1話
────ね、風季ふうき
向日葵畑の中で、彼・女・は柔らかな声で俺の名前を呼ぶ。幼さが残った少し高くて鼻に掛かった甘い声が、やけに耳に残っていた。
────なんだよ、夢架ゆめか。……早く行こうぜ、世露せろたちも先に行っちゃったからさ
対する俺は、どうしてか彼女の口から次に告げられる言葉が酷く恐ろしくて。その場の空気を誤魔化すようにわざと話を切り上げようと努めて明るくそう促せば、夢架は俺を見てその幼さにはおよそ似つかわしくない酷く大人びた表情でふっと小さく息を吐くように笑った。
絡みつくような熱い風が柔く吹いて、向日葵を柔く揺らす。目に突き刺さるような黄色がやけに眩しくて、俺は微かに目を伏せた。
ふうき、と再び彼女が自分の名前を呼ぶ声がした。穏やかだが有無を言わせないようなその言葉に、諦めるようにのろのろと顔を上げれば、彼女は相変わらず穏やかな笑みを浮かべて俺を見ていた。
「────私、風季に伝えたいことがあるの」
そう言うと、夢架の薄桃色の形の良い唇が柔く弧を描く。俺はそれを聞きたくないと感じているはずなのに、どうしてかその場から動くことが出来ない。
抵抗するように俯いてしまった俺を見て、夢架は再度、今度は困ったように「風季」と俺の名前を呼ぶ。伝えられている言葉は穏やかなのに、真綿で首を絞められているような妙な窒息感があった。
夢架は俺に近づくと、俺の両手を優しくとって、囁くように「風紀」と俺の名前を呼ぶ。逃げ出したいと思うのに夢架の手を振り払う勇気も無くて、俺は結局その場から動けずにいた。
「……なんだよ、夢架。改まって」
やっとの思いで口に出した自分の声が、やけに震えていた。情けないと思いながら俯けば、彼女は「風紀」と酷く真剣な目で俺を見て、それからゆっくりとまるで自分でも確かめるように言葉を口にした。
「……私、私ね────?」
────その時に夢架がなんて言っていたのか、今ではもう思い出せない。
ピピピ、という目覚まし時計の機械音で目を醒ます。魘されていたのか、口腔が酷く乾いていた。起き抜けに乾燥した喉を誤魔化すように何度か咳をしてから、のろのろと半身をベッドから起こす。
(……夢)
やけに生々しい過去の記憶を苦虫を嚙み潰したような気持ちで思いながら、ベッドから降りてのろのろと制服から着替える。高校に入学してからまだ数えるほどしか着ていない真新しいブレザーが、やけに責め立てられているように見えた。
「風季、起きてんのー! 夢ちゃんたち、もう迎えに来ちゃうよ!」
階下から聞こえる母親の声に「起きてる!」と同じく大声で返しながら、ワイシャツを着てネクタイを締めると、最後にブレザーに袖を通す。シュルッという掠れた衣擦れの音がやけに耳に付いた。
玄関のドアを開けると、そこには俺と同じ高校の制服を着た三人が立っていて。ドアが開いた音に気づいたように、世露と夢架が「あ!」顔をあげて手を振って。麗奈れなは────こちらを一瞥した後、興味がなさそうにふいと目を逸らした。
「おはよ、風季!」「おはよう。ごめん、遅くなって」
既に待ってくれていた三人にそう言って頭を下げれば、世露と夢架は慌てたように「自分たちも今来たから」と続けて。麗奈はちらりとこちらを一瞥してから「夢架、世露くん」と二人に声を掛ける。
「……そろそろ出発した方が良いんじゃない? 入学早々に目を付けられるの、面倒だし」
麗奈はそう言うと、鬱陶しそうに自身の長い髪を耳に掛けて。世露と夢架の二人は、一瞬だけ気まずそうに目くばせした後、「そうだね、そろそろ行こっか! 麗奈ちゃん!」と夢架が明るく告げる。
前に麗奈と夢架、後ろに俺と世露の順番で学校へ向かう道を歩いてゆく。アスファルトの上でスニーカーが擦れて、ジャリと言う音を立てた。
「風季は、どこか入部する部活動って決めました?」
世露は色素の薄い瞳で俺を覗き込むと、興味深げにそう聞いて。それに対して「強制じゃないらしいし、入らなくても良いかなって思ってる」と返せば、「そうですか」と言って柔らかく微笑む。
「じゃあ僕も入部するのやめようかな」「なんだよ、世露は入ればいいだろ。お前ならどこ行っても歓迎されるよ」
穏やかで人当たりも良く顔も整っている世露は、中学生時代から多くの人に好かれていた。実際にいま通学している高校でも、世露や夢架、麗奈はちょっとした有名人と呼んでも差支えがないし、高校でもさぞかし引く手数多だろう。そう思って世露に伝えたのだが、
