01.郷愁に駆られる
────しにてえな。
死にたくなるほど暑い夏の日差しに耐えかねて目を覚ますと、懐かしい天井の模様が見えた。
板張りの木目が、ガキの頃は人の顔に見えたっけ。怖くて、でも豆球消すのは真っ暗になるから嫌で。
しかたなく布団を頭まで被って寝てると、夏じゃなくても暑いから、いつの間にか布団蹴っ飛ばして床に放り出してんだ。
「は……」
感傷的に。朝っぱらから何思い出してんだ、俺ァ? まぁだ寝ぼけてんだろうか。
汗を吸って体に張り付く短パンとタンクトップがうぜえ。
パタパタと襟元をつまんで扇ぎながら部屋を見ると、埃っぽい床にブランケットが乱れて転がっている。
昔の子供部屋はベッドも机も当時のままで、ただ部屋にダンボールやら箪笥が増えて、埃が宙を舞っていた。
色のハゲたカーテンに遮光なんざ期待できるはずもなく、開いた窓から気持ちばかりの風が入って、裾をはためかせている。
じりじりと喧しいのは蝉の鳴き声で、二度寝も満足にできそうにない。
「…………クソだな」
吐き捨てて、顔を洗いに一階に降りる。洗面所に向かう傍ら、奥の居間から談笑が聞こえて陰鬱な気分に拍車をかけた。
願わくば誰も気づきませんように。
どうせ後から顔を出すのに無意味な抵抗を試みて、足音を殺しながら移動した。
昔より幾らか視線が高くなったような気がする。
鏡に写った寝ぼけ眼の間抜け面ぁ眺めて、ぬるい水で顔を洗った。洗面台の脇には、ガキの好きそうなキャラもののコップに見慣れない歯ブラシが四本刺さっている。
俺は旅行用のケースに入った歯ブラシを取り出して、歯磨き粉を二センチ捻り出して、口ん中を泡だらけにしながらしゃこしゃこ磨いた。
姉貴が、小学校に上がる前の姪っ子と、まだ三つにもならねえ甥っ子と、旦那を連れて帰ってきたのが昨日のことで。
姉貴に似たガキも、冴えねえ面したおっさんも、どうにも気まずくて俺はなるべく顔を合わせないようにしていた。
姉貴とヤッて二人もガキこしらえて、すっかり家族ですって顔した知らねえ男が俺の実家で飯を食っている。そんなこたぁどうだっていい。
昨日、ほんの少し会話して、面白みのない話題選びが肌に合わなかっただけだ。
たとえ姉貴の旦那じゃなくたって、仕事の同僚だろうが、学校の同級生だろうが、同じ趣味をもつ仲間だろうが、きっといけ好かなく思えて関わろうともしなかっただろう。
つうか、んなことどうでもいいな、心底。
顔を洗ってる間に出かけちゃくれねえかと勝手に期待していたが、姉夫婦が居間から動く様子はなく、しぶしぶ人気の多い居間に顔を出す。
隣接した台所には母親が立っており、俺は静かに居間を通り抜けて台所へと移動した。
「今頃起きてきたの? 母さんもうお昼作ってるよ」
「おー」
母の言葉に居間のテレビの上に掛かった時計を見ると、針は十一時を回っていた。朝と言うには確かに遅い。
よくわからんバラエティ番組を流しながら、卓袱台を囲んで冷えた緑茶を飲む親族を尻目に、冷蔵庫の扉を開けて開封済みの牛乳パックを手にとる。
中身は半分ぐらい残っていた。それなら別に構わねえか、とパックに口をつけて牛乳を飲む。
「リューあんた、コップぐらい使ってよね」
「んぐ、飲み干すから関係ないだろ」
「子供に悪影響」
姉貴の悪態を無視して、牛乳を飲み続ける。
姉貴の膝に座った甥は何が面白いのかテレビに夢中で、旦那と姉貴の間に畏まって座る姪は、廊下で腹見せて転がってるブス猫(昔っから居るうちの飼い猫。名前はライオンから取ってラオ。名前負けしたブサイクなデブ猫だ)をちらちらと目で追っていた。
