旦那さまの片恋事情
「もう、いいでしょう?」
はらりと、痩せ痩けた頬を伝って雫が落ちていく。ラクス・シエラリードは、微かに開かれた扉の前で固まったまま動けなかった。
休む前、ふと思い出されるのは、数日前、妻が出立する前の晩のことだ。
女の泣き顔を見るのはあれが初めてではない。くるくると表情を変えるあの少女は、飾る事を知らずに有りのままで振る舞う。時には悔し涙や嬉し泣きをしたこともあった。偽り慣れた、自分達のような者にとって、少女に心惹かれるなというのが難しい。
だが彼の少女が選んだのはラクスではなかった。その瞳に映す姿は何時だって自分以外で、悔しくないといえば嘘になる。しかし、それ以上に二人が幸せそうにしている事の方が嬉しくて、秘めた想いは静かに幕を閉じた。
国中を挙げて祝福された親友の結婚から遅れること半年、ラクスは今の妻を迎えた。自ら選んだ花嫁だったが、それは家格が合うだとか、家を切り盛りするに問題ない性格や能力を有するだとか、後継の母体に相応しいかなど、そこには特別な感情の入り込む余地もない、政略婚だった。
調書通り、彼女は良く出来た妻だった。女にしては珍しく学問や政治にも通じ、社交から領地の運営まで家の差配を一手に担ってくれる。妻としての働きも申し分なく、男2人に女1人を産んでくれた。貞淑を守り、それでいて夫の行動を縛ることもない。まさに理想の妻。
“何か”から逃げるように書斎へ閉じ籠ったラクスは、これまでを振り返り愕然とした。
妻の良い所を挙げれば幾つもある。だがそれはどれも表面的な、上司が部下を評価する基準と同じだった。妻はどんな性格をしている?何を好む?
身目は……夫の欲目を除いても美しいだろう。紫紺の髪は夕暮れ時の刹那の輝きを思い出させ、甘やかな桃色の瞳と相まって危うい色香を纏う。細く小さな肢体はうっかり壊してしまいそうな錯覚を与えるが、一皮剥けば、乗馬を好むせいか適度に引き締まった肉付きをしている。特に、上に乗せた時は……。
邪な考えを振り払い、宙を仰ぐ。
「私は何も見ていなかったのか……」
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『暫く静養の為にリュドルベーンへ下がりたく存じます』
『……分かった』
了承を告げながらも釈然としなかった心が、漸く氷解する。ただ静養するだけならば、遠く離れた領地でなくとも王都に近い、名の知れた保養地があるのだ。しかも今回は王家の申し出もあって、保養地に建てられた離宮の使用許可が出ていた。断る理由もない筈、それをわざわざ蹴ったのは意味があるのだ。例えば。
「男でも出来たか」
妻と結婚してから領地に戻ったのは一度だけ。時期国王の側近として宰相補佐の肩書きを持つラクスは、官職を持たない貴族らとは違い、年中王都に居ることを求められる。だが、侯爵家の一切を取り仕切る妻はその限りで無い。一年の半分は領地で暮らしているのだ。面倒を避ける為に、愛人を作ることはしないが、健全な男である以上、夜の街へ行くこともあるし、妻も承知している。三人の子供がラクスの実子であるのは間違いなく、今まで通りに役目を果たし続けるならば、妻が愛人を作るのも問題ない。
そう思ってきた自分を今は殴りつけてやりたかった。
他の男と妻を共有する?
否だ。
自分以外の男に妻があの陽だまりのような微笑みを浮かべるのか?