「────い・ら・な・い・ので、良いです。そんなの」
世露はにこにこと微笑みながらそんなことを言って。その言葉の冷たさに一瞬だけ息を止めれば、世露は心底不思議そうに「どうかしましたか?」なんて尋ねてくる。
「……いや、何でもない」「そうですか」
世露は穏やかに微笑むと、「夢架たちはどこか部活に入りますか?」なんて前を歩く二人に声を掛けて。「料理部にしようかなぁ」とのんびり答える夢架とは対照的に、麗奈は「強制じゃないし、時間の無駄だから入らない。世露くんたちもそうでしょ?」と答えていて。夢架はその返答に、「えぇー! みんな入らないの?」なんてショックを受けたような声を上げた。
「一緒に料理部入ろうよぉ、麗奈ちゃぁん!」「嫌よ、私は料理に興味ないし。そこの暇そうな男でも誘ったら? かいがいしく世話を焼いてくれるんじゃない?」
麗奈はそう言うと、皮肉気に俺を一瞥して。世露が困ったように「麗奈」と窘めれば、麗奈はフンと鼻を鳴らしてから、すたすたと歩いて行って。夢架は困ったように俺と麗奈を交互に見てから、「ごめんね、風季」と言って麗奈の方へ歩いて行く。
世露はその姿を見送った後、小さく溜め息を吐いて「朝から嫌な思いをさせてごめんなさい」と言う世露に「こっちこそ気を遣わせてごめん」と返せば、世露は苦笑して「これくらい、友・だ・ち・だからなんてことないですよ」と言った。
やがて正門が見えてくると、門の前に立つ教師に挨拶をしてから昇降口に向かう。俺は一組、世露は三組、夢架と麗奈は四組の下駄箱へ向かうと、靴を履き替えて教室へと向かう。
「入学して結構時間が経ってるのに、何かまだ慣れないんだよねぇ。高校生って」
夢架は鞄を肩に掛け直すと、そんなことを呟いて。世露はそれにふっと笑うと、「急に視界が広くなった感じがしますよね。僕もまだ慣れないです」なんて返していて。先程とは打って変わった和やかな雰囲気のまま、それぞれの教室の前まで行くと「じゃあ、また放課後に」と手を振って、それぞれの教室に入ってゆく。
「────世露」「はい?」
教室に入る直前、世露に「本当に部活動に入らないのか」と言えば、世露は「しつこいな」と言いたげな表情で溜息を吐いて「ええ」と答える。
「ええ。別にもともと関心も無かったので」「……そうか」
世露は俺の返答を聞くと、「もういいか」と言いたげな表情をして。それに対して「わかった」と返せば、世露はさっさと教室に入ってゆく。
────風・季・が・入・ら・な・い・な・ら・、僕は入りません
先程の世露の言葉を反芻しながら、教室に入って自分の席に着くと、授業の準備をしながらちらりと横目で世露の姿を見れば、世露は相変わらず教室に入って来てからずっと、常に誰かが世露を取り巻くように周りにいて。なかには部活動勧誘をしている人間もいるようだけれど、その度に世露は「ごめんなさい。部活、興味なくて」と返していた。
(……おかしいよなぁ)
世露が周囲の人間よりも自分の方を優先してくれることに、優越感を感じているなんて。本来だったらきちんと、もっとクラスの人と仲良くした方が良いぞと言うべきなのに。
「おっ、風季。おはよ」「あぁ、おはよう」
俺の姿を見て、挨拶してくれる友人に同じように挨拶を返しながら机の中に教科書とノートをしまうと、ぼんやりと窓の外を見る。窓の外には青く澄んだ空が広がっていて、それが何だか酷く眩しかった。
「なぁなぁ、風紀」「ん?」
授業の準備を机の上に出してぼんやりと窓の外を見ていると、少し前に友人になった前野が興味津々と言った様子でこちらを振り返っていて。それに「何だよ」と尋ねれば、「お前と桜井さんって付き合ってんの?」なんて楽し気に尋ねてきて。予想していなかったその言葉に、思わず吹いてしまう。
「桜井って、夢架のこと?」「そうそう! なんかお前ら、いつも一緒にいるしさ」
桜井さんって優しくて可愛いし、結構男子に人気あんだぜ? なんてほんの少し軽薄そうに笑う彼に「馬鹿、俺たちはそんなんじゃないよ」とだけ返すと、案の定彼は不満そうに「えー、つまんねー」と呟く。
「つまんねー。可愛いーとかないの?」「あのな……俺たちは友達なの。今更そんな風に見れないって」
面倒臭く思いながらそう伝えれば、目の前の彼は「えぇ?」と素っ頓狂な声を上げて。それにぎくりとしながら「何だよ」と答えれば、彼は「風紀さぁ、それマジで言ってんの?」と微かに笑う。
「マジで言ってんの? 男女で友達とかありえないっしょ」