本能寺の変
【序景 本能寺、理性の光】
天正十年六月一日、夜。
京、本能寺。
京の夜は、ひどく静かであった。
薄く靄のかかる空気の向こう、東山の稜線が、暁にはまだ遠い闇に沈んでいる。
本能寺の境内では、篝火も今は勢いを失い、虫の声すら、張り詰めた夜気の中で遠慮がちに響く。
堂宇の甍を、見えぬ風がひとすじ、音もなく滑っていった。
しんと静まり返った堂内に、男が一人。
織田信長。
蝋燭の心もとない光が、その厳かな横顔に、深い影を落としていた。
灯はわずかに揺れ、彼の掌にある物を鈍く照らす。
一挺の南蛮渡来の火打ち筒。
磨き上げられた鋼の銃身が、まるで凝縮された陽光のような冷たい線を放っている。
信長は、その機関部を凝視していた。
火縄を用いぬ、精緻な仕掛け。
指先で、黄鉄鉱の欠片を挟む奇妙な腕を、確かめるようにゆっくりと撫でる。傍らには、ゼンマイを巻くための小さな鍵が置かれていた。
「理か」
呟きは、誰に聞かせるともなく夜気に溶けた。
彼が魅入られているのは、この小さな仕掛けがもたらす必然性。
引き金を引けば、あらかじめ巻かれたゼンマイが内蔵された鋼の車を回転させ、石を擦って火花を散らし、瞬時に鉛玉を放つ。
そこには祈祷も呪詛も、ましてや神仏の御業も入り込む余地がない。ただ、鋼と石と歯車が織りなす、冷徹な「理」だけが存在する。
迷信を排し、人知の及ばぬものを恐れず、ただ合理のみを以て天下を覆さんと欲する信長にとって、この南蛮の技術は、自らが築かんとする治世を体現する象徴であった。
「――上様」
玻璃を打つような、若く透き通る声が静寂を破った。
森蘭丸。
信長の寵愛を一身に受ける小姓が、いつの間にか音もなく控えていた。その白磁のごとき美貌には、主君の微細な機微をも読み解かんとする、怜悧な光が宿っている。
「何用か、乱」
信長は、視線を筒から外さぬまま応じた。
「は。御夜食の儀にございます。……また、南蛮の筒を御覧に?」
「うむ」
信長は、ようやく顔を上げた。その横顔には、天下人としての峻烈さとは裏腹の、純粋な知的好奇心が浮かんでいた。天下を手にした男とは思えぬほどの、無垢な響き。
「面白い。実に面白い。この歯車の『理』は、確かに火縄に勝る。……そういえば」
信長はふと思い出したように、軽く、しかしどこか愉快そうに言った。
「日向守(光秀)が、新しい鉄砲を仕立てたとか。国友ではなく、雑賀の者を召し抱えたと聞く。この筒の仕掛けよりも、さらに簡素で、強力な『理』を組み上げたと。……どのような『理』を凝らしたか、一度、見てみたいものだ」
それは、命令ではなかった。
天下統一という大事業の、束の間の弛緩。純然たる技術への興味。ただ、それだけであった。
だが、蘭丸の耳には、その言葉が別の重みを伴って届いていた。
(見てみたいものだ――)
主君の御意は、絶対である。そして、その御意を誰よりも早く、的確に、あるいは過剰に汲み取ることこそが、この森乱法師の存在価値。
「はっ」
蘭丸は、畳に指が食い込むほど深く頭を垂れた。
「日向守も、上様に御覧頂ければ本望の極みにございましょう。いずれ、備中への御出立の前にでも、上洛を命じられては」
「いや」
信長は短く制した。その声は、常の理性の響きを取り戻している。
「今は毛利攻めが肝要。日向守も出陣の刻限が迫っておる。そのような些事で、あやつの刻を奪うには及ぶまい。……それより、茶を」
「……御意」
