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失うものと手に入れるもの

 ()だる様な、暑い日だった。


「……ねえ、風紀。風紀は、どうしていつも僕を助けてくれるんですか?」


 瞳に涙を滲ませながら、世露が訊ねてきた。

 世露が、大切そうに抱えているのは──……『世露の友達』の白ウサギの亡骸だった。

 白ウサギの身体に、静かに涙の粒が落ちて、弾ける。俺は特に何も言わず、静かにそれを眺めていた。

 世露と俺が知りあった頃に、偶然にも出逢った世露の友達は兎としては高齢な部類に入っていて、どちらにせよ、もう長くは無かった。

 死因は──……老衰、だった。


「……さあな。………そいつ」


 俺は、白ウサギの亡骸に触れると、世露ごと抱き抱える。


「……埋めてやろう。……もう、泣くな」


 小さく、体温が伝わる。──もう、冷たい筈の白ウサギと、今目の前でしゃくり上げ、透明な涙を流す世露と。

 体温を持つのは、どちらだったのだろう。

 世露はまるで駄々を捏ねる子供の様に、左右に大きく頭を振る。

 離れたくない、と一言呟いた。唯一、僕の傍に居てくれた友達だったのに、と。


「……僕も、一緒に逝きます。…独りぼっち、に、なりたくない……っ!」


 白ウサギは、幼い頃、苛められっ子だった世露の事を、唯一傍に居てくれた存在だったそうだ。

 大人しくて、他人と関わるのが苦手な世露の傍にずっと居て、繊細な世露の事を唯一理解して居た存在だった。

 世露は俯いたまま静かに白ウサギの亡骸を抱えて居た。……少しだけ、肩を震わせて。

 世露の色素の薄い髪が、光を受けて白く透き通る。

 白ウサギは安らかな顔をしていて、少なくとも俺にはとても苦しんで死んで逝ったようには思えなかった。

 大丈夫、とか。傍に居る、とか。

 その両方を伝える事が出来ない俺は、自分がどれ程未熟者なのか、理解して居た心算つもりだった。

 白ウサギが冷たくなっていた。

 その事実に最初に気付いたのは、やはりと云うべきかは解らないが──世露だった。

 カメラの一件の後、何故だか妙に俺に話しかけてくる世露と気付いたら打ち解けて居て。


 ──……僕は、君の事、少し誤解していました。……ごめんなさい。


 居住まいを正して、俺の目を見て謝罪してくれる世露に妙に焦りに似た感情を抱いていたのを思い出す。


 ──……いや、あれは俺が悪かったんだ。ごめん。

 そ、それより、俺は風紀で構わないよ。お前は──世露、で良い?


 かなり粗暴な言い方になってしまう自身に少々自己嫌悪しながら、それでも精一杯の誠意を込めて訊ねてみる。

 瞬間、世露がまるで花が綻ぶ様に、ゆっくりと破顔し大きく頷いた。


 ──そ、そうだ。この子、僕の親友なんです。名前は──……


 不自然に言葉を止めた世露を不審に思い、顔を覗き込む。


 ──う、嘘だ……。ねえ、目を開けてよ。まだ寝るのには早いですよ?


 まるで叫ぶかのように白ウサギの身体を擦りながら、世露は壊れたラジオように何度も何度も呼び掛ける。

 痛いほどの静寂。静かな空気が、鼓膜を震わせ、耳の奥で、小さな音が鳴る。

 嗚呼。何故だか、妙に嫌な予感がする。


 ──ねえ、目を開けてよ。目を開けて……








 ──ユメカ……!








 午後十三時二分三十秒。



『ユメカ』の目が開く事は、もう永遠に──……



「……世露」



 低く名を呼ぶと、世露の華奢な肩がぴくり、と跳ねる。少し、怯えているようだった。


「……風紀は、哀しくないんですか?……もう、……居ない、のに……」


 世露は声を詰まらせると、小さく嗚咽を漏らす。小さな子供が、必死で泣くのを我慢する時のように顔を下へ向けた。


「……哀しいよ」


「……ッ、嘘吐き……ッ!」


 瞬間、弾かれた様に顔をあげた世露の大きな瞳には、涙が溜まっていて。

 ずきり、と心臓が痛む。


「嘘つき!父さんも母さんも兄さんも風紀も、皆みんな嘘つきだ!皆、最後は僕を置いて行くんだ!

