まり、振り向いた。その表情には疑問が浮かんでいる。「何か、用?」とでも言いたげだ。



「あっ、あのっ、……いや、……イヤならいいんだけど、……。二人で、飲みなおさない? ……なんて……」



 幹彦は自分でもわかるくらいに、動揺していた。(まさかここまで緊張するとは……)と、内心驚いていた。


 まっすぐ、真理亜を見つめることができなかった。幹彦は彼女との間のちょうど中間あたりに視線を泳がせた。手持ちぶさたの両手は意味不明のジェスチャーをし、最終的に右手は顎に、左手は腰に持って行った。


 彼女は、どんな顔をしているんだろう――。幹彦はチラリと、真理亜の顔を覗き見た。



 真理亜は――静かに微笑んでいた。そして、静かに。ゆっくりと頷いていた。



     *



 時刻は深夜、一時を回っていた。長針は“五十分”を指している。


 幹彦は、真理亜の部屋にいた。「飲み直そう」と誘ったのは幹彦からだったが、まさか真理亜の部屋に呼ばれるとは夢にも思っていなかった。スゴロクで例えるなら“六”が出て、更に止まったマスに“六進む”と書いてあったような。彼はそんな気分を感じていた。


 心臓がさっきから、異様に高鳴っている。黒い革張りのソファに座った幹彦は、部屋を見渡す。確かに“黒魔術”で使いそうな、タロットカード、水晶玉、不思議な模様の描かれたペンダントなどが飾られている。部屋は白熱灯ではなく、土気色の間接照明によって照らされていた。息を吸えば、大学で彼女とのすれ違った時に一瞬嗅いだ、お香のような甘い匂いがする。――幹彦は、今にも正気を失いそうだった。



「お待たせ」



 真理亜はそう言って、キッチンから出てきた。両手に持ったお盆から、二つの液体の入ったコップをテーブルに置く。薄暗い部屋の中では、その液体の正確な色はわからない。幹彦には、ただ“どす黒く”見えた。


 更に真理亜は、鉄製の浅い、水の入った洗面器のようなものをテーブルに置いた。これを何に使うのか幹彦にはわからなかったが、そんなことはもう彼にとってはどうでもよかった。


 真理亜は幹彦の隣に腰を降ろすと、そう言ってコップを一つ、彼に渡した。



「乾杯」



素直に受け取ると、彼女とともに一口飲む。――すぐに幹彦は、顔をしかめた。アルコールの強い飲み物だったのだが、濃い。そして、濃厚な、鉄のような味が口内に残った。



「……“合わせ鏡”って、知ってる?」



 真理亜の高い、囁くような声が――時計の秒針の音だけが鳴る、静かな室内に響く。幹彦の胃の中で、遅れて液体が燃えた。アルコールが急速に全身に回り、頭がクラクラとする。


 かろうじて、幹彦は頷いた。



「……鏡と鏡を合わせると、その中で鏡同士が互いを写しあって……っていう、あれだろう」



「そう」



 真理亜はゆっくり、テーブルの向かいに動いた。そして、先ほど居酒屋でもそうしていたように、カーペットの上に座る。ソファに座っていた幹彦は、彼女を見下す形になった。


 そろりと、真理亜は鈍色にびいろに光る洗面器を、二人の間に動かした。幹彦がそちらに眼をやると、中の水が波紋を作っている。



「午前二時、ちょうどにね――」



 真理亜が言う。


 そして、お互い一緒に、壁にかけてある時計を見た。アンティーク調の壁掛け時計。盤面の下では、振り子が揺れている。――残り数十秒で、二時ちょうど。



「――“合わせ鏡”をすると、“悪魔”を呼ぶことができるの」



 そこまで言うと、真理亜はゆっくり身を乗り出し、幹彦に顔を近づかせてきた。


 驚く幹彦だったが、(そういうことか……)と空気を察すると、彼も身を乗り出させ、顔を近づける。


 お互いの顔が、だんだんと近づいてゆく。幹彦の心臓はドクドクと鼓動し、今にも破裂しそうだった。


 しかし、幹彦は妙に感じた。――真理亜が、眼を瞑らないのだ。(普通こういう時って、眼を瞑るもんじゃないか……?)と疑問に思う。


 顔は近づいてゆく。――だが、彼女は眼は瞑らない。(……まぁ、いいか)なんて幹彦が思っていると、真理亜は口を開いた。



「――今、私たちの“眼”と“眼”で、“合わせ鏡”ができているのよ」



 その時、時計がポーン、ポーン、と鳴った。二時になったのだ。


 幹彦は、真理亜の“眼”を見た。黒曜石のように濡れた光を放つ黒い“眼”に、己の“眼”が写っている。そして、その“眼”の中にはまた――。


 真下で、洗面器の中の水がちゃぷん、と跳ねた。とっさにそちらを見ると――透明だったはずの水が、墨汁を混ぜたように黒く染まっている。


 そこに、自分の姿が歪んで写っていた。そして、その背後には――異形の姿の、何者かが写っている。――背後に、何かいる――。


 瞬間、後頭部を何者か掴まれ、押された。洗面器の中の、薄く張られた液体の中に、幹彦の顔が沈む。


 幹彦の顔面は、なんとも不思議なことに、洗面器の底にぶつからなかった。ずぶずぶと、沈んでいった。


 彼は最後に、液体の弾ける音とともに、真理亜の声を聞いた。



「……“生贄”になってくれて、ありがとう」



 ――幹彦は、底の無い闇の中へと、落ちていった。

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