気付く感情
向日葵畑の中で、見慣れた栗色の髪の少女と手を繋いで駆け出す。目を突き刺すような青が俺達を呑み込み、思い切り息を吸い込めば肺の奥がチリッと痛んだ。
────風紀、世露くん
いつも通り、世露と「ユメカ」の墓参りから向日葵畑へ向かった時、夢架と麗奈は「いつも通り」俺達の帰りを待って居た。二人で花冠を作っていたらしく、ほんの少し不格好な二つの冠が、まるで取り残された様にぼんやりと浮かび上がっていた。
「おかえり」と笑う夢架に「ただいま」と声を掛ければ、何故だか妙にくすぐったい気持ちになって。
「おかえり」と、「ただいま」。当たり前にあるはずのその言葉を聞く事は、もう叶わないと思っていたから。
麗奈は、と視線を彷徨わせれば、世露に「おかえりなさい」と声を掛けていた。世露は、ほんの少しくすぐったそうに、「ただいま」と笑う。
────そのぎこちない姿に、いつだったか麗奈が家族ごっこ、と呟いたことを思い出す。「おかえり」と「ただいま」を言い始めたのが誰だったのかはもう覚えて居ないのに、その言葉だけは、やけにはっきりと耳に残っていた。
俺達は、誰が始めたのかもわからない「家族ごっこ」を、それぞれの心の穴を埋める様に繰り返し続けている。血も繋がらない、赤の他人だらけの、小さな小さな「家族」を。
────………………き
「風紀…………?」
不安げに自分を呼ぶ声に、はっと顔をあげれば、世露と夢架が心配したようにこちらを見ていた。
「どうしたの、風紀?」「何度呼んでも返事が無くて……もしかして、夏バテで体調を崩しているんですか?」
心配そうにこちらを見る四つの目に、「大丈夫だ」と答えれば安心した、けれどまだ半信半疑のような表情をして、二人がそっと息を吐く。その表情に申し訳なさを感じ、気まずい気持ちで視線をずらせば、ずらした先には興味が無さそうに頬杖をついて入口を見つめる麗奈が映る。
────本当、麗奈は変わらないな…………
相変わらずの態度に、先程とは違った意味で溜息を吐く。微かな音だったからか、世露も夢架も特に気に留める事もなく、話は今日の遊びへと移動する。話が移動した事に一人で安堵し、ほっと胸を撫でおろせば、相変わらず麗奈の視線がちくちくと刺さる。
な・ん・だ・よと声に出さずに問えば、鬱陶しそうに眉を寄せ、う・ざ・いとやはり声に出さずに返す。その態度にかちんとき、目線を逸らす。少ししてから、もう一度麗奈の方へ目線を向ければ、麗奈は愛しげな、それでいて少し寂しげな目で夢架と話す世露を見つめる。
当の本人は、その視線に全く気付かずに、にこにこと夢架を見つめて笑う。その頬が、ほんの少し色付いている事に、麗奈も気付いているのだろう。
────夢架と、一緒に逃げてあげて
かくれんぼが始まる前に、麗奈にそう言われた言葉を思い出す。まるで、泣き出すのを堪えるかのようなその表情に、どれだけの想いが秘められているのか、俺には想像もつかないけれど。
せめて、少しくらい。誰かが彼女の事を考えていても、罰は当たらないだろう。
────…………わかった
────……ありがとう
麗奈はいつも通り、不本意そうに、けれども何処か安心したように笑う。その表情に思わず初めて笑った、と呟けば、無言で足を踏まれる。何すんだよ、と文句を言おうと口を開けば、
────私は、本当はよく笑うのよ
知らないのね、なんて悪戯っぽく笑って、麗奈は鬼を決める方法を真剣に考える世露と夢架を見つめる。二人は楽しげに、鬼を決める方法を話す。果ては、「ジャストッピ」なんて聞き慣れない言葉も聞こえてくる。
「………………鬼を決めるだけで日が暮れそうね」
麗奈は呆れたようにため息を吐いて、二人の方へ駆け寄る。
さらり、と、麗奈の長い髪が風に舞う。駆け出したときに、ふわり、と花の香りが鼻の奥に入り込み、何故だかほんの少し寂しくなる。
俺は、そんな三人を、ただ見つめていた。
夢架が何かを思い付いたように目を輝かせて話し出す。世露と麗奈は、その言葉に噴き出して笑う。そんな二人を見て、夢架が拗ねたように頬を膨らませる。
────それは、気を抜いたら泣いてしまいそうなほど、酷く温かな光景で。
三人の姿が、幼い頃の兄と、母と、父の姿に重なる。遊園地、水族館で喧嘩を始めた小さな俺達を見て、母と父は呆れた、けれども少し嬉しそうに笑う。「それじゃあどっちも行ってしまおう」なんて父が言い出したから、後々父だけ母に叱られていた。
────そんな、とるに足らない幸せだった日々の記憶を噛み砕いて呑み込む。涙を堪えようと上を向けば、痛いくらいに綺麗な青空が目に入り込んで、それはなかなか、瞼を閉じても消えてはくれなかった。
世露がこちらに気付いて手招きをする。夢架は、大きく手を振って転びそうになったところを麗奈と世露に支えられていた。
麗奈は────まるで、こちらが来るのを待つように緩く腕を組んで、小さく頷く。
そんな彼らを見て、俺は思わず手を伸ばす。その温かな光に、触れてしまいたいと思ったから。
────風紀。大切なものの手は、何があっても離すんじゃねぇ。もしも離したら、いつか絶対に後悔する
頭の中で、兄の言葉が反響する。
────…………だって、もし、俺が離さないと相手を傷つける事になったら?そしたら、どうすればいいの?
