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知らない感情 side世露

 酷く昔に、右頬を叩かれた事がある。

 ぴしゃ、と、空気を切り裂くような音がして、じわり、と、頬に熱が宿る。

 突然与えられた驚きと痛みに、思わず頬を押さえて顔を歪める。ごめんなさいと謝ろうとして、頬を叩いた相手を見れば、喉の奥がひゅっ、と、掠れた音をたて、肺の中が夏の香りで埋め尽くされる。



────……まえの……お前のせいだ……っ!お前の…………っ!



 僕の頬を叩いた彼は、目に涙を溜め、唇を血が滲む程噛み、そして、叩かれた僕よりもずっと、痛みを堪えるような顔をしていた。



「………………………お墓を、壊したのは────……………………」



 突然話し始めた僕に、風紀と、麗奈と、夢架が、ぴくりと肩を動かす。

 風紀は、静かにこちらを振り返って。麗奈は、あえてこちらを見ることはない。夢架は、そっとこちらへ駆け寄ってくる。

 それぞれが別々な、けれど、どこまでも彼等らしい優しさが嬉しくて、そして、ほんの少し、申し訳なさが胸の奥に苦く広がった。

 

 「彼」が壊しました、と、伝えようとした瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなる。


 ────これは、俺のせいじゃない


 彼は、まるで、免罪符のように、お墓を壊しながら呟く。


 ────俺のせいじゃない。そうだろ、世露?


 泣き出しそうな、苦し気な表情で自分にそう問い掛けた彼を見て、思わず唇を噛み締めて、頷く。


────………………はい、兄さんのせいじゃないです


言い慣れた言葉を、そっと舌先に乗せて、目の前の大きな人物に向けて贈り続ける。


────「僕が悪い子だから、兄さんが正しく導いてくれています」


────「兄さんは優しいです」


────「みんな兄さんが大好きです」


────「兄さん、いつもありがとう」


まるで儀式みたいだ、なんて、何処か冷静な僕が呟く。

この世界のヒーローは彼で、僕はさながら、悪役にもなりきれない、彼の引き立て役で、腰巾着だ。

彼を褒め称え、持ち上げ、そして、周囲の敵の中から弱く惨めな敵を選んでは彼に差し出す。


 「彼」がこの世界で、正しく「彼」で在り続けられるように。


────そうだよ、俺は正しいんだ。正しくて、優しくて、何一つ間違っちゃいないんだよ。

皆に愛されているんだ。出来の悪い弟に、教えてあげているだけなんだよ


「彼」はそっと、その場に蹲る。年齢よりも華奢なその身体の震えを見て、虚無感が胸の中で、しこりのように残り続ける。



────僕は、本当は、もうすでに気付いていた



 自分を縛り付けているものが、もう音を立てて崩れ始めていることに。

 「それ」は、僕が、ほんの一瞬でも抵抗をすれば、瞬く間に壊せてしまえる事に。

 それでも、壊れ続けていく兄を、まだ繋ぎ止めておきたくて。

 誰も拭ってあげることのないその涙を、拭ってあげたくて。

 誰も見向きもしなかった僕に、例えそれが罵倒や嘲笑だったとしても、それを浴びせるために届いた視線を、離したくはなくて。


「お墓を……壊したのは……」


 手が、足が、震える。口腔が乾いて、上手く言葉が紡げない。

 伝えたら?そのあとは一体どうしたらいい。兄を軽蔑する?僕を弱虫だと言って、怒鳴るのだろうか。

 「お前のせいだ」と、「もう二度と僕の前に現れるな」と、「彼」のように叫ぶのだろうか。


 ────どうして、僕は、それがこんなにも怖いのだろう


「………………世露」


 不意に、頭の中に、躊躇いがちな、静かな声が響く。緩やかな川の流れの様な、穏やかな声だ。


「…………世露」


 心地の良い声なのに、大切な友人に自分の名を呼ばれて、嬉しいはずなのに。


「……世露」


 僕はどうして、その声に答えることが出来ないんだろう。


 ぐるぐると、黒い渦の中に呑み込まれていく。ごぼり、と銀の泡が浮かんでいく。

 上手く呼吸が出来ず、視界はゆらゆらと、黒く呑み込まれていく。


 ────お願い、母さん。僕も連れて行って


 兄と両親が海外へ行く日の朝。母のお気に入りの白いスカートの裾を掴んで、そっと頼んだ。


 ────僕、英語の塾でも一番になったんだよ。先生にも褒められたんだ。だから…………


 だから、僕を独りにしないで。


 寂しさと、悲しさと、そして、ほんの少しの期待をしていた。兄の様にお願いをしたら、自分も同じように叶えて貰える筈だと、抱き締めて貰える筈だと、根拠のない(ごう)(まん)な自信が、胸の中にあった。