蘭丸は流れるような所作で立ち上がり、静かに退った。
障子が閉まる音。
再び一人の空間に戻った信長は、南蛮の筒を構え、暗い虚空へその銃口を向けた。
鋼の車が擦れる微かな音。
(理性の光)
しかしその光は、既に別の影を落とし始めていた。
信長は、ふと銃口を下ろし、天井を仰いだ。夢の残り香のような声で、ぽつりと呟く。
「……南蛮の空は、どんな色であろうな」
自室に戻った蘭丸は、すう、と息を吸い込んだ。
しばし瞑目し、主君の言葉を反芻する。
(上様の御意は、そこにあらず)
彼は、信長の「及ぶまい」という言葉を、言葉通りには受け取らなかった。
あれは、日向守ごときに指図するのが面倒だという、上様の「気遣い」の裏返し。あるいは、自らの純粋な好奇心を臣下に悟られまいとする、天性の「照れ」かもしれぬ。
ならば、自分がその「気遣い」を先読みし、実行せねば。
(上様は、今、御覧じたいのだ)
(そして、それを叶えられるのは、この森乱法師をおいて他にはない)
日向守、明智光秀。
老練な重臣ではあるが、最近の上様のご扱いは些か厳しい。
坂本城の利権を巡る村井貞勝との諍い。長宗我部への仕置きの急な変更。そして、記憶に新しい安土での折檻。
(あの古強者も、今は上様の御機嫌を損ねまいと必死のはず)
光秀は、上様の「理」を解する男。だが、同時に、上様の「情」に最も揺さぶられる男でもある。
(この自分が、上様の御言葉を伝えれば、日向守は万難を排して参上する)
(そして、上様は自分の「働き」を、この機微を解する忠誠を、さらに深くお認めになる)
若き野心。
それは、主君への純粋な忠誠心と、紙一重の危うさを孕んでいた。
蘭丸は、すっと筆を執った。研ぎ澄まされた墨の匂いが、静かに室内に満ちる。
迷いなく筆を走らせる。
『急ぎ、日向守様。
上様、御身様の仕立てられし新式鉄砲、御覧じたく。
夜を徹してでも、本能寺へ御上洛あれ。
森乱法師』
それは、信長の「興味」を、蘭丸が「召喚」へと書き換えた瞬間であった。
書状は、すぐに蘭丸の意を受けた急使の手に渡り、深夜の闇へと吸い込まれていく。
その様子を、本能寺の物陰から見つめる、二つの目があった。
闇に潜む者が、低い声で囁く。
「……動いた。蘭丸め、やりおったわ」
「使いは坂本へ。これより、我らも動く。日向守の道中に、別の『使い』を放て」
本能寺の屋根瓦の上を、先ほどとは違う、湿りを帯びた風が滑っていく。
本能寺に満ちていた絶対的な静寂は、この一瞬を境に、決定的な亀裂を内包した。
破局への「理」が、静かに組み上がり始めた。
【壱景 坂本、使者の刻】
六月二日、丑の刻。
琵琶湖の湖面から音もなく立ち上る濃い霧が、明智光秀の居城・坂本城を包み込んでいた。
城内は、既に慌ただしい出立の準備に追われていた。馬の鼻息、武具の微かな擦れる音、鎧の裾を濡らす草の露。その静かな喧騒が、夜陰に満ちている。
羽柴秀吉の備中高松城攻め。毛利の主力との決戦が近い。
信長自らも出陣するこの大戦の先鋒として、明智軍は今朝、夜明けとともに出陣する手筈であった。
「日向守様」
広間に端座し、戦の段取りを脳裏で反芻していた光秀の耳に、近習の硬い声が届いた。
光秀は、昨夜見た夢の残滓から、いまだ逃れられずにいた。本能寺の甍が崩れ落ちる、不吉な炎の夢。
「本能寺より、森乱法師様の御使者が、急ぎの御内書を」
「何?」
光秀の眉間に、深い皺が刻まれた。
(この時刻に、蘭丸殿から?)
