おかえり side世露
────どこかいたいところがあるの?
噎せ返るような、背の高い向日葵の匂い。焼けつくような夏の日差し。蝉が悲しく鳴く声。絡み付くような熱風。揺れる陽炎。
小さな、小さな、僕。
そんな、ごくありふれた日常の中で、変わらずに優しげに微笑む彼女だけが、非日常のように、ぽっかりと浮かび上がって見えた。
嗚呼、ずっと昔に、彼にも同じ事を聞かれたな、なんてぼんやりと考えながら、季節に取り残されたような「春」を見つめる。繋がれた筈の手を振りほどかれた瞬間のような、酷く苦くて、寂しい気持ちが、胸の奥に充満した。
頬に、何か温かなものが伝わる。その感覚は、もう嫌と言うほど味わった、どこか懐かしい感覚だった。
────世露
────世露くん
どうして、彼らはいつもいつも、手を伸ばそうとするのだろう。繋がれた筈の手を振りほどかれた瞬間ほど、苦しいものは無いと言うのに。
相も変わらず、優しげな表情で自分を見つめる彼女を見て、ほんの少し、寂しさがざらりと胸の中に残る。
────あいつを見ていると、無性に悲しくなるんだ
随分昔に、「彼」がぽつり、と呟いた言葉が頭の中に響く。「春」に対する嫌悪と言うよりは、同情を含んだ悲しそうな声だった。
思えば、「春」はあまり人に嫌われない。一緒にいるとすべて見透かされている様なのに、その事自体が心地よく感じる、不思議な少女だった。
「彼」とこの「春」は、ほんの少し似ている。その消えてしまいそうな優しさで、傍に居るだけで泣いてしまいそうになるのだ。
────…………彼女なら、僕に何を言うのだろう
不意に、あの時、「彼」が自分の感情を見抜いたときのような、焦っていて、それでいて何処か高揚する気持ちが沸き上がる。
彼女は、僕を通してなにを見ているのだろう。
それが無性に気になって、思わず言葉が口をついて出る。
「………………どうして?」
彼女は、少し驚いた表情をして、それから、伝えることを躊躇うかのように、そっとその澄んだ瞳を左右に揺らす。
風が背の高い向日葵をほんの少し動かせば、夏の匂いがあたりに充満する。
まるで、そこだけ時間が止まってしまったかのように、音も、声も聞こえなくなる。
はっ、と我にかえり、急いで否定をしようと口を開く。自分の発した言葉が、酷く醜くて、浅ましいものに思えたのだ。
否定するために顔を上げれば、彼女は、何も映さない優しい瞳で、ただ僕を見つめていた。
その瞳が、ほんの少しだけ兄と重なって見えて。ひゅっ、と乾いた呼吸音がする。
瞬間、彼女がゆっくりと表情を変える。口元が弧を描く。瞬き。そして、ゆっくりと桜色の薄い唇から紡がれたその言葉は、僕が予想するどの言葉とも違っていた。
────…………だって、あなたはいつも、ないているから
あの言葉と、噎せ返るような向日葵の匂いを。鳴き喚く蝉の声を。何よりも、よく知るはずの彼女が、まるで全く知らない人のように見えたあの瞬間を、僕は未だに忘れることが出来ない。
────…………ピピピピピピ
目覚まし時計の単調な音に、ほんの少し顔をしかめながら、ゆっくりと目を開ける。
酷く昔の夢を見ていた。泣きたくなるくらいに優しくて、そして、ほんの少しだけ寂しい夢を。
不意に、頬に伝わる「何か」を、そっと指で拭う。拭った指は、少し湿っていた。
────あの時の僕は、確かに泣いていた。
それが、一体どんなことで泣いていたのか、どうしてあの場に彼女と僕以外が居なかったのか、まるでそこだけ抜き取られてしまったかのように、もう思い出せない。
それでも僕は、「何か」を彼女に求めたのだ。あの日、あの瞬間、あの言葉を言われたときに。
このままの四人の関係を続けるための「希望」を彼女に求め、彼女は柔らかく、けれど、確かな意志を持って「それ」を拒んだ。
────だめだよ、世露くん
