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本能寺の変

作者: kinpo
掲載日:2025/10/25

【序景 本能寺、理性の光】


天正十年六月一日、夜。

京、本能寺。

京の夜は、ひどく静かであった。

薄くもやのかかる空気の向こう、東山ひがしやまの稜線が、あかつきにはまだ遠い闇に沈んでいる。

本能寺の境内では、篝火かがりびも今は勢いを失い、虫の声すら、張り詰めた夜気の中で遠慮がちに響く。

堂宇のいらかを、見えぬ風がひとすじ、音もなく滑っていった。

しんと静まり返った堂内に、男が一人。

織田信長。

蝋燭ろうそくの心もとない光が、そのおごそかな横顔に、深い影を落としていた。

はわずかに揺れ、彼のたなごころにある物を鈍く照らす。

一挺いっちょうの南蛮渡来の火打ち筒。

磨き上げられたはがねの銃身が、まるで凝縮された陽光のような冷たい線を放っている。

信長は、その機関部カラクリを凝視していた。

火縄を用いぬ、精緻せいちな仕掛け。

指先で、黄鉄鉱こうてっこう欠片かけらを挟む奇妙なアームを、確かめるようにゆっくりとでる。かたわらには、ゼンマイを巻くための小さなかぎが置かれていた。

ことわりか」

つぶやきは、誰に聞かせるともなく夜気に溶けた。

彼が魅入られているのは、この小さな仕掛けがもたらす必然性。

引き金を引けば、あらかじめ巻かれたゼンマイが内蔵されたはがねホイールを回転させ、石をこすって火花を散らし、瞬時に鉛玉を放つ。

そこには祈祷きとう呪詛じゅそも、ましてや神仏の御業みわざも入り込む余地がない。ただ、鋼と石と歯車が織りなす、冷徹な「理」だけが存在する。

迷信を排し、人知の及ばぬものを恐れず、ただ合理のみをもって天下をくつがえさんと欲する信長にとって、この南蛮の技術は、自らが築かんとする治世を体現する象徴であった。

「――上様」

玻璃はりを打つような、若くき通る声が静寂を破った。

森蘭丸。

信長の寵愛ちょうあいを一身に受ける小姓が、いつの間にか音もなく控えていた。その白磁はくじのごとき美貌びぼうには、主君の微細な機微をも読み解かんとする、怜悧れいりな光が宿っている。

「何用か、乱」

信長は、視線を筒から外さぬまま応じた。

「は。御夜食おやしょくの儀にございます。……また、南蛮の筒を御覧に?」

「うむ」

信長は、ようやく顔を上げた。その横顔には、天下人としての峻烈しゅんれつさとは裏腹の、純粋な知的好奇心が浮かんでいた。天下を手にした男とは思えぬほどの、無垢むくな響き。

「面白い。実に面白い。この歯車はぐるまの『理』は、確かに火縄にまさる。……そういえば」

信長はふと思い出したように、軽く、しかしどこか愉快そうに言った。

日向守ひゅうがのかみ(光秀)が、新しい鉄砲を仕立てたとか。国友ではなく、雑賀さいかの者を召し抱えたと聞く。このつつの仕掛けよりも、さらに簡素で、強力な『理』を組み上げたと。……どのような『理』をらしたか、一度、見てみたいものだ」

それは、命令ではなかった。

天下統一という大事業の、つか弛緩しかん。純然たる技術への興味。ただ、それだけであった。

だが、蘭丸の耳には、その言葉が別の重みを伴って届いていた。

(見てみたいものだ――)

主君の御意ぎょいは、絶対である。そして、その御意を誰よりも早く、的確に、あるいは過剰にみ取ることこそが、この森乱法師の存在価値。

「はっ」

蘭丸は、畳に指が食い込むほど深くこうべれた。

「日向守も、上様に御覧頂ければ本望の極みにございましょう。いずれ、備中びっちゅうへの御出立ごしゅったつの前にでも、上洛じょうらくを命じられては」

「いや」

信長は短く制した。その声は、常の理性の響きを取り戻している。

「今は毛利攻めが肝要。日向守も出陣の刻限が迫っておる。そのような些事さじで、あやつの刻を奪うには及ぶまい。……それより、茶を」

「……御意」

蘭丸は流れるような所作で立ち上がり、静かに退さがった。

障子が閉まる音。

再び一人の空間に戻った信長は、南蛮の筒を構え、暗い虚空へその銃口を向けた。

鋼の車が擦れる微かな音。

(理性の光)