────…………そんな時はな────…………
兄は、微かに笑ってオイルライターで火を付ける。ジッ、と微かに音がして、紫煙をくゆらす。
単車のエンジン音、夜の街。一際明るく光るコンビニ。闇は悲しくなるほどに深くて、暗い。
俺はその深い闇に呑まれないように、そっと兄に寄り添う。俺が近くに来たことで、兄は吸殻を携帯灰皿に捨てる。
兄は、まるで昔のようにそっと俺の手を取る。ごつごつとした兄の手に比べ、一回り小さな俺の手に、過ぎた互いの年月を思い知らされる。
兄は、薄い唇を小さく動かして、何かを呟く。その口に、「聞こえない」と甘えるように耳を近付ければ、「近ぇよ」と苦笑いして弱く俺を押し戻す。
────……………………弱いところも、狡いところも、全部晒せ。失いかけるものを、全力で引き止めろ
夜の闇の中、いやに真剣な瞳でこちらを見て言うものだから。「兄貴ぶんなよ」なんて軽口を叩けば、「生意気な奴だな」なんて、笑って凄まれる。
────そんな、泣き出しそうなほどの優しい記憶を、どうして今、思い出すのだろう
両目から、ほんの少し温かな雫が溢れて。それをあいつらに気付かれないように、そっと手の甲で乱暴に拭った。
「風紀!」
遠くから、世露と夢架が大きく手を振る。麗奈は、「早く来い」とでも言うように、二人に気付かれないように顎をしゃくった。
俺は、彼等に向かって、そっと駆け出す。まとわり付くような、黒い寂しさと喪失感から、光へ向かって逃げるように。
「………………ありがとう」
三人にそう言えば、世露と夢架はきょとんと首を傾げ、麗奈は興味がなさそうに目線をそらした。
気付かれなくても、それでも。ただ彼等に伝えたかった。支えてくれたのは、あの思い出から戻してくれたのは、紛れもなく彼等だったから。
夢架と世露が右手を出す。麗奈は左手を。少し迷って、俺も左手を出した。
四本の手が青空の下で、黒い影を作る。
きらり、と、正面にいる世露の色素の薄い髪が太陽の光に照らされて光る。世露の少しだけわくわくとした表情を見て、知らないうちに口元に笑みが浮かぶ。
────あの頃の俺達の感情は、ただただ無垢で、綺麗だった
同じ形を作った四本の手は、一度空に浮かび、再び定位置へ形を変えて戻る。姿を変えた形は、グーとパー。グーは、俺と夢架。パーは、世露と麗奈だ。そこからもう一度代表者二人が互いにじゃんけんをして、鬼は麗奈と世露の二人に決まる。
「あはは……鬼、ですね」
運が無いなぁ、なんて笑って、世露は麗奈と顔を見合せて笑う。麗奈も、運ばかりは仕方がないと思っているのか、小さく溜息を吐き、慰める様にそっと世露の背中に手を添え、二人は木の下へと向かう。
俺は、チョキへ形を変えた自分の手を見つめる。ただの手である筈なのに、二本だけ伸ばされた自分の人差し指と中指が、酷く鋭い鋏へと姿を変えてしまったような気がした。
────運が無いなぁ
その言葉に、思わずはっとして世露の数歩後を歩く麗奈を見る。視線に気付いたのか、それとも初めから見て居たのかは定かでは無いが、麗奈とかちり、と視線がぶつかる。
────……その時の俺は、酷く情けない顔をしていたのだろう。
麗奈は、いつも通りの無表情で「ば・か」と口を開閉させて呟く。その反応に思わず俯くと、足元に見慣れた影が入り込む。麗奈だと解ってはいたが、だからこそ、顔を上げる事が出来なかった。