それは出来ない、と彼女は優しく笑う。何を求めたのか、何を拒まれたのか、もう思い出せない筈なのに、その瞬間酷く悲しくて苦かったことだけは、生々しく覚えている。
あの優しい春は、紛れもなくあの頃の僕らの「夢」だった。
彼も、彼女も、あの優しい春に救われたのだ、と言っていた。あの春は、心に染み込むように、変わらない優しさを持っているから、と。
本当は誰よりも寂しがりで、母親を求める彼女や、もう居ない「誰か」を追って泣き続ける彼にとって、あの春は変わらない、秩序のような、母親の代わりような、そんな存在だったのだろう。
────僕にも、そんな存在だったはずだ
あの春の名前を口に出せば、心臓がぎゅっ、と、まるで潰されるかのように痛みを伴う。
痛くて、けれど、どこか柔らかな、甘い気持ちが胸の奥に広がり、頭が混乱する。油断をすれば、泣いてしまいそうだった。
酷く息がつまって、苦しくて堪らない筈なのに、ふわふわとした柔らかな気持ちが、同時に沸き上がり、それがまた僕を混乱させた。
「苦しい」
はっきりと自分でその感覚を認めてしまえば、その苦しみの存在感を意識せずにはいられない。
台所から、トントン、と祖母が忙しく朝食を作る音が聴こえてくる。少し味が薄くて、それでも何処か懐かしいあの母親の朝食を食べたいと思わなくなったのは、いつからだっただろうか。
────わたし、風紀も、麗奈も、世露くんも、みんなみんな、大好き
独り言のように呟いた彼女の言葉を思い出すと、胸の奥が、ざらつくような、不思議な気持ちになる。
兄と共に熱を出したときに、彼だけが頭を撫でられたのを見てしまった時のような。息苦しくて、寂しくて、ほんの少し、泣いてしまいそうな感覚。
自分の大切な相手である一人が、仲間も、あまつさえ自分も好きだと言ってくれたのだ。
幸せだ、と思うのに。どうしてこんなにも、息が苦しくなるのだろう。
「何か、勘違いをしていたんですかね」
ぽつり、と自嘲気味に言葉が飛び出す。何処かで鳥の鳴き声が聞こえた。
────そうだ。あまりにも幸せで、あまりにも優しくて、何か勘違いをしてしまったのかもしれない
傍に居られるだけで良いんだ、と、誰にも聞こえない程の声で小さく呟く。声に出さなければ、きちんと僕自身に言い聞かせなければ、何か、取り返しのつかない勘違いをしてしまいそうだった。
茶色の古ぼけた柱。立て付けの悪い引き戸。その中で、新品の目覚まし時計が、まるで責め立てるように、僕を見ていた。
────…………世露くんね、おじいちゃんの家で暮らしてるんだって
────…………あの子、親に迎えに来て貰えないんだよ。すてられたんだって
────一体いつまで世露を家に置いておくんだ
────お前なんて、愛してないってさ
好奇、憐憫、嘲笑、憎悪。
僕はずっと、そんな視線の中で生きてきた。
────それが、当たり前なんだと思っていた
叩かれるのも、怒鳴られるのも、全部僕の為だと。愛しているから、叱るのだと。
父も母も、祖父も祖母も、自分を愛しているのだ、と、そう思っていた。
────違うよ、世露
いつだったか、風紀が言った言葉が、不意に頭の中に響く。
新聞配達のバイクが、こちらへ向かってくる音が、いやに大きく聞こえた。
────誰かを傷付けて、自分を押し殺して、関係が成り立つなんて寂しいよ
嗚呼、彼はあの日も、痛みを伴った、悲しそうな目をして僕を見ていた。
口腔が酷く乾いていた。答えようと口を開けば、声はひゅっ、という、情けなく掠れた音に変わる。
ちがう、と、やっとの思いで絞り出した三文字に思いを込めて呟けば、彼はますます寂しそうな目をして僕を見た。まるで、痛ましいものを見るように。僕の悲しみが、自分達の悲しみだとでも言うかのように。
どうして、と、誰にも聞こえないように呟く。
どうして、彼等は優しいのだろう。優しくされたら、離れていかれたときの寂しさは、傷となって消えないと言うのに。