俺のことなんざ見てもないし、真似するほどの興味も好意もないだろう。
ただの親馬鹿、姉貴の杞憂だ。
「まあまあ、竜二くんも久しぶりの実家なんだし、羽根を伸ばしたいんだと思うよ」
「あー……ま、そっすね」
目を合わせないようにしていた姉貴の旦那が俺の側に立つ、ような素振りをする。
優男のような風体も、俺のことを柄の悪いガキとしか思っていないような口ぶりも、癇に障ってしかたなかった。
このまま俺を挟んで姉貴と二人で話されたんじゃあ鬱陶しくてかなわない。
「うん、それは、まあ。でも竜二、行儀悪いよ?」
「次からは気ぃつける」
「それならよし」
適当に話を合わせて会話を切り上げ、ごくごくと喉を鳴らして牛乳に集中するふりをした。
「リュー、お皿運んで」
母に声をかけられ、昼食を載せた皿を運ぶ。
素麺が盛られた皿に、細く切られた玉子とキュウリとハムとトマトが乗っている。ガラスの器には麺つゆが。それが人数分。
あらかた居間のテーブルに運んで、一人分だけ皿と器を頂戴した。
箸を取って、猫が転がる縁側に行く。
冷たくてひんやりした床に座り込み、庭木を眺めながら飯を食うことにした。
暑いことには違いないが、そこそこ心地いい風も通るし、二階よりゃよっぽどマシだ。
ぼんやりと素麺を完食し、食後のスイカも三切れ平らげた後。
そういや昨日コンビニで買った団子があったなと思い出し、俺だけ追加でデザートをいただくことにした。朝昼兼用で食うには素麺だけじゃちと軽い。
小さなカップに五粒だけ入った、よく冷えたみたらし団子を、プラスチックのスプーンで掬って口に運ぶ。
団子はやっぱ醤油かみたらしが好きだ。ねっちりとた食感と、甘じょっぱい香りを堪能し、一つ二つと食べ進めていく。すると……。
「りゅー、それなに?」
食い物に釣られたのか、姪っ子が姉貴の側を離れて顔を出した。
「団子だよ。俺ァ朝飯食ってねえかんな、こんぐらいは食わなきゃならねえ」
「クシ、刺さってないよ」
「今どきはなぁ、あるんだよ、こういうのが。コンビニで見かけねえか?」
「知らない。お菓子のね、かーどのとこしか見ないの。かっこいーよ?」
「おぉ、ああ、そりゃいいな。俺も好きだぜ、カードゲーム」
「うん。ね、ひとくち頂戴?」
「あぁ……」
カードの話で気がそれたかと思いきや、残り一個の団子に目をつけて、しっかりと一口要求してきやがる。
姪の肩越しに居間でくつろぐ姉貴を見ると、眉根を寄せて無言でやめろと睨まれる。
食いさしをやると虫歯だなんだでうるさいんだよな。俺もハナからやる気はねえが。
「こいつは俺が買った俺の団子だ」
「うん、りゅーの」
「だから俺が食う」
「うぇ?」
最後の一個を掬って口の中に放り込んだ。
姪っ子はもらえなかったことが衝撃らしく、目を丸くしている。そしてみるみるうちに目尻に涙が溜まって────って、おい、待った。
「なんでぇ、りゅう、なんでぇ! いっこ!」
「喚くなって、おい、ちょっと……」
「いっこだけなのに、ばかぁっ」
一個だけって、五分の一はでかいだろ。なんて言っても未就学児に理解できるわけもない。
泣き出したガキの声はやたらめったら甲高くて、蝉の声と混ざって爆弾みたいに頭の中に響く。
それだけでは終わらず、更には般若のつらした姉貴が。
「竜二」
静かに一言、俺の名前を呼んだ。
怒り心頭だが、泣く子の前で大声は出せねえって様子で、つまりは相当腹に据えかねてるってことだった。目を細めて顎を突き出し、俺を睨む。