夢と重なるような胸騒ぎを抑え、書状を受け取る。封を切り、一読する光秀の顔から、血の気が引いていく。
「――馬鹿な」
新式の鉄砲を、今すぐ見たい、と。
上様が、この出陣の直前に。
光秀の脳裏に、数日前の屈辱が蘇る。安土城での接待役。家康の饗応の最中、「魚が腐っておる」と衆目の前で折檻を受けた。あの時の信長の目は、理性の光ではなく、激情の炎に満ちていた。
(上様は、まだ御立腹か。この度の出陣の前に、改めてわしの忠誠を試しておられるのか)
(いや、違う)
光秀は、かぶりを振った。
(あの方は、そのような根深い情念で動かれる御方ではない。あの方の興味は、常に『理』にある)
光秀は、自らが開発に関わった新式の鉄砲を思い浮かべた。
火縄ではなく、南蛮の火打ち石の機構を応用し、雨中でも発射を可能ならしめた試作品。信長がこれに興味を持つのは、至極当然の「理」であった。
(問題は、「時」だ)
備中への出軍は一刻を争う。だが、主君の「御意」はそれよりも重い。
蘭丸の書状は「夜を徹してでも」とある。これは、単なる興味ではなく、下知である。
光秀は、逡巡を断ち切った。
「左馬助(秀満)を呼べ! 急ぎ!」
すぐに、明智秀満(左馬助)と、斎藤利三(内蔵助)が広間へ駆けつけた。その顔には、目前の出陣を前にした緊張が張り詰めている。
「殿、いかがなさいました。既に出立の準備は」
「予定を変える」
光秀は、書状を二人に示した。
「上様が、本能寺にて新式の鉄砲を御覧になりたいとの御内意である。蘭丸殿より、急ぎ参上せよとの文だ」
「何と!」
利三が、即座に声を荒らげた。
「備中への出立の刻限に! それはあまりにも…。また、あの若造どもが、殿を愚弄しておられるのでは!」
日頃の鬱憤が、言葉の端々に滲む。
「内蔵助」
光秀は冷静に制した。その声は、不思議と澄んでいた。
「上様の御意である。従うまで」
秀満が、重い口を開いた。
「しかし、殿。この霧の中、全軍を京へ向かわせるは。それに、兵どもは皆、毛利との決戦と思い定めておりますが」
「うむ。…左馬助。そなたが先鋒五千を率い、急ぎ京へ向かえ」
「はっ」
「目的は、あくまで鉄砲の披露である。本能寺の御所様へ、新型の『理』を御覧に入れる。わしも本隊を率い、すぐ後を追う」
秀満は、主君の真意を測りかねた。だが、光秀の目は、既に京の空を見据えていた。
「急げ。丑の刻(午前二時頃)には出るぞ」
明智の軍勢は、当初の予定より数刻早く、目指す備中とは逆の西、京へと向かい始めた。
湖上の霧が、彼らの行軍を隠すかのように、一層濃くなっていく。
兵たちの間には、行き先変更の理由を知らされぬまま、奇妙なざわめきが広がっていた。
【弐景 街道、不穏の影】
夜が明けきらぬ丹波街道。
山裾にはまだ濃い靄が立ち込め、顔にかかる風は湿り気を帯び、夏の雨を孕んでいる。
丹波街道を西へ。
先鋒を率いる秀満の部隊と、光秀の本隊との間には、濃霧と夜陰のせいで、徐々に距離が開き始めていた。
馬上の光秀は、言いようのない不安に駆られていた。
昨夜の夢の残滓が、胸の奥でうごめく。
(蘭丸殿の、早計ではあるまいか)
(いや、上様の御意に相違ない。だが、なぜ今……)
その時であった。
街道脇の闇が、僅かに揺れた。
「――日向守様」
馬の歩みを止めた光秀の前に、黒装束の影が一つ、音もなく立っていた。忍びか。
異様に細身で、顔の半分を覆う布の奥で、二つの目だけが人ならぬ鋭い光を放っている。
「誰だ」
光秀の護衛たちが、一斉に槍先を向ける。
影は、異様なほど静かな、地を這うような声で告げた。
「本能寺に、不穏の気配あり」
「!」
「何者かが、御所様(信長)の周囲を嗅ぎまわっておりまする。……乱法師様の使いは、罠やもしれませぬ」
「何のだ、貴様!」
護衛が詰め寄ろうとした瞬間、影は再び闇に溶け、霧の中に消え失せた。
「……待て!」
光秀の制止も虚しく、そこにはただ湿った夜気が残るのみ。
(罠?)