窓の外で、群れからはぐれた一羽の鳥が、寂しげに空を飛んでいた。
たとえ一羽でも、大きく羽を広げて飛ぶその姿は、美しいと言うよりは、酷く痛々しかった。
傷を塞いでいた筈の瘡蓋が、痛みを伴いながら、剥がれていくのを感じた。
────私、風紀も、麗奈も、世露くんも。みんなみんな、大好き
あの時の、夢架の言葉が、無意識に何度も繰り返される。心臓がとくとくと音を立てて、酷く息苦しくなる。
それでも、勘違いはしてはいけない。この優しい幸せを、手放したくはない。
「…………僕も、みんなの事が好きですよ」
本心を口に出したはずなのに、嘘をついたような居心地の悪さだけが残り続けた。
風紀も、麗奈も、夢架も、好きなことに変わりはないし、嘘もない。 けれど、彼女に対する気持ちを、ただ「同じ」だと括られてしまうことに、寂しさを感じてしまう。
崇拝や、嫉妬とは結び付かない、柔らかな砂糖菓子を食べたときのように甘くて、幸せで、ほんの少し泣いてしまいそうな気持ちが頭の中を占めて、「夢架」が頭から離れなくなる。
それでも、その柔らかな気持ちを必死で頭から追い出そうとする。「平等」の中から、「特別な存在」が生まれることが、泣き出しそうなほど怖かった。
「特別」は、いつだって怖い。泣いて、足掻いて、自分を見失って、それでもその存在にはなれなかった人もいるのだから。
────……っ……!俺は……何のために……。なんで……
頭の中に、息を殺して泣きながら勉強をしていた兄の姿が描かれる。良い子であるために、家族のために勉強をしていた「彼」は、本当に幸せだったのだろうか、なんてことを近頃よく思った。
良い子でなければ。期待に応えなければ。誰にでも優しくなければ。
そんな目に見えない「何か」に押し潰された彼は、中学三年生の夏に壊れてしまった。
塞ぎこむことが多くなり、やがて周りの物に八つ当たりをするようになった。
最初はゴミ箱を蹴ったり、ドアを大きな音で閉めたりする程度だった。その程度だったのなら、僕もまだ、兄を極度に恐れることもなかった。
────けれど、
兄の行き場の無い閉塞感は、いつしか怒りに変わり、その矛先は僕へ向いた。
僕を言葉で傷つけ、悲しみに歪んだその顔を見て充実感を覚えるようだった。
何よりも怖かったのは、泣きじゃくる僕を、冷たい目で見る両親だった。
五月蝿い、と不快そうに女性の声が聴こえる。舌打ちをしたのは、兄よりも低い音だ。
────ほら、お前は俺よりも愛されてないんだよ
充実感に満ちた顔で、兄が僕に笑う。それでも、久しぶりに兄が笑ったことが嬉しくて、そっと笑いかけると、パン、と右頬を叩かれる。
突然の痛みに思わず兄を見れば、あの日の「彼」と同じ、痛みを伴った目で僕を見ていた。
────いい加減、諦めろよ
そう言って顔を歪ませた兄は、何処か泣いているみたいだった。
叩かれた僕よりも、叩いた彼の方がずっとずっと痛そうな表情が、なんだか酷く可笑しかった。
今、大声で泣いたのなら、優しい兄は僕の頬の手当てをするだろう。面倒そうに、けれども、自分がした罪悪感を打ち消すために。
けれども、それは両親が許さないだろう。持てるものが持たざるものに与える善意を、彼らは信じないのだから。
────だから、僕は、ただ静かに笑って居た
それしか、僕には許されなかったのだ。
「世露!聞こえないのか!」
突然、酷く大きな祖父の声で自分の名を呼ばれ、思わず肩がびくりと跳ねる。その大きな声は、感傷に浸る暇は無いと、自分を叱責するような声だった。
「……ごめんなさい。今、行きます」
頭の中で考えていた「つまらない事」を、必死で追い出す。いつもならすぐに返事を返せる祖父の呼び声に、どうして返事が返せなくなってしまったのだろう。
ぱたぱたと、朝日に照らされて光る廊下を軽く走り、祖父の元へと向かう。ほんの少し空いた窓からは、もう夏が入り込んでいた。