しかしその光は、既に別の影を落とし始めていた。

信長は、ふと銃口を下ろし、天井を仰いだ。夢の残り香のような声で、ぽつりと呟く。

「……南蛮の空は、どんな色であろうな」

自室に戻った蘭丸は、すう、と息を吸い込んだ。

しばし瞑目し、主君の言葉を反芻はんすうする。

(上様の御意は、そこにあらず)

彼は、信長の「及ぶまい」という言葉を、言葉通りには受け取らなかった。

あれは、日向守ごときに指図するのが面倒だという、上様の「気遣い」の裏返し。あるいは、自らの純粋な好奇心を臣下に悟られまいとする、天性の「照れ」かもしれぬ。

ならば、自分がその「気遣い」を先読みし、実行せねば。

(上様は、今、御覧じたいのだ)

(そして、それを叶えられるのは、この森乱法師をおいて他にはない)

日向守、明智光秀。

老練な重臣ではあるが、最近の上様のご扱いはいささか厳しい。

坂本城の利権を巡る村井貞勝とのいさかい。長宗我部ちょうそかべへの仕置きの急な変更。そして、記憶に新しい安土での折檻。

(あの古強者ふるつわものも、今は上様の御機嫌を損ねまいと必死のはず)

光秀は、上様の「理」を解する男。だが、同時に、上様の「情」に最も揺さぶられる男でもある。

(この自分が、上様の御言葉を伝えれば、日向守は万難を排して参上する)

(そして、上様は自分の「働き」を、この機微を解する忠誠を、さらに深くお認めになる)

若き野心。

それは、主君への純粋な忠誠心と、紙一重の危うさをはらんでいた。

蘭丸は、すっと筆を執った。研ぎ澄まされた墨の匂いが、静かに室内に満ちる。

迷いなく筆を走らせる。

『急ぎ、日向守様。

 上様、御身おんみ様の仕立てられし新式鉄砲、御覧じたく。

 夜を徹してでも、本能寺へ御上洛ごじょうらくあれ。

   森乱法師』

それは、信長の「興味」を、蘭丸が「召喚」へと書き換えた瞬間であった。

書状は、すぐに蘭丸の意を受けた急使の手に渡り、深夜の闇へと吸い込まれていく。

その様子を、本能寺の物陰から見つめる、二つの目があった。

闇に潜む者が、低い声で囁く。

「……動いた。蘭丸め、やりおったわ」

「使いは坂本へ。これより、我らも動く。日向守の道中に、別の『使い』を放て」

本能寺の屋根瓦の上を、先ほどとは違う、湿りを帯びた風が滑っていく。

本能寺に満ちていた絶対的な静寂は、この一瞬を境に、決定的な亀裂を内包した。

破局への「理」が、静かに組み上がり始めた。



【壱景 坂本、使者の刻】


六月二日、うしの刻。

琵琶湖びわこ湖面こめんから音もなく立ち上る濃い霧が、明智光秀の居城・坂本城を包み込んでいた。

城内は、既に慌ただしい出立しゅったつの準備に追われていた。馬の鼻息、武具のかすかなこすれる音、よろいすそを濡らす草の露。その静かな喧騒けんそうが、夜陰に満ちている。

羽柴秀吉の備中高松城攻め。毛利の主力との決戦が近い。

信長自らも出陣しゅつじんするこの大戦おおいくさの先鋒として、明智軍は今朝、夜明けとともに出陣する手筈てはずであった。

日向守ひゅうがのかみ様」

広間に端座し、いくさの段取りを脳裏で反芻はんすうしていた光秀の耳に、近習きんじゅうの硬い声が届いた。

光秀は、昨夜見た夢の残滓ざんしから、いまだ逃れられずにいた。本能寺のいらかが崩れ落ちる、不吉な炎の夢。

「本能寺より、森乱法師らんぼうし様の御使者が、急ぎの御内書ごないしょを」

「何?」

光秀の眉間みけんに、深いしわが刻まれた。

(この時刻に、蘭丸殿から?)

