White day(完)
――2月14日。
チョコレートを風子から貰った。
「……本命です」と変わらぬ笑顔で言われたときには、何故かよく分からなかった。
分かったのはしばらくしてから。彼女が「やっぱりだ」と、確信したように笑うからだ。
「今日はバレンタインデーなんだよ」
「バレンタインデーなら知っているが?」
ハートマークの垂れ幕がしばし商店街にはあふれていたではないか。
「知ってても、分かってないだろうなぁって、思ったんだけど」
「……。あ」
ポンと手を叩く。そうだ、バレンタインデーとは某司祭が死んだ日だが、日本の女性にとっては特別な日だと書いてあった。
「分かってる。論理的でないってことは。和音君が理解してないかもしれないと言うことも」
でも、
でも、せっかくの日だもの。
理屈抜きにこの日を利用しませんか?
「まあ、それもよかろう」
わざと、非論理的なものに乗っかってみてもかまわないだろう。
まして、そんなことで風子が喜ぶのなら。
――3月14日。
今年の冬は暖かかったのに、何故かこの日は寒かった。暗雲立ち込めているわけではないから、余計に地上の熱が放射冷却されない……と、きっと和音君なら言うんだろうなぁ。
春の雨は粒が大きい。
昨日振った雨は、そんな春の訪れを感じさせるような雨だった。
足元は少しゆるんでいて、卒業式のために着物を着た女の人が少し爪先立ちに歩いていく。
急がないと料理がなくなっちゃう!って言っているのが聞こえたから、謝恩会が始まるのかもしれない。
「さむー」
少し声に出すと、体温が一緒に逃げていった。あわてて口元を手で覆ってそれを防ぐ。
まだ、もう少し私は待っていないといけないかもしれないから。
白いものが落ちてきた。
手のひらで受けると、溶けていく。
また、ひらり。
ひらり……黒いアスファルトの上に落ちる。
儚い雪は消える。白い、白い、ホワイトデー。
雪は消える。
そのはずなのに、前方から消えない雪がやってきた。
最初、遠目には雪だるまが歩いてきたのかと思った。
道行く人がぎょっとしたように振り向く。相当奇異な光景には違いない。
次第に像は鮮明になる。
雪だと思っていたのは……白いマシュマロで……
そう。両手いっぱいのマシュマロ。
「和音君!」
駆け寄ると和音君はゆっくりと私の姿を認めて抱えていたものを差し出した。
「どうしたの?。こんなにいっぱいのマシュマロ」
両手いっぱいと言うか、
両腕いっぱいと言うか、
むしろいっぱいいっぱいの……白いもの。
目分量でいくとバケツ2杯くらい?
けれども主は平然と答える。
「これでも足りんのだが……?」
「え?」
目の前をふさぎきってしまうほどのマシュマロのどこが足りないの?
「……ホワイトデーとは、風子に感謝の気持ちを返す日なのだろう?」
だとすれば、これだけではまったく足りないではないか。
むう。と口をきゅっと結んで和音君ははっきり言う。
頷きとともにリボン掛けされたマシュマロの袋が転がり落ちそうになって、私は慌ててそれを支えた。
――それは、ふんわりとしたクッションのように柔らかかった。
嬉しかった。
私のことを考えてくれたのがうれしかった。
どんな顔してこんなにたくさんのマシュマロを買ってくれたんだろう。
どんな顔してこんなにたくさんのマシュマロを抱えて歩いてくれたんだろう。
どんなことを考えて、ここまで来てくれたのだろう。
「ありがとう」
「礼には及ばない」
それでも……有難う。
両手いっぱいのマシュマロに邪魔されてしまって和音君の顔は見えなかったけれど、少しだけ、嬉しそうに身じろぎしたようだった。
雪のように白くて、消えないマシュマロはふわふわと揺れる。
和音君は家まで持ってきてくれることになった。私も少しだけマシュマロを持つ。
大きな雪だるまと、
小さな雪だるまが並んで歩いて、
まるで「ホワイトデート」です。
歩く道にはうっすら雪が積もったものの、最初から真っ白にするつもりはなかったのか、すぐに晴れてきた。キラキラとお日様の光が見えてくる。雪が輝きだした。電柱の上に積もった雪が、屋根の上の雪が、そして雲までもが光を浴びて輝いていた。
それが、ふわふわのマシュマロを包む透明な包みに反射して……
キリリとした冬の気温と相まって、
――今が一番幸せなんじゃないだろうかなんて考えてしまった。
ふと、隣を歩いている和音君をみると、しきりと何か考えているよう。
「?」
しばらく見つめていると「あとで」と言う。
どうして?