「遅い!」
部屋に着いてすぐに、祖父から大きな声で叱られる。祖母はただ柔らかく微笑んで僕を見ていた。
「ごめんなさい」
言い慣れた言葉を、舌先にのせて吐き出す。その後に続く言葉を、僕はもう理解していた。
「まったく、あの子とは大違いだ」
祖父の、諦めたようなため息に、思わず身をすくませる。小さく縮こまって息を潜めていれば、悲しいことは過ぎ去ると知っていた。
ごめんなさい、と消えそうな声で呟く。それを鬱陶しく感じたのか、祖父が声を掻き消すかのようにテレビの音量を上げた。
祖母は、不気味なほどただ静かに微笑み、まるで置物のように僕を見ていた。
「彼」と比較されることが、悲しくない訳ではなかった。それでも、頭の何処かで、それが仕方のないことだとも理解していた。
────もともと、僕は望まれていなかったのだから
心の奥でそっと寂しさを咀嚼する。それを噛み砕いて飲み込んでしまえば、いずれ泣くことも無くなるだろう。
それが、父や母から教わった、僕の身を守るための方法だった。
────私、風紀も麗奈も世露くんも────
あの日の、彼女の優しい目の中に一瞬だけ映った自分を思い出す。何かを浅ましく期待していた自分の顔は、酷く醜く歪んで笑っていた。
唇で、気付かれないようにそっと弧を描く。
「僕も、みんなのことが好きですよ」
小さく呟いて、手元のお碗に目を向ける。味噌汁にぽつり、と一滴、涙が落ちた。
朝の情報番組からは、私立の中高一貫校の紹介を行っていた。
そこでは、皆が希望に満ちた表情をしていた。
羨ましい、と。子供のように、心の中で駄々をこねる自分がいた。それでも、なぜ羨ましいだなんて思ったのか、その理由はわからなかった。
朝食を終えてから、そっと秘密基地に向かって走る。
当然、「いってらっしゃい」と言う言葉は聞こえない。
普段はその事に寂しさを感じるはずなのに、今日は心の奥が沸き立つような、ふわふわと地に足がつかないような、そんな不思議な気持ちだった。
走っている途中に、話したいことは後から後から沸き出てきて、けれど、きっと彼らならすべての話に笑ってくれるかもしれないと思った。
夏の湿った風を、肺一杯に吸い込む。許容量以上の風が入り込み、酷く苦しくなる。
スニーカーが砂利を踏む音が、やけにはっきりと聞こえた。絡み付くような夏の湿った風は、冷たい風に変わる。
早く、と脳内が指示を出す。身体はもう苦しくて堪らないのに、心だけが勝手に走り出してしまいそうだった。
────麗奈が、秘密基地にちょうど良い場所を見つけたって
偶然、風紀と会ったときに、呆れたような、それでいて少し楽しそうに彼が教えてくれた道なりにそって走る。
嗚呼、そう言えば彼は、いつもみたいに悲しそうな顔じゃなかったな、なんて思いながら心なしか楽しげな彼の顔をふと思い出した。
アスファルトを駆けて、竹林の向こうへ。目印は、黄色く咲く向日葵畑だ。
止まれと書かれた赤の看板を通り越す。曲がり角を曲がれば、視界が突然黄色で塞がれた。
自分よりも背の高い黄色の花。少ししてから、その花が向日葵だと言うことに気付く。
────向日葵畑の中に、水車小屋がある。小屋の隣に水車が付いているから、きっと行ったらすぐにわかるよ
「水車が目印だ」と、ほんの少し楽しそうに言った風紀の言葉を頼りに、無我夢中で向日葵畑のなかを走る。ぶうん、と、蜂が耳元を横切る音が聞こえた。
ちろちろと、澄んだ水の音が聞こえて、ふと足を止める。同時に、向日葵で埋め尽くされた視界が、急に開けた。
「……!」
古い小屋が、まるで忘れ去られたようにひっそりと建っている。綺麗な向日葵畑の中に浮かび上がるその建物は、ほんの少し、異質に見えた。
言われた通り、そこには水車が付いていて、水の流れる音はそこから聞こえていた。
「…………綺麗だ…………」