 哀しいなら……哀しいならどうして大声で泣かないんですか?どうして叫ばないんですか?」


 嘘吐き。


 非難されても、何も感じない。理不尽だと、八つ当たりだと、世露自体が一番理解しているだろうから。

 そして、俺自身も、大切な人を失った時の辛さを、やりきれなさを良く理解して居るから。

 不意にズキリと頭の芯が、思い出したくない記憶を思い出させる。

 痛い。頭が、心臓が、鈍く痛む。

 鼻の奥に、焼香の匂いが蘇る。静まり返った葬儀場。もう動かない故人ひと

 淡々と呟かれる、感情の籠らないお悔やみの言葉。俺だけが啜り泣く声。

 早く居なくなれ。親戚中がそう願った、暴君──…。



 ──……もう居ない、俺の唯一のひと……。



 どうして、母さんは泣かないの?どうして、父さんは安堵してるの?


 ──……どうして、俺だけが泣いて居るの……?


 翔平しょうへい兄さんはもう居ないのに、どうして──……


「……風紀?……風紀っ!」


 崩れかけて居た足元が酷くふらつく。ぐらり。世界が歪んで、声が何重にも重なる。


 ──バイクで事故を起こして…


 ──相手の子も意識不明だって…


 ──後始末どうするのよ。うちに押し付けられるのはごめんだわ。


  兄さん。兄さん。



 ──風紀。お前は、独りじゃない。



  単車のエンジン音、煙草の匂い。

  オイルライターで火が点けられる音。

  粗暴な物言いや、好きだった食べ物、よく夏に着ていた、似合わない水色のポロシャツ。



  どうだって良いことはこんなにも鮮やかに覚えているのに、どうして彼の顔だけ、だんだんと忘れていくんだろう?