「あんた子供にお菓子ぐらいわけてあげらんないの? 大人のくせして」
食わすなつったの姉貴だろ。言ってはねえけど。そういう面してただろうが。
結局、なんでか俺が姪っ子と菓子を買いに、近所の駄菓子屋まで歩いて連れて行くことになってしまった。この暑い中。
車で行けってのに、姉貴は甥のお守りだなんだと理由をつけて行きたがらねえし、旦那は腰を上げようともしねえで一言「ありがとう、竜二くん」だ。
せめて小遣いぐらい寄越せっつうのに、財布を持たせてるからそれで払わせてあげてって……ちげえよ、俺に寄越せってんだ。
寝間着のタンクトップからTシャツに着替えて、裸足にサンダル引っ掛けて外に出ると、花柄のワンピースに麦わら帽子を被った姪が今か今かと待ち構えていた。
つい寸前まで泣いていたのが嘘のように、けろっとした顔で首から下げたキャラものの小銭入れを触っている。
「クソあちぃな」
俺も帽子ぐらい被ればよかったかと若干後悔しつつ、姪っ子と手を繋いで田舎道を歩いていく。
俺の足ならそうかからない距離でも、子供の歩幅じゃ大冒険だろう。
繋いだ手に汗が浮かんで鬱陶しいが、危ないんで離せもしない。
子供用のリードでもあれば手ぐらい離せるんだが、見栄えを気にして田舎にゃ持って帰らなかったらしい。どうせ都会の雑踏ならいつも使ってんだろうに。
しばらくの間、無言で、ガキの頃に歩いた道をぼんやり眺めながら進んで行った。
「りゅー」
「あん?」
「あちゅい」
「おー、俺もだわ」
「抱っこして?」
「………………あぁ」
暑いのは俺も同じだ。
だから車にしとけばよかったのに、こいつが駄菓子屋に行きたがるから。
……まあ、珍しいしな、今どき駄菓子屋なんて。ガキの小遣い握りしめたって、コンビニじゃ大したものも買えないだろう。
せっかく田舎に帰ってんだし、遊びに行きてえってのはわからないでもねえ。けどなぁ。
「抱っこってのは重いんだ。大変なんだぞ。知ってっか」
「うんん……だっこ」
「どっちだよそれ。ったく、しゃあねえなぁ」
うんでもううんでもない愚図りを聞き流して、腋の下に手を入れて姪っ子を抱えあげてやる。
歩幅も小さけりゃ体力もねえ。地面に近けりゃ照り返しも熱いだろうさ。
あぁクソ、かったりい。
「人力タクシーだ。ちゃんと代金払えよ」
真っ直ぐな道で、姪を腕に抱えたままちょっとばかし走ってやる。
クソ暑い上に重くてだりぃが、さっさと帰って頭から冷たい水でも被りたいから急いで進む。
俺ァ死ぬほど疲れるが、頬を撫でるぬるい風がちっとは心地よかった。
ようやく着いた駄菓子屋は昔と変わらず木造の古びた店構えで、どこか懐かしい。
店内は少し整理されたようで、真新しいアイスのショーケースが静かに冷気を発していた。
随分と老けて、すっかり婆さんになっちまった店主のおばさんに声をかけ、腕から下ろした姪を好きに歩かせる。
よっぽど暑さに耐えかねたのか、姪は真っ先にアイスのショーケースに向かっていった。
「うん……うぅん……」
子供用に設置された踏み台に乗って、うなりながらケースの中身を吟味する。
何がそんなに難しいのか、放っておくと何十秒、どころか何分も固まって呻いていた。
暫く待って、流石にそろそろ声をかけようかと近づくと、姪はようやく一個に決めたようでショーケースの蓋を開こうとする。
「どれだ?」
「あのね、青いの」
「こいつか」
「うん」
見ていて危なっかしいんで、代わりに中からアイスを取ってやる。