「………………馬鹿ね。運なんだから、考えたって仕方が無いでしょう」
そう二人に聞かれないように耳元で囁くと、麗奈はゆっくりと俺の頭を一度だけ撫でる。いつもの麗奈らしからぬ行動に思わず顔を上げれば、麗奈は何処か痛みを堪える様な表情で俺を見つめる。
「………………ねえ、風紀。選ばれないのも、哀しいものね」
見返りなんていらないのに、と麗奈はまるで独り事の様に呟く。その姿が、まるで自分よりも幼い子供のように見えて、思わず手を伸ばして頭を撫でる。さらりとした麗奈の黒い髪は、するりと俺の指を簡単に通り過ぎる。それが、酷く寂しくて、苦しかった。
「…………貴方なんかに慰められるなんて、心外ね」
「……俺だって調子が狂って不愉快だ」
嫌みに嫌みで返せば、麗奈は少しだけ気が抜けた様に笑う。その表情は、痛々しくて見ては居られなかった。
嗚呼、彼女は例えるなら、薔薇の花に良く似ている。美しく咲き誇って、堂々としているつもりでも、本当は触れられる事が怖くて仕方がないあの綺麗な花に。
「…………ありがとう。私は大丈夫よ」
そう言うと、麗奈は俺の額を小さく指先で弾いて、世露の元へ向かって駆け出す。
あんなに気が強いのに、どうして。世露と一緒で大丈夫だろうか。俺が────…………
最後に浮かんだ感情に、思わず戸惑って、視線を左右に動かす。ぐるぐると感情が渦を巻いて、酷く吐き気がする。
大丈夫なんかで、あるはずがない。世露のあの言葉は、自分では駄目だと思い知らされている様なものだ。聡い彼女が、それに気付かない筈がない。
それなのに────どうして彼女は、笑っていられるのだろう。あんなに綺麗な、笑顔で。
「風紀!」
夢架が少し離れた所から、ぶんぶんと勢いよく手を振る。そんなに振ったら転ぶぞ、なんて声を掛けようとした矢先に、案の定転ぶ夢架を見て、驚きと少しして笑いがふつふつと込み上げる。
駈け寄って夢架の手に触れる時に、ぐるぐると回る不快な感情が無くなっている事に気付く。それは、有り難いと同時に、何処か喪失感を抱かせた。
「大丈夫か?」「大丈夫だよ、風紀」
そう言って、へらり、と笑った夢架の表情に、ほっと肩の力を抜く。立ち上らせるために手を取り、繋いだままゆっくりと走る。繋いだ手から、夢架の体温が伝わる。
夢架と一緒に隠れながら、泣きだしそうな目をした麗奈を思い出す。大丈夫だろうか、なんて考えが浮かんだ理由を、俺はまだ知らない。
「もういいかい」「もういいよ」。隠れた事を伝えるための言葉であるはずなのに、何故だかそれは、酷く寂しく耳に残った。
「ねえ、ふうき」
蝉が騒がしく泣き、蜜蜂の羽音が聞こえる。ざあっ、と遠くで風が音を立てる。
夢架は、いつもとはほんの少し違う表情でこちらを見る。その切実な表情に、何か大切な用事があるのかと、夢架を見つめる。
「…………何だよ?」
そのいつもとは違う夢架の表情に、こくりと喉を鳴らす。夢架は、真剣な目でこちらを見て、少しずつ言葉を吐きだし始める。
「わたし…………わたしね…………?」
夢架は、小さく息を吸い込む。頬が、先程よりも赤く色付いている。
俺は、何故かその先に続く言葉に、恐怖心を抱いていた。知ってしまったら、もう元に戻れなくなってしまう魔法の言葉を口にされてしまう事が酷く恐ろしくて、咄嗟にその後に続く言葉を止めようと口を開く。