思わず言葉が口をつく。あまりにも綺麗で、ほんの少し泣いてしまいそうになる。
「綺麗だね」
不意に、後ろから、聞きなれた声が聞こえた。優しい春のような香りと共に。
「おかえり、世露くん」
────夢架は、相変わらず優しい微笑みで立っていた
心臓が急に音を立てる。身体中の血液が沸騰してしまったかのように身体が火照り出す。
ああ、またこの感覚だ。身体が、熱を発しているかのように熱くなる。
おかえり、って。変だよ、夢架。なんて笑おうとしたのに、うまく笑えなくなる。
それでも、動揺を悟られぬよう、ゆっくりと口を開く。
「……………………ただいま」
そう呟いた途端、急に涙が溢れる。嬉しい気持ちと、夢架らしい言葉に笑ってしまいそうな気持ちが入り交じり、涙が止まらなくなった。
夢架は、突然泣き出した僕に驚いた顔をして、ほんの少し狼狽えた。
「……ど、どうしたの?どこか痛いところがあるの?」
その言い方が、あの日の夢架そっくりで、また、涙が溢れた。
痛いところなんて無いよ、と伝えるために首を左右に振る。痛くなんて無い。あまりにも幸せで、告げられた言葉が優しくて、泣いてしまったんだ。
夢架は、ほんの少し困った表情で、それでも、笑っていた。
不意に、そっと背中に手が回される。そして、そっと夢架へと引き寄せられた。
心臓が、ドクドクと音を立てる。鼓動が夢架に聞こえているのではないかと思うほとだ。
「ゆめ……」
何故だか気恥ずかしくなって、そっと夢架に声をかける。
すると、夢架は、とんとん、と背中を軽く叩きながら
「……お母さんがね、昔、よくやってくれてたの。
私は、小さい頃からいじめられっこで。麗奈ちゃんに助けて貰うまで、本当に独りぼっちだったの」
こちらに語りかけると言うよりは、自分に言い聞かせるかのように夢架が話す。悲しくなるほどに、その声は静かだった。
「お友達も、もちろん居たの。でもね、みんな、都合の良いときにばかり、友達だって笑うんだ」
優しい夢架の声からは、表情までは読み取れない。
背を叩く夢架のリズムは一定で、それが余計に寂しさを感じさせた。
「だから私は、みんなと本当に友達になれて、とっても嬉しいの」
夢架は、優しい声で囁く。その声に、どうしようもなく縋ってしまいたくなった。
「麗奈ちゃんは、毎日学校で私のそばに居てくれる。風紀は、転んだときに、いつも一番最初に駆け付けてくれる。かくれんぼで逃げるときも、必ず手をひいてくれるの」
────夢架!
頭の中で、いつも、僕よりも少し早く駆けつける風紀の姿を思い出す。あの時、僕は風紀の後ろで、伸ばしかけていた手を、ゆっくりと戻していた。
麗奈は、ほんの少し困った目をして、僕と風紀を見ていた。
大丈夫ですよ、と彼女の方を見て笑いかければ、彼女は申し訳なさそうに、そっと背中に手を添えてくれた。
「世露くんは……」
不意に、自分の名前が呼ばれて、肩をぴくりと動かす。
何かを浅ましく期待してしまうような、あの日の問いかけの答えをやっと知れるような、そんな気がした。
こくり、と唾を飲み込む。手が震える。
「世露くんは、ね。……いつも、少しだけ泣いてるね」
そう言って、夢架はほんの少し笑う。何処か申し訳なさそうなその表情が、麗奈と重なって見えた。
何処か遠くを見つめるその瞳が、あの日の夢架とほんの少し被って見えて。
────だめだよ、世露くん
ああ、そうか。
僕は、そっと夢架を抱き締める。抱き締めていなければ、夢架は何処か遠くへ行ってしまいそうだった。
────あの日、夢架が言った言葉の意味が、少しだけ理解できた気がした。
「…………夢架は、覚えてますか?」
目の前で、夢架は柔らかく笑う。受け入れてくれるようで、どこか拒絶しているようだった。
「何を?」「あの日のこと」「あの日?」
ちろちろと水が流れる音が、やけに大きく聞こえた。
