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つれづれペンペン草  作者: おのみちたかし
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ミスチョイス

15歳の頃


 人間には向き、不向きがある。血が苦手な人は医者にはならない方がいいし、人前で話すのが苦手な人は芸能界に進むと苦労するだろう。

 適材適所という四字熟語もある。野球ならば足の速い人は外野で1番バッター、パワーヒッターは4番サードといったところだろうか。この法則に逆らうと成功の確率はぐっと低くなってしまう。


 15になった僕は希望に燃えていた。華やかな高校生活を夢見て「勉強に、部活に、青春をかけるんだ!」と鼻息も盛んに新学期を迎えたのだ。

 4月は新入生勧誘の季節である、数々の部活が新入生の獲得に躍起になって学校内を駆け回る。新入生の中にも目立つやつが出てくる、特にスポーツ系の部ではスカウト活動が顕著である、がたいのデカイやつ、背の高いやつ、足の速いやつ、などは複数の運動部から甘い言葉で誘われている。


「君ならうちの部に来ればきっとスターになれる!」

「君は次世代のホープだ!!」


 ちなみにとても地味だった僕はどこからのお誘いもなく、春のうららかな日差しの中、校内をのんびりと散策するのみであった。


 僕は中学校でやっていた卓球部に仮入部をするべく部室を探していた。ふと見ると校門の近くにある池の周りに、卓球のユニフォームを着た軍団が目に入った。彼らは池の周りを囲むようにとりまき、全員が池に向かって足を上げている。どうやら、腹筋トレーニングの最中らしい。


 ごく当たり前の光景だったのだが、僕は何となく違和感を覚えた。池を取り囲み足を上げている姿が妙にまぬけに映ったのだ。(卓球部の先輩ゴメンナサイ)


(なんかかっこ悪いな)

(入部したらあの輪の中に入るんだよな)

(やっぱ、やめて別な部にしよう)

(もっとかっこよくてモテそうな部がいいよな)


 少年は心に秘めていた決意をあっけなく翻し、邪な気持ちのまま、また校内をさまようのであった。

この時の少年の頭の中には「適材適所」「分相応」というワードは全くなく、「何となくかっこがいい」という計測基準としては極めてあいまいなワードで支配されていた。

 得てしてこうした選択は凶と出ることが多い。


(さてどの部に入ろうかな)


 その時、僕の頭の中に前夜に見たテレビの映像かよみがえった。それは当時抜群の人気を誇っていた男子バレーのワールドカップの試合の映像だった。男子バレーが強かった時代で、そこで活躍する選手たちはアイドルのようにマスコミをにぎわせていたのである。中でも一番人気は当時日本鋼管に所属していた「花輪晴彦」選手(わかる人は同世代です)で彼がサーブを打つたび、スパイクを決めるたび、場内は黄色い声援で埋め尽くされるのであった。


(うむうむ あの黄色い声援は悪くないな)

(よし、バレー部に入ろう)


 世の中これほど単純な人間もそうはいない。そして、少年はバレー部の部室を訪れ、入部を申し出ることになる。この瞬間に少年の頭の中には花輪選手よろしく、颯爽とスパイクを決めてコートの中を走り回り、黄色い声援を一身に浴びる自分の姿が華麗に繰り広げられていたのであった。


 しかし、彼には決定的に欠けていた能力があった。それは「客観的に自分を見る」という能力である。思えばバレーボールというスポーツは高―い高―いネットの上で、これまた背の高ーい高―い選手たちが、またまた高ーい高―い運動能力を持って雌雄を決するという崇高な競技なのである。


 花輪選手は身長196センチ、一方の僕は身長165センチ、バレーボール初心者かつ体育の成績は「3」この時点で少年は選択のミスに気付くべきだったのである。

 背が低くても活躍できる競技はある。野球では小柄なリードオフマンが活躍しているし、ラグビーでもフィールドを駆け抜けるスター選手は小柄なバックスだったりする。長身が絶対に有利なバスケットボールでさえ、相手のディフェンスを縫うようにボールを運ぶガードはむしろチームの花形だ。

 しかし、バレーボールだけは別といっても過言ではない。もちろん、小柄なセッターが世界を相手にボールを自由自在に操るなんてことはないでもない。しかし、あのネットというモンスターがある限り長身の選手が圧倒的に有利なスポーツだと認めざるを得ない。選りに選って(この言葉よく見るとすごいです、選びに選び抜いた挙げ句という意味なのだ!)少年はもっとも自分に適していない競技を選択してしまったのである。


 入部した初日に僕は悟った。同じ学年のチームメイトは8人、すべて僕よりも背が高くそのうち7人は中学校での経験者である。先輩を見渡してみると、3年生には193センチもあるセンタープレーヤーがいたりして、僕と並ぶとまるで大人と子供だ。


(うーん、ちょっと選択を間違えたかもしれん・・)

 

 僕は心の中でちょっぴりの不安とかすかな希望を携え高校の部活生活をスタートさせた。


 練習は、思えば卓球部の腹筋以上に「けったいな」ものがたくさんあった。中学で未経験の僕が一番きつかったのが「1000回パス」という練習である。これはパートナーと共にオーバーパスを1000回連続で行うという、単純かつ非常に残酷な練習で、落とせば1からやり直しという精神的負荷の極めて高い練習メニューであった。