「許せない……のは、私もか」
妻に求める条件に当て嵌まったのは、何も彼女だけではない。それでも選んだのは、あの笑顔だ。
王家が主催する春告の茶会の席、自他共に優良物件であるラクスの周りには多くの花が群がっていた。早々に辟易した彼は、女達が日差しを嫌うのを良いことに、サロンを抜け出して庭へと出た。追いかけてくる者もいたが、草木で作られた迷路に入ってしまえば撒くのは容易い。幼少時から散々遊んだ彼は迷路の構造を把握していたので、数刻も経たずに出口から抜け出すと、奥庭園へと足を向けた。とはいえ大して草花に興味もなく、戻ろうにもまだそれほど時間は経っていない。暫く休もうと、親友と自分しか知らないとっておきの場所へ行ってみると、そこには先客がいた。此方に背を向けていて、人が居ることに気付いた様子はない。新冠という衣装の形から彼女が今日王宮へ上がったばかりだと分かる。新冠を着ている間は、王宮での振る舞い方を学んだり、顔合わせをする為に親兄弟と行動するのが当然で、間違っても一人でいることはあり得ない。このまま引き返すべきだと判断しながらも、ラクスは興味を惹かれるまま真逆の行動をとっていた。
近付いて気付いたが、彼女は茶会もそっちのけで本を読んでいた。理由を聞いてみると、どうしても続きが気になって、スカートに隠して持ってきてしまったのだとか。あまりにも可愛らしい理由に珍しく大笑いしてしまったラクスに、ばつが悪そうにするも最後はつられて微笑んだ彼女。
それが最初で最後の本当の笑顔だ。新たな恋に堕ちた瞬間だった。
「はは……今更気付くとは滑稽だ」
命を落とさんとする瀬戸際にあってまで、妻はラクスに認められようとしていた。自惚れで無ければ妻はずっと、顧みない夫を待ち続けていたのだ。何時かという淡い想いを抱きながら絶望し、不毛な想いに終止符を打つ為に、矛盾した行動をとった。引き留めてくれることに、一縷の望みをかけて。
結果は今の通りだ。ラクスが漸く振り返った頃には何もかも遅かった。
「酷い顔だな」
薄暗い窓越しに親友の姿が映り込む。無断で入ったことに対して咎めるも、返事が無かったからだと言われれば肩を竦めるしかない。
「ここ数日引き篭っているいると聞いたが、その様子だともう分かっているんだろう?」
「ああ。私は妻を……愛しているんだ」
言葉に出してみれば、あれ程戸惑っていた心がぴたりと収まった。そして押し寄せる、数多の後悔。
「失くして漸く気付いた、愚かな私を笑ってくれないか」
「何故だ?まだお前は何も失っていないだろう。言葉も伝えないうちに諦めるなど、らしくないな」
「今更告げたところで何になる?あれの心には最早、私などいないだろうよ」
彼女が幸せであればそれで良いのだ。例えそこには自分がいなくても。
「お前はっ!……はぁ、そういう奴だったよな。ユイカの時も、お前は最後まで本人は疎か、誰にも悟らせなかった。相手の幸せを願いながら、自分の幸せには目を瞑って……嫌味なくらいお前は良い奴だよ。だがな、お前を幸せにするにはどうしたらいいんだ?俺はお前にもちゃんと幸せになって貰いたいんだよ!」
「憐れみのつもりか?」
「違う!あ〜もう、ごちゃごちゃと考え過ぎなんだよ。偶にはみっともなく足掻いてみせろ。これをやるから、さっさと嫁の所に行ってケリを着けて来い」
乱暴に押し付けられたのは、既に受理された休暇届に各領地毎の検問を免除される通行証、そして親友が大切に保管している酒だった。
「……他はまだしも酒?」
「おう。着くまでに全部飲んで理性を飛ばしとけ。お前はそれ位しないと無理そうだろ」
吐き気を催すのがおちだと思ったが、それを口にしないだけの分別はあった。親友なりの心遣いに感謝して、後でゆっくり楽しむことにする。
激しく降り続けていた雨は、いつの間にか上がっていた。
「ねえ、お祖父様!」
「どうした?」
息子譲りの銀色の髪を受け継いだ孫が、ラクスの膝上によじ登ってくる。
「あのね、お祖父様はどうやってお祖母様に好きって言ったのかなって。僕ね、今度ハルミラとけっこんごっこすることになったんだ」
「そうか。だったら、自分の想いの丈を相手にぶつけてみることだ。難しく考えなくても、素直な心を伝えれば良い」
「ん〜、でもハルミラはロマンティックなのじゃないと嫌だっていうんだよ」
「尚更私など参考にならないと思うが……」
「そうなの?でも、お祖母様がお祖父様の言葉はとても素敵だったのよ、って。ね、僕にも教えてよ」
「さてな。酒に酔った勢いで紡いだものだからもう忘れてしまった」
「嘘だぁ。お祖父様のケチんぼ!いいから早く教えてよ〜」