水色の袋に入ったアイスは、ホワイトサワー味のパピプコだった。
店主のおばさんを呼んで、首に下げた小銭入れの中から硬貨を数枚とって渡すように言うと、姪は一生懸命に硬貨を数えておばさんに手渡した。何枚か間違っていたが、まあ、ご愛嬌だ。
店の軒下に立ち、せがまれてアイスの袋を開けてやる。
「りゅー、はんぶんこ」
「あ? いいよ俺ぁ、お前んだろ」
「んーん、あげる。帰るとき、かたぐるまして?」
「抱っこより要求上がってんじゃねえか……いいけどよ」
それで最後までどのアイスにするか悩んでいたのだろうか、このお子様は。足代なんて言葉を真に受けて。
はあ、と溜息を付きながら、半分に割ったアイスの蓋をちぎって姪の手に持たせてやる。
せっかくなんでもう半分は俺が食うことにした。暑かったんで、溶けても何だからな。
「なぁ、お前好きな菓子あるか」
「いっぱいあるよ。ちょことか、ラムネとか」
「んじゃあ俺に何個か選んでくれよ、この店の菓子。懐かしくって見てたら俺も食いたくなっちまった」
「えぇ? うん……うぅん、いいよ」
カラフルな粒状のチョコ菓子に、袋に詰まった綿菓子と、昔と変わらないラムネ菓子、ザラメのついたおっきな飴玉を何個か小さなビニール袋に詰めてもらって、代わりに数百円を支払った。
早速チョコとラムネを開けて手のひらに数粒出し、口の中に頬張る。
飴玉一個を短パンのポケットに仕舞って菓子を袋に戻し、そのまま姪に手渡した。
「肩車してやるから、それ持っとけ。選んでくれた代金と持ってくれた代金ってことで、帰ったらその中身やるよ」
「いいの? りゅーのだよ?」
「いいよ、俺ぁもう食べただろ。ただ姉貴……母ちゃんにはあんまり見せんなよ。菓子の食い過ぎで怒られないようにな」
「うん、ありがと!」
ガキの小遣いで食わせてもらうのも流石に忍びないからな。
約束通り姪を肩に乗せてやり、転ばないようにのんびり歩いて帰ることにした。
じりじりと喧しい蝉の声を聞き流していると、鈴を転がすような声で、ふと思いついたように姪が言った。
「りゅーじ、死んじゃうって何?」
舌っ足らずな声で。
何もわかってねえって様子で。
えらく曖昧な疑問を、ただ純粋に俺にぶつける。
「誰かに聞いたんか?」
「うん、じじにね、もう会えないんだよって。おやすみなさいしに行くんだって、パパが言ってたの」
「そうか」
親父が。姪にとっての爺さんが死んでから、もう二年が経つ。
葬式はとっくの昔に終わって、母も姉貴も今はもう涙も見せないぐらいに落ち着いていた。
ちょうど昨日が三回忌で、俺も姉貴もそのために帰省したようなものだった。
坊主の読経をガキどもは不思議そうに眺めて、行儀よく座布団に座らされていた。
仏壇の遺影の脇に並んだ、線香のにおいがまだ鼻の奥に残っている。
昼に食った精進料理も、ガキどもは食わず嫌いが多くて半分ぐらいは残してたっけ。それがそのまま俺の昨日の晩飯になったんだ。
煮しめの椎茸が美味くて、酒が進んで最高だった。
「死ぬってのは…………」
あのやたらめったら頑丈だった男も、呆気なく息絶えてしまった。
俺と姉貴を両肩に抱えて遠くの公園まで走っていって、俺たちがくたびれて帰りたがってもまだ遊び回ろうとするような馬鹿な男だった。
子供よりもガキ臭くて、誰よりも無敵で、最強の父ちゃんだって、ガキの頃の俺は勝手に信じ切っていた。
けど、親父はただの人間だ。
死ぬ目に遭えば呆気なく、簡単に、当たり前みてえに逝っちまう。
そのくせ、いつ死んだって構わねえで、不摂生して消極的に死のうとしてるやつぁいつまで経っても死なねえもんだ。