夢と重なるような胸騒ぎを抑え、書状を受け取る。封を切り、一読する光秀の顔から、血の気が引いていく。

「――馬鹿な」

新式の鉄砲を、今すぐ見たい、と。

上様が、この出陣の直前に。

光秀の脳裏に、数日前の屈辱がよみがえる。安土城での接待役。家康の饗応きょうおうの最中、「魚が腐っておる」と衆目の前で折檻せっかんを受けた。あの時の信長の目は、理性の光ではなく、激情の炎に満ちていた。

(上様は、まだ御立腹ごりっぷくか。この度の出陣の前に、改めてわしの忠誠を試しておられるのか)

(いや、違う)

光秀は、かぶりを振った。

(あの方は、そのような根深い情念で動かれる御方ではない。あの方の興味は、常に『ことわり』にある)

光秀は、自らが開発に関わった新式の鉄砲を思い浮かべた。

火縄ではなく、南蛮の火打ちフリントの機構を応用し、雨中でも発射を可能ならしめた試作品。信長がこれに興味を持つのは、至極当然の「理」であった。

(問題は、「時」だ)

備中への出軍は一刻を争う。だが、主君の「御意ぎょい」はそれよりも重い。

蘭丸の書状は「夜を徹してでも」とある。これは、単なる興味ではなく、下知げしである。

光秀は、逡巡しゅんじゅんを断ち切った。

左馬助さまのすけ(秀満)を呼べ! 急ぎ!」

すぐに、明智秀満(左馬助)と、斎藤利三さいとうとしみつ内蔵助くらのすけ)が広間へ駆けつけた。その顔には、目前の出陣を前にした緊張が張り詰めている。

「殿、いかがなさいました。既に出立の準備は」

「予定を変える」

光秀は、書状を二人に示した。

「上様が、本能寺にて新式の鉄砲を御覧になりたいとの御内意である。蘭丸殿より、急ぎ参上せよとのふみだ」

「何と!」

利三としみつが、即座に声を荒らげた。

「備中への出立の刻限に! それはあまりにも…。また、あの若造わかぞうどもが、殿を愚弄ぐろうしておられるのでは!」

日頃の鬱憤うっぷんが、言葉の端々ににじむ。

「内蔵助」

光秀は冷静に制した。その声は、不思議と澄んでいた。

「上様の御意である。従うまで」

秀満が、重い口を開いた。

「しかし、殿。この霧の中、全軍を京へ向かわせるは。それに、つわものどもは皆、毛利との決戦と思い定めておりますが」

「うむ。…左馬助。そなたが先鋒五千を率い、急ぎ京へ向かえ」

「はっ」

「目的は、あくまで鉄砲の披露である。本能寺の御所様へ、新型の『理』を御覧に入れる。わしも本隊を率い、すぐ後を追う」

秀満は、主君の真意を測りかねた。だが、光秀の目は、既に京の空を見据えていた。

「急げ。丑の刻(午前二時頃)には出るぞ」

明智の軍勢は、当初の予定より数刻早く、目指す備中とは逆の西、京へと向かい始めた。

湖上の霧が、彼らの行軍を隠すかのように、一層濃くなっていく。

兵たちの間には、行き先変更の理由を知らされぬまま、奇妙なざわめきが広がっていた。


【弐景 街道、不穏の影】


夜が明けきらぬ丹波たんば街道。

山裾やますそにはまだ濃いもやが立ち込め、顔にかかる風は湿り気を帯び、夏の雨をはらんでいる。

丹波街道を西へ。

先鋒を率いる秀満の部隊と、光秀の本隊との間には、濃霧と夜陰のせいで、徐々に距離が開き始めていた。

馬上の光秀は、言いようのない不安に駆られていた。

昨夜の夢の残滓が、胸の奥でうごめく。

(蘭丸殿の、早計ではあるまいか)

(いや、上様の御意に相違ない。だが、なぜ今……)