 ────でも


 ────…………もう、我儘言わないで頂戴。貴方はお兄ちゃんじゃないのよ。貴方にまで使える時間はないの


 そう言うと、母は苛立ったように、乱暴に僕の手を振り払う。汚いものを見るように。まるで、そうであることを望んでいるかのように。

 玄関の外で、兄と父が、飛行機について話している。兄の他愛ない言葉に噴き出す父。そこに駆け寄る母。父と母の間に手を繋いで挟まれる、無邪気な笑顔で、利発そうな瞳をした、兄。


 ────それは、いつか何かの本で読んだ、美しくて温かな「家族」そのものの光景だった。


 僕はただ、スクリーンの奥の物語を観る人々の様に、その光景を眺めていた。

 両手は少し、冷えていた。

悴んだその手を、(おもむろ)に自分の隣へと伸ばしてみる。当たり前にあったはずのその熱は、いつの間にか冷たい風へと変わり果てていた。



 不意に、両手に伝わる体温に、意識を急速に引き戻す。



「世露くんは、冷え症なのね。夏なのに、とても手が冷たいわ」


 悴んだ手を優しく握り、そっと麗奈が微笑む。指先から伝わる体温に、思わず涙が零れる。


「……ごめんなさい、手、冷たいでしょう?」


「夏だから、とても気持ちがいいわ。此処は暑く感じていたけれど、今は大丈夫ね。

ありがとう、世露くんのお陰だわ」


 そう微笑む麗奈の顔を、僕はただ、茫然と見詰める。麗奈は、視線に気付くと、にっこりと笑って、夢架を呼ぶ。


「ねえ、夢架。貴女この間、綺麗な花を見つけたって言っていたでしょう?」


 突然話題を振られた夢架は、戸惑いながら頷く。


「私も、貴女が見つけた花を見てみたいの。どんな花なの?私を案内してくれる?」


 夢架は、僕と麗奈の顔を見比べて、納得したように微笑むと麗奈の手をひいて走っていく。

 走り去る二人の背中に、初めて風紀と向日葵畑を駆け回った事を思い出す。


「世露」


 小さく、それでいてはっきりと、風紀が僕の名前を呼ぶ。ぴくり、と肩が震えるのが、自分でも解った。

 怒鳴るのだろうか。蔑まれる?なかなか話しださない僕に、苛々してしまったのだろうか。


 ────けれど、風紀の言葉は、その予想のすべてを裏切っていた。


「ありがとう、ユメカに逢わせてくれて」


 思わず風紀のほうを見ると、風紀は静かに笑っていた。

 その静かな笑顔を見詰めていると、不意に、涙がこみ上げる。

 どうして怒らないんだ、と尋ねれば、風紀は微笑んだまま答えなかった。


 ────…………何故だか、それが答えの様な気がした。


優しさに飢え、渇いた心の奥にまるで水が染み込むように、じわり、と涙が浮かぶ。

伝えなければ、と思った。根拠のない、不確定な優しさに、言葉を返したくて。


ただ、此処に居ても良いのかを。彼等が「自分」を見てくれているのかを、確かめたくて。


僕はそっと、湿った夏を吸い込む。肺いっぱいに広がるそれは、解放を求めて、(あふ)れ出そうとする。

その息苦しさに任せて、心の奥の言葉を、震える声で吐き出した。


「………………………お墓を、壊したのは────……………………」


 突然呟いた言葉に、ぴくり、と風紀が肩を動かす。それでも、ただ静かに、僕の話を聞いてくれる。

最初の言葉を紡いでしまえば、次に来る言葉は自然と繋がりを求めて生まれる。単語と単語を組み合わせて、ひとつの言葉を造り出した。



「兄…………なんです…………」



 そう呟いた後、次に来る痛みに備えて目を閉じる。けれど、どれだけ待っても、痛みは来なかった。