今からだって橋の上から川に飛び込むか、車の流れにでも飛び込めば死ぬんだろうが、ガキを背負ったままで死ぬわけにもいかねえし、誰かしらの関わるところで死ぬわけにもいかねえ。
「死ぬってのは……俺にもよくわからねえけど、生きている人間は死んだ人間に、もう二度と会うことができないんだ」
そしてたぶん死んじまった人間は、もう二度と、この世の煩わしい事柄に苦しめられることがなくなる。
クソみたいな時間から抜け出せる。
誰とも縁を結ばずに済む。
一番楽で、そのはずで、そのくせ選ぶことができない最後の逃げ道だ。
しにてえ、しにてえよ。
俺はこの世界から逃げ出したい。クソ客も、上司も、失敗したらそれで終わりのしんどいだけの仕事も、クソだ。失敗するのが怖え。
例えば俺がここで蹴躓いてガキに怪我させちまったら。取り返しのつかないことをしたら。
考えたくもねえ。考えずにはいられねえ。
俺ァさっさとこの世から────
「りゅー?」
ぺしぺしとちっちゃな手のひらで頭を叩かれて、自分が立ち止まっていたことに気づいた。
どうやら余計なことを考え込んでいたらしい。
寝不足が祟ったのか、どうにも悪い方向にばかり思考が傾いてしまう。
「わりぃ、なんでもねえ。どうした?」
「りゅー、降りる、おろして」
「家はまだ先だぞ」
「いいの」
道の真ん中で屈んで肩に乗った姪を下ろすと、そのまま道の端に駆けていった。
どうやら姪は道路脇の小さな祠に興味があるようで、かがみ込んで覗き込み、ちっちゃな丸い指で中を指差した。
追いかけて中を見ると、祠の中に赤い毛糸の服を着せられた猫のお地蔵さんが置かれている。
どうやらこいつが気になったらしい。
「らお?」
「ラオはもうちょい顎まわりが太いだろ。この猫は祀られてる神様……というか仏様、か?」
綺麗に掃除され、祠の前に水と饅頭が供えられている。
服まで着せられて大切にされているのだろうが、夏場は流石に暑そうだ。
猫地蔵なんて初めて見るが、俺がガキの頃から変わらずここにあったのだろうか。
「おそなえ、する」
「あ? お前それ、俺が買ってやった菓子……」
静止の声も聞かず、姪っ子は袋の中のチョコ菓子を取り出して、蓋を開けたと思えばひっくり返して中身の殆どを祠の前にぶちまけやがった。
先に供えられていた饅頭の横に、色とりどりのチョコの粒がこんもりと山を盛る。
真っ先に名前を上げるぐらい好きな菓子なんじゃなかったのかよ……。
くれてやったものをどう扱おうが構いやしないが、ほんの少しだけ釈然としないでもない。
「りゅーじもお願いごとする」
「願うったって」
叶うものでもないだろう。道端の地蔵だって、願われたほうが困るんじゃねえか。
「いっしょにするの」
……まあ、いいか。
道端で手を合わせて拝むなんて小っ恥ずかしい真似、一人なら絶対にやらねえが。ガキのお守りと思えば別に、誰も見咎めやしないだろう。
姪が手を合わせて目を閉じ、うんうん唸るのを横目に、俺も静かに両手を合わせた。
────しにてえな。
どうか俺を、俺を殺しちゃくれねえもんか。
このクソみたいな世界から、何の責任も咎もなく、誰も傷つけず、俺自身も傷つかずに逃げ出せるなら。それが一番の最高ってもんじゃないのか。
漠然と生きていたって、人間すぐには死にゃしねえ。
不摂生を心がけようが、危険の多い仕事に就こうが、てめえだけがのうのうと楽に死んじまうわけにはいかなくて。死ねるもんでもねえからよ。
