01. 雨
新天町マクドナルドの二階席で、私は窓際に座っていた。
蓋つきのカップは、手に持つには少し熱く、飲み口に唇を近づけるにはまだ早かった。私はそれを両手で包んだまま、窓の外を見ていた。
梅雨の午前の雨は、昨夜ほど強くはなかった。それでも街はまだ、乾くことを許されていないように見えた。
窓ガラスには、雨粒がいくつも張りついていた。しばらくそこに留まり、やがて自分の重みに耐えられなくなったように、ゆっくりと下へ流れていく。途中で別の粒と合わさり、少し太くなり、また細くなり、最後には窓枠のあたりで見えなくなった。
それは涙によく似ていた。
そう思ってから、私は一度だけ目を閉じた。
イヤホンの中では、ホロヴィッツのピアノが流れていた。ショパンのワルツ、作品三十四の二番、イ短調。ワルツという名前はついているが、それは誰かと踊るための音楽ではなかった。少なくとも、今の私にはそう聞こえた。そこには会場も、照明も、差し出される手もなかった。ただ、踊ることができなかった時間の影だけが、少し遅れて揺れていた。
私は本来、こういうものだけを聴いていればよかったのだと思った。
静かなカフェ。雨の日の空。節度のある距離。
そういうものは、いつも安全だった。どれだけ近くで鳴っていても、イヤホンを外せば終わる。こちらの生活にまで、勝手に入ってくることはない。
私の生活には、入ってこないはずの世界があった。
騒がしい店。夜でも明るすぎる通り。呼び方の分からない関係。
そういうものを、私はずっと自分の外側に置いてきたつもりだった。
けれど人は、ときどき自分の柄ではない場所に足を踏み入れる。踏み入れた瞬間には、それがどこなのか分からない。しばらく歩いて、靴の裏に泥がついていることに気づいて、はじめてそこがぬかるみだったと知る。
道を二つ挟んだ先に、弥采の職場があった。
そこが近いことは知っていた。知っていて、私はこの席に座っていた。それ以上のことを、自分に説明する気にはなれなかった。
雨が強くなければ、傘を差して歩いても数分で着くだろう。店が開いている時間に行けば、彼女がフロントに立っているかもしれない。いないかもしれない。どちらにしても、確かめることはできた。
会おうと思えば会える。
何もなかったように、あるいは何かがあったことを前提にして、彼女の前に立つことはできる。
私は蓋の飲み口に唇を寄せ、コーヒーを一口飲んだ。味は薄かった。けれど、その薄さが今の私には合っていた。濃すぎるものは、たぶん受けつけなかった。強い香りも、甘すぎるものも、必要以上に親しげな声も。
ピアノの音は、慰めようとはしなかった。
慰めというものは、ときに近すぎる。その音は、少し離れたところにあった。同じ部屋にいるが、こちらを見ない。こちらの涙にも、怒りにも、余計な名前をつけない。ただ、音だけを置いていく。その距離が、今の私にはちょうどよかった。
私は彼女のことを考えないようにした。すると、その輪郭はかえってはっきりしはじめた。
隣で笑う声。別れ際の温度。返事のない画面。
記憶は、こちらが呼ばなくても勝手にやって来る。礼儀正しくノックをすることもあれば、鍵のかかっていない部屋に黙って入ってくることもある。今日の記憶は後者だった。私はそれを追い出す気力を持っていなかった。
窓の外で、雨粒がまた一つ流れた。
雨粒は、なぜ流れるのかを誰かに説明しない。どこへ行くのかも、何を意味するのかも答えない。ただ、重さに従って下へ向かう。
通りを歩く人たちは、傘を少し傾けながら、それぞれの用事へ向かっていた。その列は、窓の下でゆっくり崩れながら流れていった。
私はイヤホンの音量を少しだけ上げた。ショパンのワルツは、終わりに向かって静かに傾いていた。明るくはならなかった。けれど、崩れもしなかった。
そのことが、少しだけありがたかった。
道を二つ渡れば、彼女のいる場所に行ける。
カップを両手で包み直すと、蓋の下にまだ温かさの残っている部分があった。
私はそれを探すようにして、過去のことを思い出しはじめた。