代わりに訪れたのは────……優しく自分の頭を撫でる、温もりだった。


「…………ずっと、伝えられなくて、ごめんなさい」


「うん」


「……兄を止められなくて、ごめんなさい」


「うん」


「ごめんなさい……!」


「世露は謝ってばっかりだな。そんなんじゃ、自分の気持ちにも、いつか気付けなくなるぞ?」


苦笑しながらそう笑う風紀の声に驚いて、思わず顔を上げると、風紀は相変わらず、柔らかく微笑むだけだった。

どうして、と尋ねれば、少し困ったように、けれど、今度は隠さずに伝えてくれた。


「きっと、理由なんて無いんだよ」


優しくする事に、赦すことに、何も特別な理由なんて無いんだ、と風紀は笑う。少し、泣いているみたいだった。


「僕のせいじゃなくて?」


「お前のせいじゃなくて」


「僕に失望したわけでもなくて?」


「どうしてお前に失望するんだよ?お前は何も悪いことなんてしてないのに」


「…………どうして?」



「役に立たなくても、僕を嫌わないのは、どうして?」



尋ねれば、風紀は少し考えてから、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。


「役に立つ、っていうのは、都合が良い、ってことだろ?

自分にとって、都合が良いから、相手に感謝して、いい子だ、って思うんだよ。

俺達は、無意識に空いた穴を補い合っているから。だから、きっと、それでいいんだ」


それが理由なんだよ、と、小さく風紀が笑う。酷く滅茶苦茶で、けれど、とても自然な意味のように思えた。

夏の匂いを、肺いっぱいにそっと吸い込む。途端に、抑えきれなかった嗚咽が、喉の奥からそっと漏れ出す。

目の前で「ユメカ」のお墓を壊されたときに、「ああ、またか」と思った自分が恐ろしかった。この世界に繋ぎ止めておくために作った「それ」を壊されることに慣れを感じた自分が、恐ろしくて、恐ろしくて、悲しかった。

いつものように、黙って、今度は誰にも見付からないところに、作り直せば良かった筈だ。それを、出会ってまもない彼等に伝えたのは────…………


「僕は……君達なら、僕の言葉を信じてくれる、って勝手に考えていました。

父や母のように、兄の行動すべてを正当化せずに、話を聞いて、信じてくれる、って」


口腔が乾いて、舌がざわり、と微かな音をたてる。黒く濁った感情が、溢れ落ちていく。


────きっと、僕は、期待していた


目の前のこの人を中心として、彼女達も信じてくれる、と。動揺した心の奥で、無意識に浅ましい計算をしていた。

風紀は、そっとため息をつく。その音の大きさに、ぴくり、と肩が震える。

次の瞬間、風紀が手をこちらへ伸ばす。叩かれると思い、痛みに備えて目を(つむ)ると、わしゃわしゃと、頭を乱暴にかき混ぜられる。

呆然としながら風紀を見つめると、その顔が間抜けだったのか、噴き出し、言い聞かせるように、優しく頭を叩く。


「俺も、夢架も、麗奈も、誰もお前を疑ったりなんかしないよ」


それに、と、風紀は柔らかく言葉を続ける。


「お前が間違えたら、俺達が何とかしてやるよ。途中で手を離したりなんかしない」


目尻から、何か温かなものが(つた)ってくるのがわかった。


────……お前のせいだ。お前のせいで、俺は俺が日に日に憎くなる!

俺よりも、お前は頭が悪いくせに!あの人たちに、愛されてないくせに!

どうしてお前ばかり、純粋で、綺麗なものを手に入れるんだ!

どうして無償で優しさを手に入れられるんだ!