その時であった。

街道脇の闇が、わずかに揺れた。

「――日向守様」

馬の歩みを止めた光秀の前に、黒装束の影が一つ、音もなく立っていた。忍びか。

異様に細身で、顔の半分を覆う布の奥で、二つの目だけが人ならぬ鋭い光を放っている。

「誰だ」

光秀の護衛たちが、一斉に槍先を向ける。

影は、異様なほど静かな、地をうような声で告げた。

「本能寺に、不穏の気配あり」

「!」

「何者かが、御所様(信長)の周囲をぎまわっておりまする。……乱法師様の使いは、わなやもしれませぬ」

「何のだ、貴様!」

護衛が詰め寄ろうとした瞬間、影は再び闇に溶け、霧の中に消え失せた。

「……待て!」

光秀の制止もむなしく、そこにはただ湿った夜気が残るのみ。

(罠?)

光秀の背筋を、冷たい汗が伝った。

蘭丸からの召喚。そして、謎の密使による警告。

二つの相反する情報が、光秀の「理」を激しく揺さぶる。

(もし、蘭丸殿の使いが偽りであったら? もし、上様が何者かに狙われているとしたら?)

(いや、それこそが罠かもしれぬ。わしを疑心暗鬼にさせ、上様への謁見えっけんを遅らせようという策略か?)

どちらにせよ、事態は一刻を争う。

光秀は、伝令を呼び寄せた。

「馬を飛ばせ! 先を行く左馬助に伝えよ!」

「はっ!」

「本能寺に異変のやもしれぬ! 万一に備え、警戒をげんにせよ! 決して油断致すな、と!」

伝令は、闇を切り裂いて駆けていく。

光秀も、本隊に速度を上げるよう命じた。

(上様、ご無事であれ…!)

だが、この命令こそが、破滅への最後の歯車となった。

主君の身を案じた光秀の「警告」は、先鋒隊の警戒を、致命的な「武装」へと変質させる。

光秀の警告を受けた秀満は、万一の「異変」に備え、さらに行軍速度を速めた。

先鋒隊と光秀の本隊との距離は、絶望的に開いていった。


【参景 本能寺、誤解の門】


六月二日、払暁ふつぎょう

六月の朝、京の空は薄雲うすぐもがかかり、鳥の声が低く響いていた。

本能寺の境内けいだいには、朝餉あさげの支度か、炊煙すいえんあわく立ちのぼる。梅雨前の湿った空気が、夜露よつゆに濡れた石畳を包んでいた。

その、あまりにも静かな朝のことわり破砕はさいするものが、霧の向こうから現れた。

「止まれ! 止まれ!」

寺の門前で、信長の小姓たちが慌てて飛び出してきた。

目の前には、霧を突き破るようにして現れた、おびただしい数の軍勢。

明智秀満あけちひでみつ率いる先鋒隊。

光秀からの「異変ありやもしれぬ」という警告を受け、警戒をげんにした兵たちは、既に半ば臨戦の殺気をまとっていた。

武具のこすれる音、馬のいななき。霧の中で五千の兵がうごめく気配は、それ自体が異様な圧力を放っていた。

何奴なにやつか! 時もわきまえず、兵を率いて門前に押し寄せるとは、不埒ふらち千万!」

若き小姓の甲高い声が、朝の清冽せいれつな空気を切り裂く。

信長の寵愛ちょうあいかさに着た、恐れを知らぬ傲慢ごうまんさ。

秀満は馬から降り、かぶとを締め直した。光秀からの警告が頭をよぎり、その表情ははがねのように硬い。

明智日向守ひゅうがのかみしん明智左馬助さまのすけである!」

秀満は、門の奥にいるであろう「不穏の気配」に警戒しながらも、本来の目的を告げた。

森乱法師らんぼうし様よりのきゅうなお召しにより、上様へ新式の鉄砲を御覧にいれるため、参上つかまつった!」

その言葉に、小姓たちは怪訝けげんに顔を見合わせた。

「鉄砲? 乱法師様から?」

「我らは何も聞いておらぬぞ!」

(当然だ。これは森乱法師の独断)