夢架の表情からは、気付かない振りをしているのか、それとも本当に覚えていないのか、判断は出来ない。
僕は、そっと夢架から身体を離す。手が震える。それと反するように、顔に熱が集まっているのがわかる。
伝えようと口を開けば、夢架はそっと首を左右に振り、申し訳なさそうに俯く。
「覚えてないの。ごめんなさい、世露くん」
そう言うと、彼女はそっと手を差し出す。その手は、ほんの少しだけ、震えていた。
「これからも、お友達でいてくれる?」
泣き出しそうな笑顔で、夢架は笑う。このままの関係を望んでいるような、そんな表情だった。
「……………………はい」
本当はそんなこと、思ってなんてないくせに。
頭の中で、小さく誰かが囁いた気がした。
ジーク、ジーク、ジーク……
何処か遠くで、蝉が鳴いていた。
「麗奈ちゃん達が来るまでに、秘密基地に移動しようか」
夢架はそう言って、僕の手を引く。相変わらず、手は震えていた。
互いの熱が、互いの手を伝う。僕も夢架も、ほんの少し、手が震えたままで。
人が歩きやすいよう、舗装された道を歩く。泣きわめく蝉の声と、二人分の足音だけが残っていた。
秘密基地の中は、木のテーブルと四人分の椅子が置いてあった。
冷房は無いけれど、窓の隙間から入り込んでくる風が心地好い。
僕と夢架は、互いに向かい合って椅子に座る。蝉は、相変わらず鳴いていた。
窓から、夏の入道雲が僕達を覗いていた。
「ごめん、遅くなって」「ごめんなさい、遅くなってしまって」
しばらくして、風紀と麗奈が秘密基地へ訪れる。
「麗奈ちゃん!」「風紀」
二人が来たことに互いに安心して、二人に駆け寄る。僕は風紀に。夢架は、麗奈に。
「大丈夫ですよ。怪我は?」「大丈夫だよ。遅くなってごめん」
「麗奈ちゃん!良かったぁ、来てくれて」「約束だもの、来るわよ。遅くなってしまってごめんなさい」
僕と夢架は、互いに顔を合わせないようにして話す。麗奈は一瞬怪訝な顔をして、すぐに表情を戻した。風紀は────珍しく、表情を変えなかった。
すると、開いた窓から突然蝉が入り込んできて、夢架の服にとまる。
「ひいっ、蝉……!」
驚いた夢架が駆け出す。蝉を取ってあげようと声をかけようとすれば、夢架は風紀の方へ向かって走り出す。
「風紀……!」
風紀は夢架の方を見て、仕方がないなぁと言い、そっと蝉を取る。
「逃がしてやろう」
そう笑うと、蝉を逃がす為に風紀が小屋から出る。すると、追いかけるように夢架も小屋を出た。
伸ばしかけていた手をそっと降ろす。
「世露くん」
麗奈に声をかけられて、はっと顔を上げれば、麗奈は真剣な顔をして、こちらを見ていた。
「…………あのね」
言いにくそうに一瞬言い淀むと、少ししてから決心をしたように真っ直ぐに僕を見る。
「夢架は、風紀のことが、好きなのよ」
一言一言、まるで言い聞かせるように話す。まるで、彼女の方が、ずっとずっと傷付いているかのような表情で。
僕は、そっと麗奈から視線を外す。まるで逃げるような自分のその行動に自分で呆れながら、不貞腐れたように返す。
「わかってます。それでも、僕は夢架が好きなんですよ」
勢い込んでそう話せば、麗奈は小さく溜め息を吐く。
「そう」
そう答えた声が、何処か泣いているように聞こえて、思わず麗奈の方を見る。けれど、彼女はいつもと変わらない表情で風紀と夢架を見つめていた。
「…………麗奈も、好き、なんですか」
麗奈の横顔を見つめながら、問い掛ける。風紀と夢架を見つめるその表情が、酷く苦しげに見えて。
麗奈は、驚いたようにゆっくりとこちらを見る。暫く、ぼんやりと互いに見つめあうと、麗奈はいつも通り優しげに笑う。
「…………うん、好きよ」
何処か泣いているように見えるその表情が、夢架とほんの少し被って見えて。
嗚呼、麗奈は本当に風紀が好きなんだな、なんて。ぼんやりと頭の奥で考えていた。
遠くで、風紀と夢架の楽しそうな笑い声が聞こえていた。