優しくて、何でも出来る自慢の兄は、中学二年生の時に、突然、壊れてしまった。

両親に罵倒された日には、優しく自分を抱き締めてくれた兄は。いじめっ子から、自分を護ってくれた兄は。


────もう、どこにも居なかった。


繋いでいた筈の手が、少しずつ離れていく。両親と兄は、それでも手を繋いでいようとする。


離された自分の手を、僕はずっと見ていた。


兄の居場所が欲しかった訳じゃない。それは、兄が努力をして、手に入れた場所だと理解しているから。兄が、その場所を失わないように、必死で、泣きながらその場所へしがみついていた姿を見ていたから。

それでも、一度で良いから、その場所に僕も入りたくて。

母の温かな愛情を、父の柔らかな眼差しを、僕に向けて欲しくて。

けれど、同時に、そんな日が永遠に訪れないことを、僕はとうの昔に知っていて。

そんな場所から逃げ出したくて。走って、走って、走って、走って、たどり着いた場所は、停滞した独りぼっちの世界だった。

ここならもう大丈夫だ、と。小さな小さな僕だけの世界を作り上げた。

他人を拒絶し、自分の感情に鈍感になれば。もう二度と傷付くことは無くなるのだと思っていた。

何人かが、僕の世界を訪ねて、その誰もが、僕の世界から居なくなってしまった。


────期待外れだね


────兄弟なのに、駄目な子だな


 遠ざかっていく足音を追う気にもなれず、僕はただ、独りで立って居た。

 そんな世界が、ぴきり、と音を立てて崩れていく。世界の瓦礫から身を守ろうと顔を見上げれば、割れ目からは、風紀と、夢架と、麗奈の顔が見えた。


 その日は、目が眩みそうな程の光に包まれた、晴天だった。


「…………明日は、秘密基地を探しに行きたいです」


 不意に、口から零れた言葉に、風紀は驚いた様に目を丸くする。けれど、柔らかく笑って、静かに頷く。


「……ああ」


「…………夢架と、麗奈も誘って…………「ユメカ」のお墓参りにも行きたいです。その時に、きちんと、彼の話も伝えたいです」


 隠していた事。辛かった事。苦しかった事。寂しかった事。色々な事を、彼女達に話していきたい。

 そうだな、と風紀が小さく微笑む。少し、「何か」を後悔して居る様な目をしていた。


「あっ、風紀、世露くん!」


 不意に夢架の声が聴こえて、風紀と同時に声の方へ意識を向けると、沢山のシロツメクサの冠を

持ち、こちらへ手を振る夢架と、呆れたようにその後を追いかける麗奈の姿が見えた。

 小さく手を振り返すと、嬉しげに笑った夢架はこちらへ駈け寄ろうとするが、勢い余ってその場に派手に転びそうになる。


「危ない!」


 三人で支えるために思わず駈け寄ると、勢い余って自分達が互いに頭をぶつけてしまう。

 派手な音と、向日葵の花弁が、青く澄んだ空へ舞い上がる。


「…………ふっ」


 互いの顔を見合わせ、思わず笑みが零れる。


「「「ははっ……あははははは!」」」


 驚いた表情の夢架と、風紀と、麗奈の表情が可笑しくて、笑いが止まらなくなる。

 楽しくて、楽しくて仕方がなくて、笑いが止まらない。きっと、彼等に出逢わなければ、こんな気持ちを、僕は知らなかったんだろう。

 笑い転げる僕等を、驚いた様に見詰めて居た夢架は、暫くして、そっと、花が綻ぶ様に、柔らかく微笑み、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、そっと呟く。


「私、風紀も、麗奈も、世露くんも。みんなみんな、大好き」


 そう言って微笑む夢架の表情を見て、心臓が急速に動き始める。自分の意志とは関係なく、顔が徐々に火照っていくのが自分でも解る。


「世露?顔が赤いけど、どうかしたか?」


「世露君、大丈夫?」


 心配そうに尋ねる風紀と麗奈の方を見れば、身体の火照りは急速に熱を引いていく。


「……大丈夫、です」


 顔から汗が出ていくのが解る。体中の熱が、一気に顔へと集まってしまったみたいだ。

 ドクドク、と、鼓動が速くなっていき、呼吸が苦しい。

 にこにこと微笑む夢架の顔が、呼吸の所為で、まともに見れなくなる。苦しくて、熱くて、けれど、何処か幸せな気持ちが、ゆっくりと心を包み込む。


 ────…………こんな感情、僕は知らない



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