秀満は内心で舌打ちしたが、今は事を荒立てる時ではない。

だが、小姓の一人が、武装した秀満らを値踏みするように見据え、鼻で笑った。

「夜明けに物々しく武装して押しかけ、鉄砲を見せるとは。日向守の家中は、礼儀作法も知らぬと見える。それとも、備中びっちゅうへ行きたくなくて、駄々(だだ)をこねておるのか?」

「――なっ!」

秀満の後ろに控えていた斎藤利三さいとうとしみつの顔色が、瞬時に変わった。

若輩じゃくはいが、無礼であろう!」

「控えよ、内蔵助くらのすけ!」

秀満が鋭く制する。

だが、この一言は、既に明智の兵たちの鬱憤うっぷんに火を点けていた。

(この若造どもが!)

(我らが主君、日向守様を安土あづちはずかしめ、あまつさえ、この仕打ち!)

長宗我部ちょうそかべへの仕置きの理不尽な反故ほご近江おうみ坂本での、村井貞勝むらいさだかつらとの利権争い。積もり積もった鬱屈うっくつが、小姓たちの横柄おうへいな態度によって、危険な引火点を迎えていた。

「押し問答は無用!」

秀満は、あせりと警戒を声に込めて張り上げた。

「お疑いならば、まずは見せ申そう。この通り、南蛮より伝わりし新式の筒じゃ。とにかく、これを御覧に入れれば済むこと! 道を開けよ!」

「ならぬ! 上様は未だ御寝所ごしんじょである!」

「怪しい奴らだ! 門を閉めよ!」

小姓たちが門を閉じようとし、明智の兵がそれをはばもうとする。

「これだ! これが上様が御覧になりたいという新式の鉄砲だ!」

秀満のかたわらの兵が、焦って桐箱きりばこかられいの火打ち筒を取り出した。包みをほどかれた銃身が、昇り始めた朝日に反射し、白銀しろがねの冷たい光を放つ。

その時だった。

あの傲慢ごうまんな小姓の一人が、ふざけてその銃をつかんだ。

「ほう、これが日向守の『ことわり』か。どれ」

小姓が、訳も分からず機関部カラクリいじる。

カチッ。

「あっ」

――轟音ごうおん

暴発。

予期せぬ轟音が、本能寺の静寂を打ち破った。

小姓の持っていた銃が火を噴き、鉛玉なまりだまが門柱に深く突き刺さった。

火花が散り、門脇に積まれていた藁束わらたばに燃え移る。

一瞬の静寂。

鳥の声も、風の音も消え失せた。

「……き、貴様ら!」

小姓が顔面蒼白がんめんそうはくになり、刀に手をかける。

狼藉者ろうぜきもの! 上様に害を成す気か!」

「違う! 貴様が触ったからだ!」

利三が叫ぶ。

「火が出たぞ! 火じゃあっ!」

恐怖に駆られた別の小姓が、声を張り上げた。

「賊だッ! 明智勢が謀反むほんを起こしたぞ!!」

その叫びが、小競り合いを誘発した。

揉み合う中で、別の兵が持っていた銃が地面に落ちた。

――轟音。

二発目の暴発。

その音は、もはや偶発ぐうはつとは聞こえなかった。

霧の中、寺の外で待機していた明智の兵たちが、一斉にざわめいた。

(門の中で、銃声!)

(小姓どもが、左馬助様を!)

(やはり、異変はまことであったか!)

その、混乱の極みにあった静寂を切り裂き、甲高い声が響き渡った。

「――狼藉者である! 謀反だ!!」

誰の声か。

(黒幕の放った声)

寺のへいの影からか、あるいは兵卒へいそつに紛れていたのか。

だが、その一言は、全ての「理」を吹き飛ばした。

「謀反だと!?」

「やはり、我らをおとしいれるわなだったか!」

「小姓どもをれ!」

「上様をお守りしろ!」(小姓の声)