首をかしげると、まずは運んでから。と。
溶けかけた雪が少し水溜りのようになっている。それを彼は器用に避けていくので、私もそれに続いた。
青い空がちゃっかり顔を出していた。心の中がじんわりと溶けていくようだった。
和音君の背中が揺れるたび、
マシュマロが跳ね上がるたび、
このままついていきたいと思ってしまった。
静かで、雪に降り込められた街は静かで、時折雪をかき分けながら走り行く車の音だけ。耳を澄ませば、和音君が口の中で何かを言っているようだったけれど、その小さな声よりも……溶けた雪が雨どいを伝って落ちていく音のほうが大きくて聞こえない。
和音君が「あとで」というのなら、きっと分かる。
だから私はしばらくこの静けさを楽しむことにした。
――精一杯の感謝の気持ちを、小さな両腕に抱えて。
ふわふわの幸せを感じる。
「ふわふわって、素敵な言葉だね」
ちょっと恥ずかしくて、顔を見られないようにマシュマロに頬を寄せると、
「風子もじきにそうなる」
和音君はあっさり肯定して見せた。
その意味が分かったのは1時間後。
「お嬢さんとお付き合いさせていただいてます吹谷といいます。
そのうちいただきにまいります」
いきなり私の両親に向かって和音君は……!!!。
驚いたのは両親ばかりではない。
「ええええ????!!!!!!!」
このマシュマロは手土産だったの?
てっきりホワイトデーのお返しだと思っていたのに。
「「「なんで」」」
すこぶるありがちな質問ではあるけれど、聞かずにはいられない。唖然とする私自身と両親に対し、彼は、
実に、
実に理路整然と、
まさに正論で、
その必然性と、
自分の将来性と、
短所長所をならべるのにやぶさかではなかった。
ぽん。
マシュマロを一口、口の中に入れる。
「ふわふわだね」
「吹谷 和音で、『ふ』『わ』だな」
「和歌山 風子も、逆にしたら『ふ』『わ』よね」
「二人でいるとふわふわだ」
一時はどうなることかと思ったけれど、一通り説明が済んでしまうと、両親は案外すっきりしたようだ。そこまで真剣に考えているなら、間違いは起こるまいと逆に安心したようで。
――大量のマシュマロは私の部屋に運ばれた。
食べきれないなぁ、なんて、笑ってしまう。
もっと、頬が緩んでしまうのは、さっきの真剣な和音君の表情だった。
「何を笑っている?」
溶けない雪を口の中で転がしていると、心が幸せすぎてとけそうだった。
「何を泣いている?」
首を振る。
悲しくて泣いているんじゃない。嬉しくて泣いているんだと。
和音君は久しぶりに困った顔をした。
「やっぱり、少々性急過ぎたか?」
女性としては段階を踏んだほうが良かったのだろうか?。
一生懸命考察している姿を見たら、また涙がこぼれた。
こんなに私のことを、私だけを見て、考えて、心にうつしてくれた人はいなかったから。
「ああ、そうか」
ぽんと手を叩いて和音君は、私を抱きしめた。その手が大きく感じられる。
それから。
――キスをひとつ
私は目を開けたまま、身動き一つ出来ない。
初めてのキスは甘かった。
「キスがまだだったな」
そういう和音君もはじめてだったらしい。すこし、耳が赤くなっていた。