光秀の背筋を、冷たい汗が伝った。
蘭丸からの召喚。そして、謎の密使による警告。
二つの相反する情報が、光秀の「理」を激しく揺さぶる。
(もし、蘭丸殿の使いが偽りであったら? もし、上様が何者かに狙われているとしたら?)
(いや、それこそが罠かもしれぬ。わしを疑心暗鬼にさせ、上様への謁見を遅らせようという策略か?)
どちらにせよ、事態は一刻を争う。
光秀は、伝令を呼び寄せた。
「馬を飛ばせ! 先を行く左馬助に伝えよ!」
「はっ!」
「本能寺に異変のやもしれぬ! 万一に備え、警戒を厳にせよ! 決して油断致すな、と!」
伝令は、闇を切り裂いて駆けていく。
光秀も、本隊に速度を上げるよう命じた。
(上様、ご無事であれ…!)
だが、この命令こそが、破滅への最後の歯車となった。
主君の身を案じた光秀の「警告」は、先鋒隊の警戒を、致命的な「武装」へと変質させる。
光秀の警告を受けた秀満は、万一の「異変」に備え、さらに行軍速度を速めた。
先鋒隊と光秀の本隊との距離は、絶望的に開いていった。
【参景 本能寺、誤解の門】
六月二日、払暁。
六月の朝、京の空は薄雲がかかり、鳥の声が低く響いていた。
本能寺の境内には、朝餉の支度か、炊煙が淡く立ちのぼる。梅雨前の湿った空気が、夜露に濡れた石畳を包んでいた。
その、あまりにも静かな朝の理を破砕するものが、霧の向こうから現れた。
「止まれ! 止まれ!」
寺の門前で、信長の小姓たちが慌てて飛び出してきた。
目の前には、霧を突き破るようにして現れた、おびただしい数の軍勢。
明智秀満率いる先鋒隊。
光秀からの「異変ありやもしれぬ」という警告を受け、警戒を厳にした兵たちは、既に半ば臨戦の殺気をまとっていた。
武具の擦れる音、馬の嘶き。霧の中で五千の兵が蠢く気配は、それ自体が異様な圧力を放っていた。
「何奴か! 時も弁えず、兵を率いて門前に押し寄せるとは、不埒千万!」
若き小姓の甲高い声が、朝の清冽な空気を切り裂く。
信長の寵愛を傘に着た、恐れを知らぬ傲慢さ。
秀満は馬から降り、兜の緒を締め直した。光秀からの警告が頭をよぎり、その表情は鋼のように硬い。
「明智日向守が臣、明智左馬助である!」
秀満は、門の奥にいるであろう「不穏の気配」に警戒しながらも、本来の目的を告げた。
「森乱法師様よりの急なお召しにより、上様へ新式の鉄砲を御覧にいれるため、参上つかまつった!」
その言葉に、小姓たちは怪訝に顔を見合わせた。
「鉄砲? 乱法師様から?」
「我らは何も聞いておらぬぞ!」
(当然だ。これは森乱法師の独断)
秀満は内心で舌打ちしたが、今は事を荒立てる時ではない。
だが、小姓の一人が、武装した秀満らを値踏みするように見据え、鼻で笑った。
「夜明けに物々しく武装して押しかけ、鉄砲を見せるとは。日向守の家中は、礼儀作法も知らぬと見える。それとも、備中へ行きたくなくて、駄々(だだ)をこねておるのか?」
「――なっ!」
秀満の後ろに控えていた斎藤利三の顔色が、瞬時に変わった。
「若輩が、無礼であろう!」
「控えよ、内蔵助!」
秀満が鋭く制する。
だが、この一言は、既に明智の兵たちの鬱憤に火を点けていた。
(この若造どもが!)