 当時は校庭での練習も当たり前の時代であり、初心者の僕はもちろん、風が吹くたびに校庭のどこかからか仲間たちの悲痛な叫びが聞こえてきた。


「きゅうひゃくきゅうじゅういーち」

「きゅうひゃくきょうじゅうにー」

「ああーーーー!!!」


 崩れ落ちる二つの背中・・・

 せつない吐息とため息・・・・


 といった悲劇も時折繰り広げられた。自分がミスした時のいたたまれなさと情けなさ、パートナーへの申し訳なさと後ろめたさ、あの気持ちは今でも心に疼く。


 力のなかった僕にはサンドボールというものが手渡された。これはバレーボールの中に砂が詰め込まれていて、5キロはあろうかという重さのいわば大リーグボール養成ギブス的なトレーニンググッズで、これをもらった時は


(俺は 星飛雄馬か)と内心思った。


 こいつを昼間はもちろん、寝るときも頭の上で常に放り上げることで、手首や腕の力をつけていくのである。僕は日々、このボールとともに過ごした。


 背の低い選手にとって一番ハードルの高いプレーはブロックである。ネットは238センチの高さがあり、最初とんだときは指の第一関節がわずかにネットの上から出ただけである。指の第一関節だけでブロックを決めるのは至難の業である。そこで、ジャンプ力をつければよいという結論になる。僕は通販で怪しげなトレーニンググッズを見つける、それは「パワーアンクル!」足首に鉄の入ったおもりを巻き付け、こいつをつけたままジャンプを繰り返し筋力をつけていくのである。こいつはサンドボール以上に「養成ギブス」的要素が強く、足を引きずるように歩く自分を振り返っては


(腹筋よりまぬけかも・・)と一人感慨にふけるのであった。


 星飛雄馬のなりそこないのような僕はさらに究極の練習を付け加えた。

 それは・・・「背を伸ばす」というものであった。


1 友人の松本君から「背が伸びる本」というものを借り、背が伸びる体操なるものを

  人知れず朝晩行う。

2 牛乳を1日2リットル飲む。

3 神様がある日枕元に現れて「望みをかなえてあげよう」と言われた時に備えて

  「身長を30センチ伸ばしてください!」とすぐに言えるように心の準備をしておく。


 以上のことを1年ほど続けたが・・・


 結果は・・・1センチも伸びなかったことを記しておきたい。

 

 さて、そうした日々の涙ぐましい努力にもかかわらず、僕の高校3年間の部活生活は予想に違わず惨憺たるものであった。


 公式戦出場 1試合   以上


 練習試合には時々出してもらったが、そこは未経験の高校デビュー選手の悲しい性で、コートに立った途端に緊張しまくり、ミスを重ねてはコートを出され、その度た叱られてはひたすら二軍、三軍生活を送ることになる。


「ピンチサーバー」として試合に出させてもらうと、緊張感から必ずといっていいほどサーブをミスしてはベンチに帰ってきた。


 ある時は、監督から


「お前はピンチを招くサーバーだ」


 なになか上手いことを言うものである。


 ある時は、鬼コーチのH先輩から


「お前は刺身のツマだ」


 という屈辱的なお言葉をいただき、悔し涙に暮れた日もあり


 しかし、練習だけは1日も休むことなく足早に高校でのバレー生活は過ぎ去っていったのである。3年の6月、夏の全国大会の予選に敗退し、他の仲間たちが夏のインターハイの予選まで部を続けるという中で、僕は一足早く引退を告げて、大学受験へとシフトチェンジをした。


 引退のあいさつがかすかに記憶に残っている。


「みんなより一足先に引退する。かっこいい選手じゃなかったけど仲間と後輩にお礼が言いたい」 そんなことを話した気がする。

 練習を休まなかったことと、つらいながらも途中で辞めずにやり通せたことが小さな自信と満足感を僕に与えてくれた。


 さて、そんなさえない3年間を送った僕だが、人生というのは不思議なもので、この後大学では1年間だけだったものの、就職して中学校で16年、転職してママさんバレーと小学生のジュニアバレーで合計25年以上も監督やコーチとしてバレーに携わっていくことになるのである。

 当時のレギュラーだったチームメイトに聞くと今では誰一人としてバレーに関わっているものはいないのに、あれだけダメだった僕がこれほどまでに長くバレーを続けていくから不思議なものだと思う。

 確かに在学中にはいい思い出はほとんどないのだが、ダメ選手はダメ選手なりにそこで何かしらのものを得たことには間違いないようだ。


 あれから30年あまり、今でも時々思う。

「あの時、もしも、違う部活を選択していたら・・・と」


 もしかすると卓球部でレギュラーを獲り、国体くらい出場できていたのかもしれないと。


 しかし、「もしも」が「もしも」でしかないのが人生である。


 同年代の諸氏たちよ!僕らにできることは過去を振り返ることではない、これから先の未来を悔いなきよう突き進むことなのだ!



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