「ゆ…………」
「私…………本当は────」
「「みーつけた」」
向日葵畑の中に、麗奈と世露の声が響く。俺と夢架は、驚いて「わっ」と小さく声を上げ、二人を振り返る。
「麗奈ちゃん、世露くん」
夢架は二人の名前を呼ぶと、少しだけ安心したように息を吐き、一瞬だけそっと目を伏せてから、顔を上げる。
「えへへ…………見つかっちゃった、ね」
そう言って微笑むと、夢架はそっと立つ。その表情は、いつも通りの夢架の表情で。俺は、何処か安心した様な気持ちでそっと息を吐く。鬼は、俺達二人に交代だ。
俺は、少し先に歩きだした夢架に向かって声を掛ける。…………答えが返ってこない事を、頭の何処かで見越して。
「夢架。さっき、何か言いかけて無かったか?」
夢架は、ぴくり、と僅かに肩を揺らして、動きを止める。その後、少ししてゆっくりと振り返る。
「…………ううん、何も言ってないよ」
そう言うと、ゆっくりと口元を綻ばせて笑う。その表情は、今までに見た事が無い表情で。
その瞬間、俺は彼女が全て見越した上で、あえて答えを出さなかったのだと言うことに気付く。自分の卑怯な考えも見抜かれてしまったようで、酷く恥ずかしかった。
俺はそれ以上何も言えずに、夢架と二人で木の下へと向かう。歩き出す直前、横目で見た世露の表情は、まるで痛みを堪える様な表情をしていて。麗奈は、世露を気遣う様に世露と手を繋いでいた。
一瞬だけちらり、と見た麗奈の表情は、酷く痛々しくて。こちらを一度も見る事なく、世露だけを見つめるその姿に、訳の解らない強烈な不快感が生まれ、吐き気がした。
心臓が、焼ける様に痛くて、熱い。黒い気持ちがぐるぐるとまわり、吐き気がする。
────毒みたいだ
随分昔、まだ兄がいた頃に一緒にやった、ロールプレイングゲーム。うっかり毒の沼地へと入ったら、薬を使うか呪文を唱えるまで、いつまでも毒がまわり続けていた。
ゲーム越しにやった時は、痛みも、苦しさも解らなかったけれど。じわり、と浸食されていく痛みと苦しさに、バシバシと音を立て、少しずつ体力が減っていった勇者の姿を重ね合わせてしまう。
子供だった俺は、どんどん命を削っていく勇者をどう助ければいいのか解らず、泣いてしまった。見かねた兄が、持ち物の中に入っていた薬を使って命を救ってくれたが、自分の手で危険な目にあわせてしまった事が怖くて、それ以来自分は触らずに兄がゲームをしているところを見ていた。
────苦しかっただろうな
そんなことを思ったら、途端に息苦しさが顔を出す。ふらつきそうな身体を何とか踏ん張る。
頭蓋骨の奥に、黒い絵の具がこびり付いた様な不快感が襲い、酷く吐き気がした。
「風紀…………?大丈夫ですか?」
後ろに居た世露が、異変を感じたのか駈け寄る気配がする。同時に背中に触れた温かな感触は、世露が背中を擦る感触だ。少し前を歩いていた夢架も、慌てた様にこちらへ駈け寄ってくる気配がする。
強烈な吐き気に、立って居る事が出来なくなり、そのまま座り込む。ぐるぐると頭の中がまわり、吐き気を掻きたてる様に、人の声が被さる。
────あんな子の弟なんだから、まともな人生なんて送れやしないわ
────風紀。兄貴と関わるのはやめなさい。お前とは住んで居る世界が違うんだ
────風紀。貴方だけは、どうかまともな子であって頂戴ね?