秀満の「待て!」という声は、怒号どごうにかき消された。

積年せきねんの鬱憤。主君への侮辱。そして、今しがたの二発の「銃声」という動かぬ証拠。

「日向守様に弓引く者を、討ち取れ!」

斎藤利三が、ついに抜刀ばっとうして叫んだ。

「敵は本能寺にあり!」

最早もはや、誰にも止められない。

明智の兵が、雪崩なだれを打って本能寺の門へ殺到した。

「誤解だ! 止めよ!」

秀満の叫びもむなしく、小姓たちは次々と斬り伏せられていく。

「今さら退けば逆賊ぞ!」

誰かが叫んだ。

その言葉が、最後の理性を焼き切った。

混乱の中、誰かが松明たいまつを、先ほど燃え移った藁束に投げ込んだ。

乾いた木材は、あっという間に炎を上げる。

朝霧を焦がす、業火ごうか


【終景 本能寺、炎の理】


丹波路たんばじから続く街道を抜け、光秀の本隊が京の町に入ったのは、午前八時前。

彼は、その音を聞いた。

遠雷えんらいのような、二発の銃声。

そして、人々の絶叫。

「……何事だ。……まさか!」

光秀の顔から、全ての感情が抜け落ちた。

そこへ、血相を変えた伝令が馬を飛ばしてくる。秀満の先鋒隊の者だ。

「申し上げます! も、申し上げます! 門前にて小競り合いが…! 銃声が二発! 寺に、火が、火が!」

光秀は、馬の腹をった。

(違う…! 違うのだ…!)

視界が開ける。

彼の眼前には、すでに煙と炎が立ちのぼっていた。

日の回りが、異様に早い。

京の空があわい紫から、一瞬で炎のあけに変わっていった。

そこに現れたのは、既に紅蓮ぐれんの炎に包まれた、本能寺の姿であった。

空を焦がす黒煙こくえん。燃え盛る伽藍がらん

本能寺のいらかきしみ、柱がぜる。

熱風が吹き、灰が雪のように舞う。

そして、その地獄絵図を囲み、喊声かんせいを上げる、自らの桔梗ききょうの旗印。

光秀の本隊が、先を行く先鋒隊の戦闘を見て、一斉に突入を開始していた。

「謀反だ! 殿(秀満)が討たれたぞ!」

「敵は寺の中だ! 打ち取れ!」

誤解が誤解を呼び、怒りが炎をあおり、全てが制御不能の「喧騒けんそう」と化していた。

光秀は、燃え盛る本能寺を前に、呆然ぼうぜんと立ち尽くした。

馬上で、手にしていた采配さいはいが、小刻みに震えている。

風に混じって、焦げた油と木と、そして血の匂いが漂う。

(……これは、謀反ではない……!)

誰に言うでもなく、呟いた。

けれど耳には、「敵は本能寺にあり!」という、自らの兵たちの叫びが響き渡る。

(誰が最初に言ったのか――兵か、忍びか、それとも何かがささやいたのか。もう誰にもわからぬ)

「見事なご決断にございますな、殿!」

「天下を取る第一歩、まことおめでとうございます!」

後から追いついた家臣たちの、興奮した声が響く。

光秀の唇が震え、声は低く、うめきのように漏れた。

「違う……これは……違うのだ……。」

その言葉を聞きとがめる者はいなかった。

馬上で、光秀は天を仰いだ。

顔にすすが降りかかる。頬に熱が走り、乾いたまなこうるむ。

「止めよ」

声は、れていた。

炎が鐘楼しょうろうみ、寺の鐘が鳴った。

ゴォン、と。

その音は、炎の中でひしゃげ、まるで時が止まり、歴史がひとつ滑り落ちる音のように、泣きながら響いた。

「止めよ!! 止めよ!!」

誰にも、届かない。

信長が求めた「理」の世界は、蘭丸の小さな「野心」、見えざる者の「策略」、そして現場の「偶発」という、あまりにも人間的な要因によって、今、灰燼かいじんに帰そうとしていた。

炎の向こう――。

崩れたへいの陰で、黒い影が一瞬だけ、満足げに微笑ほほえんだ。

黒幕の使者か、それともただの煙の幻か。

光秀はただ、膝を折り、地に手をついた。

指先に、まだ熱が残る灰がまとわりつく。

(誰が、これを望んだ……?)

(この、『理』ならぬ結末を――)

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