「……ごめ……。変な事、思い出して……」



 酸素の回らない頭で、呟く。


「……ごめん……」


 世露は、寂しそうな顔をしながら


「……いいえ、此方こそ傷つけてごめんなさい。……ああ、汗掻いてますね」


 そう言いながら、白いハンカチを取り出して微笑む。


「少し歩いたところに川があるんです。濡らしてくるから、風紀は此処で待っていてください」


「……いや、俺が自分で……」


「良いから、風紀は此処で座っていてください」


 そう言うと、世露は下へと降りていく。


「……気をつけて」


 呟いた声は、風に消されて、何処かへと飛んでいく。

 世露が下へと降り急に独りになると、大きく空気を吸い込む。

 葉の匂い。風が吹いて、木々がざわり、と動く。

 数秒間瞳を閉じる。目の前の世界は、たちまち黒く染められる。


 ──……本当に嫌な夢だった。


 視界に、兄の衣服が映る。掴もうと手を伸ばすと、水色のポロシャツが、不意に欠き消える。

 その衣服の裾を逃したく無くて目を開けると、目の前には、青く澄んだ空ばかりが広がっていた。

 翔平兄さんが────時の夢。

『ユメカ』の時の事もあったのだろうか。……もう、忘れた筈だったのに。


「……俺も、早く逝こうかな」


 不意に口を吐いて、そんな言葉が出た。

 兄さんが、一番嫌いだった言葉。

『命を大事にしない奴は、生きられなかった奴に対して失礼だ』……だっけ。


「……『生きたいって願う奴の前で、死にたいって呟くな。

 死にたいって願う奴は、温かく包んでやれば良い』……綺麗事じゃん、兄ちゃん」




「そうね、本当に綺麗事。生きる希望?馬鹿馬鹿しい。

 生きたいから生きるのよ。その殿方、馬鹿じゃないかしら?」




  不意に、澄んだ鈴の音の様な声が、りん、と聴こえた。

  立てないと嘆く者を叱責し、無理矢理にでも歩かせようとするような、そんな、強い意志を持つ声。

  驚いて振り返った視界の端に、白いスカートがふわり、と舞う。

  濡れたように光る、意志の強そうな瞳。それとは相反するかのように艶やかで、柔らかそうな長い黒髪。


「貴方、邪魔。退いてくれないかしら?」


  瞬間、紡がれた言葉は辛辣で。


「聴こえて居るの?それとも──……わざと退かない気なの?」


  軽蔑したように俺を見る目は、何処か憐れみも含まれていて。


「踏むわよ?あと五秒」


  剥き出しの言葉は、容赦なく心を抉る。


「三、二、一。はい、踏むわ」


  ガンッ、と。

  彼女は思い切り俺を踏みつけた。


「い、痛い痛い痛い!」


「踏むって言ったじゃない」


  信じられない様な言葉を言い放ちながら、目の前の少女は俺を見下ろす。

  濡れたように黒く光る瞳が、きつい光を宿しながら睨む。


「良いこと?邪魔なのよ、邪魔。麗奈は悪くないわ。

 庶民が私の行く道を阻もうだなんて考えない事ね。

 ………ところで庶民。貴方、この辺りの地理に詳しくて?」


  一方的に言いたい事を捲し立てると、彼女は唐突にそう訊いてくる。


「はあ?多少は知ってるけど……。

 ……なに、迷子?」


「まっ、迷子じゃないわよ!ただ、その……友人とかくれんぼなるものをしていたら、急にあの子ったら走り出して……。な、何よ。麗奈は迷子じゃないわ。

 驚かせてやろうと茂みに隠れて居たのよ。そしたらあの子ったら、気付かないんですもの。

 てんねん?なのよ。きっとそうね。そうとしか思えないわ」


「はあ……。で?」


  麗奈は恥ずかしげに目を伏せると、呟く。


「だ、だから、その……。ゆ、友人を捜索するの、て、手伝わせてあげても宜しくてよ?丁度、暇そうだし、お礼に屋敷のお茶会へ招待してあげるわ」


「はあ?俺は別に良いって──」



「遅くなってごめんなさい、風紀!……あれ、身体はもう大丈夫なんですか?」



  丁度良い──と言うべきなのかは解らないが──タイミングで、濡れたハンカチを手に持って息を切らせながら世露が走り込んで来た。


「……あれ、そちらの方は……?」


「……ああ、こいつ──……」


  俺達が言葉を交わしている瞬間、不意に世露の後ろから小さな子が飛び出した。




「あっ、麗奈ちゃん!何処に行ってたの~、もう心配したんだからぁ~!」




  柔らかな栗色の髪が風に靡きながら、その子供は麗奈の元へと駆けだすと、その小柄な体躯で麗奈を抱き締める。

  ふわり、と優しげな桜の香りが鼻の奥に入り込み、何故だか不意に泣きたくなった。


「あれ、彼女ですか?迷子の友達は」


「うん。一緒に探してくれてありがとう、世露君」


「なっ、麗奈は迷子じゃないわ!しょ、庶民と遊んであげて居ただけよ!」


  すると、目の前の桜の少女は、俺を見てにこにこと微笑む。


「わあっ…麗奈ちゃんのお友達なの?

 私、桜井夢架って言うんだ。よろしくね」


「ああ、俺──」


「庶民よ」


「庶民じゃねえよ」



 ──……ユメカ?



  思わず世露の方を見ると、世露も驚いたように夢架を見る。


「……ユメカ?」


  思わずそう呟くと、夢架は相変わらず微笑んだまま


「うん、そう呼んでね。世露君も」



「……はい」



 ──……その時の世露の神妙な顔を、俺はこの先永遠に忘れないだろう。



 世露と俺が亡くした『ユメカ』は──……意外な形で再び俺達の前に現れた。

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