(我らが主君、日向守様を安土で辱め、あまつさえ、この仕打ち!)
長宗我部への仕置きの理不尽な反故。近江坂本での、村井貞勝らとの利権争い。積もり積もった鬱屈が、小姓たちの横柄な態度によって、危険な引火点を迎えていた。
「押し問答は無用!」
秀満は、焦りと警戒を声に込めて張り上げた。
「お疑いならば、まずは見せ申そう。この通り、南蛮より伝わりし新式の筒じゃ。とにかく、これを御覧に入れれば済むこと! 道を開けよ!」
「ならぬ! 上様は未だ御寝所である!」
「怪しい奴らだ! 門を閉めよ!」
小姓たちが門を閉じようとし、明智の兵がそれを阻もうとする。
「これだ! これが上様が御覧になりたいという新式の鉄砲だ!」
秀満の傍らの兵が、焦って桐箱から例の火打ち筒を取り出した。包みをほどかれた銃身が、昇り始めた朝日に反射し、白銀の冷たい光を放つ。
その時だった。
あの傲慢な小姓の一人が、ふざけてその銃を掴んだ。
「ほう、これが日向守の『理』か。どれ」
小姓が、訳も分からず機関部を弄る。
カチッ。
「あっ」
――轟音。
暴発。
予期せぬ轟音が、本能寺の静寂を打ち破った。
小姓の持っていた銃が火を噴き、鉛玉が門柱に深く突き刺さった。
火花が散り、門脇に積まれていた藁束に燃え移る。
一瞬の静寂。
鳥の声も、風の音も消え失せた。
「……き、貴様ら!」
小姓が顔面蒼白になり、刀に手をかける。
「狼藉者! 上様に害を成す気か!」
「違う! 貴様が触ったからだ!」
利三が叫ぶ。
「火が出たぞ! 火じゃあっ!」
恐怖に駆られた別の小姓が、声を張り上げた。
「賊だッ! 明智勢が謀反を起こしたぞ!!」
その叫びが、小競り合いを誘発した。
揉み合う中で、別の兵が持っていた銃が地面に落ちた。
――轟音。
二発目の暴発。
その音は、もはや偶発とは聞こえなかった。
霧の中、寺の外で待機していた明智の兵たちが、一斉にざわめいた。
(門の中で、銃声!)
(小姓どもが、左馬助様を!)
(やはり、異変は真であったか!)