五月蠅い。五月蠅い。五月蠅い五月蠅い五月蠅い。
「五月蠅い!」
頭の中に浮かぶ雑音を振り払うように大声を上げた瞬間、はっと顔を上げる。世露はびくり、と肩を跳ねさせ、夢架は、怯えた様な表情でこちらを見る。
じわり、と心の中に黒いインクが滲むように罪悪感が埋め尽くす。弁解をしようとしても、言葉が出て来ず、はくはくと情けなく口を動かすだけだ。
呼吸が止まってしまった様に、息苦しさが顔を出し続ける。苦しい、と伝えようとしても、言葉は喉の奥で絡まって、上手く伝える事が出来ない。
どうしよう。どうしたらいい?わからない。もう嫌だ。立つことも、守る事も、もうしたくない。もう、傷付くのは、失うのは沢山だ。
ぐるぐるとまわる思考回路を途切れさせたのは、聞き慣れた────あの声だった。
「立ちなさい、風紀」
それまで、注意深くこちらを見ていた麗奈が、いつも通りの声で言葉を吐き出す。その声に、自分がまるで駄々を捏ねる子供のようだと言われているようで、顔を上げて麗奈を見返す。
麗奈は、拍子抜けするほどにいつも通りだった。その、何処か凛とした態度も、声も、全てが麗奈のまま、変わらなかった。
「………………立てない」「立ちなさい。立たなければ、貴方はいつまでもそこに縋り続けたまま、やがて立つことも出来なくなるわ」
それの何が悪いんだ、と反論したい言葉をぐっと呑み込む。すると、すかさず麗奈から「呑み込むな」と言う声が飛んでくる。
「言葉を呑みこんだら、私達はいつまでも貴方と一緒に進む事も、立ち止まって貴方を待ってあげる事も出来ない。貴方だけを置いて、進まなければいけない」
麗奈は真っ直ぐな目で、射抜くようにこちらを見る。その目が心なしか心配そうに見えて、それでも確証が持てない感情を、麗奈にぶつける。
「…………麗奈は俺の事が嫌いだろ。構わないでくれ」「そうしていいならそうするわ。でも、」
不自然に言葉を区切る麗奈の目線に合わせる様に視線を動かす。視線の先には、ぼろぼろと涙を零しながら、それでも俺をじっと見て、言葉を待っている二人が居た。
「彼等は、私にとって大切なお友達よ。その彼等が、貴方を助けたいのなら、私はもう見て見ぬ振りは出来ない」
麗奈は、そっとハンカチを取り出して、俺の涙を拭う。涙をハンカチが吸いこんで、その部分だけハンカチの色が変わる。
立ちなさい、と、もう一度麗奈が言う。貴方は自分で立って、歩かなければいけない、と。
そう言って、右手を差し出す。どうしようも無くなったら、必ず助けてあげるから、と。
「貴方が一人で私達を守ってくれなくて結構よ。私達は、四人で一緒に守れば良いの」
これから先も、ずっと。そうやって四人で、同じ季節を何度も何度も廻れば良い。
その言葉に、両目から温かな「何か」が溢れる。それは、拭っても拭っても、なかなか止まってはくれなかった。
麗奈は、呆れた、けれど何処か優しげな表情で笑う。差し出された手を取って立ち上ると、夢架と世露が駈け寄ってきて、そっと抱き締められる。
「僕達は、何があっても風紀の味方です」「お友達、だからね……!」
そう言って、自分よりも泣く二人を見て、肩の力がすっと抜けていく。ああ、そうか。俺は、頼っても良いのか。怖がっても良いのか。
────…………泣いても、良いのか。
そう思った瞬間、再び両目から涙が溢れる。それを見て、二人は更に泣きだす。
────……………………弱いところも、狡いところも、全部晒せ。失いかけるものを、全力で引き止めろ
頭の中に、あの日の兄の言葉が響く。「兄貴ぶんなよ」なんて、あの日は憎まれ口を叩いたけれど。
今なら、ほんの少しだけ────…………その言葉の意味が理解出来た様な気がする。
ふと、視線を麗奈の方へ向けると、麗奈と視線がぶつかる。睨まれるか、なんて思った瞬間。
麗奈は、ゆっくりと口元を綻ばせ、笑った。
その表情に、体温が急激に上昇する。泣いた所為で火照った頬に、再び熱が集中するのが解った。
心臓が五月蠅くて息苦しい。けれど、何処かふわふわとした気持ちがないまぜになり、混乱する。
「………………風邪か?」
二人に聞こえないくらいの声で呟く。それでも、頭の何処かで、この感情は風邪には当てはまらないと気付いていた。
何故なら────…………麗奈の目線の先に、未だに泣く世露が居た時に、まるで夢から覚める様に、すうっと熱がひいていったから。
嗚呼、そうか、と一人呟く。これは、世露を見つめる麗奈と、同じ感情だ。
気付かなければ良かった。こんな、醜くて黒い感情に。気付かなければ、ずっと、このままの関係でいられたのに。
俺は、世露の肩に顔を埋める様にして、息苦しい感情から逃げ出そうとする。それでも、その感情から逃げ出す事は出来ないのだ、と頭の中では理解して居た。
この感情の名前は、きっと────………………