ああ、それか、将来を何一つ憂わなくていいぐらいの大金が、労せず手に入れば最高だよな。
好きなときに美味い飯を食って、高い服でも悩まずに買って、派手な色に髪染めて、知らねえ土地に行ってふらふら遊んで暮らすんだ。見過ぎか、夢。
だったらいっそのこと、夢ん中とかゲームみたいに、身軽な体で崖でも屋根の上でもそこら中、飛んで跳ねて走り回って好き放題暴れてみてえ。
軽いジャンプで二メートル三メートル跳べたら、それだけで楽しそうじゃないか。
空なんか飛べなくたって十分。超人なんて言わねえから、それで………………ははは、やっすいチョコ数粒で何祈ってんだろうな、俺ぁ。
願うんなら俺じゃなくて、ガキの幸せでも願ったほうがよっぽど建設的だ。
そうだな、例えば、このガキが今一生懸命にしてる願い事が叶いますように、とか。
「願い事、ちゃんとできたか?」
「うん!」
顔を上げて尋ねると、姪は満面の笑みで頷いた。どうやら満足いったらしい。
帰るように促すと、今度は抱っこはいらないようで、自分の足で歩きたがった。
しかたねえから手を繋いで、狭い歩幅に合わせてゆっくり歩いてやる。
「ラオにはチョコやるなよ」
「ん、あげない。……あげないよ? でも、どうして?」
「食うと死ぬから」
陽はまだ高く、日差しが眩く暑苦しい。家に帰り着く頃になっても、まだまだ暑いままだろう。
帰ったらすぐに水でも浴びて、家の中の一番涼しい部屋で扇風機をがんがんに回しながら、また寝よう。
寝不足の体にガキのお守りは、ちいと堪えた。
洗面台の蛇口ひねって、頭っから水を被る。
ホントは風呂に入って着替えてえが、先に姉貴が姪っ子を風呂に入れるってんでしかたなく、風呂の準備をしている間に頭だけ濡らすことにした。
洗面台から顔を上げると色の抜けた前髪から冷たい水滴が垂れる。
籠ん中のタオルを取って、乱雑に頭を擦って水気を拭いた。あらかた乾いたら、洗濯機に湿ったタオルを投げ入れて、洗面所を出る。
「あーだっりい」
二十キロ弱の動く重りは、家に帰り着いた途端に握りしめた手を離し、縁側でアクビするデブ猫に向かって走っていった。
すぐに姉貴に捕まって、汗かいたからって着替えを取りに行かされていたが。
「……おう、ラオ」
茶でも飲みに行くかと廊下をぷらぷら歩いていると、日陰で腹を出して寝ている間抜け面した猫を見つけた。
よっぽど気持ちいいんだろうか。溶けてるみてえに床に張り付いて。
試しに俺も、隣に寝っ転がってみる。
「あぁ……ねみいな、ラオ」
木の床に張り付いて寝ると、これがどうにも心地良い。
比較的涼しい空気が下の方に溜まってるからか、単純に床が冷たいせいか、どっちだっていいけどよ。
とかくあまりの心地よさに、猫の寝息と風が流れる音が混じって、やかましかった蝉の鳴き声が遠くの方へ消えていく。
疲労感がそのまんま、瞼の重さに変わったみたいだ。
ねみい。段々と意識が遠ざかる。
ほとんど閉じかけた視界の隅で、ラオが体を起こす姿が見えた。
俺の顔に近づいて、にゃあ、と一声鳴く。
自分の縄張りで寝るなって、文句でも言ってんのだろうか。
飼い主に向かってお前は、心の狭いやつ……。
『……めよ、竜二』
どころか前足を持ち上げて、俺の顔を踏みつけようとする。
やめろよラオ。俺ぁもう動きたくねえんだ。
ああ、それともこいつは夢だろうか?
寝苦しいからって、デブ猫に蹴られて苦しむ景色を見るなんて──────
『目覚めよ、竜二。願いを以て誓約は果たされた。此れよりお前は私の剣だ』
────────あ?