その、混乱の極みにあった静寂を切り裂き、甲高い声が響き渡った。
「――狼藉者である! 謀反だ!!」
誰の声か。
(黒幕の放った声)
寺の塀の影からか、あるいは兵卒に紛れていたのか。
だが、その一言は、全ての「理」を吹き飛ばした。
「謀反だと!?」
「やはり、我らを陥れる罠だったか!」
「小姓どもを斬れ!」
「上様をお守りしろ!」(小姓の声)
秀満の「待て!」という声は、怒号にかき消された。
積年の鬱憤。主君への侮辱。そして、今しがたの二発の「銃声」という動かぬ証拠。
「日向守様に弓引く者を、討ち取れ!」
斎藤利三が、ついに抜刀して叫んだ。
「敵は本能寺にあり!」
最早、誰にも止められない。
明智の兵が、雪崩を打って本能寺の門へ殺到した。
「誤解だ! 止めよ!」
秀満の叫びも虚しく、小姓たちは次々と斬り伏せられていく。
「今さら退けば逆賊ぞ!」
誰かが叫んだ。
その言葉が、最後の理性を焼き切った。
混乱の中、誰かが松明を、先ほど燃え移った藁束に投げ込んだ。
乾いた木材は、あっという間に炎を上げる。
朝霧を焦がす、業火。
【終景 本能寺、炎の理】
丹波路から続く街道を抜け、光秀の本隊が京の町に入ったのは、午前八時前。
彼は、その音を聞いた。
遠雷のような、二発の銃声。
そして、人々の絶叫。
「……何事だ。……まさか!」
光秀の顔から、全ての感情が抜け落ちた。
そこへ、血相を変えた伝令が馬を飛ばしてくる。秀満の先鋒隊の者だ。
「申し上げます! も、申し上げます! 門前にて小競り合いが…! 銃声が二発! 寺に、火が、火が!」
光秀は、馬の腹を蹴った。
(違う…! 違うのだ…!)
視界が開ける。
彼の眼前には、すでに煙と炎が立ちのぼっていた。
日の回りが、異様に早い。
京の空が淡い紫から、一瞬で炎の朱に変わっていった。
そこに現れたのは、既に紅蓮の炎に包まれた、本能寺の姿であった。
空を焦がす黒煙。燃え盛る伽藍。
本能寺の甍が軋み、柱が爆ぜる。
熱風が吹き、灰が雪のように舞う。
そして、その地獄絵図を囲み、喊声を上げる、自らの桔梗の旗印。
光秀の本隊が、先を行く先鋒隊の戦闘を見て、一斉に突入を開始していた。
「謀反だ! 殿(秀満)が討たれたぞ!」
「敵は寺の中だ! 打ち取れ!」
誤解が誤解を呼び、怒りが炎を煽り、全てが制御不能の「喧騒」と化していた。
光秀は、燃え盛る本能寺を前に、呆然と立ち尽くした。
馬上で、手にしていた采配が、小刻みに震えている。
風に混じって、焦げた油と木と、そして血の匂いが漂う。
(……これは、謀反ではない……!)
誰に言うでもなく、呟いた。
けれど耳には、「敵は本能寺にあり!」という、自らの兵たちの叫びが響き渡る。
(誰が最初に言ったのか――兵か、忍びか、それとも何かが囁いたのか。もう誰にもわからぬ)
「見事なご決断にございますな、殿!」
「天下を取る第一歩、まことおめでとうございます!」
後から追いついた家臣たちの、興奮した声が響く。
光秀の唇が震え、声は低く、呻きのように漏れた。
「違う……これは……違うのだ……。」
その言葉を聞き咎める者はいなかった。
馬上で、光秀は天を仰いだ。
顔に煤が降りかかる。頬に熱が走り、乾いた眼が潤む。
「止めよ」
声は、嗄れていた。
炎が鐘楼を呑み、寺の鐘が鳴った。
ゴォン、と。
その音は、炎の中でひしゃげ、まるで時が止まり、歴史がひとつ滑り落ちる音のように、泣きながら響いた。
「止めよ!! 止めよ!!」
誰にも、届かない。
信長が求めた「理」の世界は、蘭丸の小さな「野心」、見えざる者の「策略」、そして現場の「偶発」という、あまりにも人間的な要因によって、今、灰燼に帰そうとしていた。
炎の向こう――。
崩れた塀の陰で、黒い影が一瞬だけ、満足げに微笑んだ。
黒幕の使者か、それともただの煙の幻か。
光秀はただ、膝を折り、地に手をついた。
指先に、まだ熱が残る灰がまとわりつく。
(誰が、これを望んだ……?)
(この、『理』ならぬ結末を――)




