7.名前を呼んで
ここ……どこ……?
知らない天井。見たことがあるような、ないような、分からない。
ぼんやり天井を見上げていたら、すぐ右側で音がした。
「セト、目が覚めたのか」
銀色の、髪の人。
綺麗な人だ。女の人かと思ったけど……男の人?
セト……瀬戸。瀬戸歩加。私の、名前だ。
頭がぐらぐらする。私の名前を知ってるこの人は、お医者さん?
「あ、の。ここって」
「イヴニングの第三拠点だ。アーダムが争っていた砦よりももっと奥、イヴニング側にある最終防衛線ってとこかな。ディオニージが僕らの守りを固めるために後退させてくれたんだ」
「イヴ……? アーダム? え、ここ、どこ? 私、あれ?」
びっくりして思わず起き上がる。ぐるぐる目が回る。
記憶が巡る。私、昨日が卒業式で? ううん、もっと、ずっと昔な気がする。私、どうやって過ごしていた? 朝起きて、水を井戸から汲んで? え? 現代で井戸? 蛇口から水が出るでしょ?
「ふ、ぇ、えっ、ここっ、どこっ、おとーさん、おかーさん……っ」
「セトっ、落ち着いて! 大丈夫、大丈夫だ」
「フェデーレ、ここ、どこっ、私、どこぉっ」
そうだ、この人はフェデーレだ。私の養父だ。私、私は今どこにいる? 分かんない。でも分かる。ここは私の家じゃない。家に帰りたいっ!
「フェデー、レっ、くる、くるしっ」
「落ち着いて、息吸って! 吐いて、ゆっくり。そう。ゆっくりだ。吸って、吐いて」
はっ、はっ、と呼吸が浅くなる。分かんない、分かんないけど、フェデーレの言うようにゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返したら、身体から力が抜けた。
「記憶が混乱してるみたいだな。天落香の影響か」
「てんらくこう……?」
「そう。天降り人を落とすお香さ。この場合の落とすっていうのは、性的な意味なんだけど……」
「セイテキ?」
「……セトにはまだ早いかな」
フェデーレが目をそらした。私はむっとする。
フェデーレってばたまにそういうところある。私にはまだ早いって言って教えてくれない。そんなんじゃいつまで経っても、言葉に不自由しちゃう気がするんだけどなぁ。
「んっ、ともかく! セトはそのお香のせいで、高熱が続いていた。今もまだ微熱が続いているから、ゆっくり休んで」
「高熱……どれくらい寝てた?」
「七日。熱が下がらなかったら、命に関わっていたよ。ほんと良かった」
フェデーレが表情をゆるめる。珍しい表情。それくらい心配かけてしまったみたい。
ごめんなさい、と言えばフェデーレは頭を撫でて、気にするなと言ってくれた。優しいな、フェデーレは。
乱れたシーツをお腹の上からかけられる。私はもぞもぞと居心地のよい体勢を探した。よし、この体勢なら寝やすい。
「フェデーレ。私たち、どうなるの? ここ、イヴニングなんだよね。アーダムはどうなった?」
「……さっきも言ったけど、セトはまだ熱がある。この話は熱が下がって回復したあとにしよう」
「でも、気になって」
「じゃあ、これだけ。もうすぐ戦争は終わるよ。今、壊滅寸前のアーダム側の砦へ戦線放棄の勧告をしてる。それが受け入れられれば、イヴニングの勝ちで終戦だ」
わぁ……私が寝ている間に、イヴニングが優勢になったんだ。壊滅寸前って言ってるし、アーダムにはもう勝ち目がないところまで来てるのかな。
そもそもこの戦争は、アーダムからイヴニングにふっかけた戦争だ。皇帝が変わると一度は戦争をしかける風習みたいなものがあるらしくて、アーダム帝国の歴史では何度もイヴニング第何次戦争みたいなのがあるらしい。今回のは第八次戦争だったかな。
アーダム帝国は海が欲しいらしい。だから海に面するイヴニング王国に攻撃をしかけるけど……イヴニングの軍事力は小国なのに防衛に長けていて、何回やっても負け戦続き。
そして今回も例に漏れず、負けたというオチだ。
「この悪習を止められたら良かったんだけどね。僕はほんと、無力だったよ」
フェデーレがアーダムの皇帝によって追放されたのは、まさにこの戦争の悪習を止めるためだったらしい。フェデーレの父親が、戦争反対勢力に加担し現皇帝と対立。その中で、現皇帝側について、反対勢力が無力化されたあとに説得できるような立ち位置をフェデーレは確保したかったらしい。
結局は説得虚しく、事故に見せかけ足の腱を切られ、国境近くに追放。その頃にフェデーレは私を拾ってくれた。
話しているうちに、混乱していた記憶が一つずつ整理されていく。大丈夫。思い出せる。私は何者で、ここはどこなのか。大丈夫。落ち着けばちゃんと理解できる。ここはもう安全な場所なんだって認識できる。
でも、もう一つだけ。
これだけ聞いておかないと、私は安心して眠れない。
「あの人は……将軍はどうなった?」
「あー、まぁ、黙ってても知られるか……。……死んだよ。だから戦線放棄の勧告をしてる」
そっか。
それなら、いい。
もう怖い人がいないなら、もう、いいや。
「セト? 疲れたかい」
「うん……。眠くなっちゃった」
「いいよ。ゆっくり寝な」
うとうとと微睡む。
額に乗せられたフェデーレの手のひらは、冷たくて心地良い。
私はまたすとんと意識を手放した。
「……、………………」
「……………………、…………!」
誰かの話し声がする。
まだ眠いけど、ゆっくりと瞼を開く。
銀色の髪と黒色の髪。フェデーレと……。
『……おとう、さん』
「セト!」
「あちゃー、起こしちゃったか」
黒い髪と、黒い瞳。逞しい体に、安心させてくれるようなほっとした表情。
ぽろ、と涙が落ちる。
『おとうさんっ、おとうさんっ!』
「ぬぁ!? どうしたセト!?」
『ちがうっ、セトじゃない! 歩加、歩加だよ、お父さんっ』
がばっと起き上がって、私はお父さんに抱きついた。
大きい身体。太くて逞しい腕。ちょっと若い気もするけど、お父さん。この人は、私のお父さん。私を守ってくれる人。
「セト、落ち着いて。こっち向いてセト」
『いや! 離れない! お父さんと離れない!』
「セト、ゆっくり話して。僕の言葉を聞いて。僕の言葉を真似できる?」
フェデーレがむりやり私の顔を自分へ向けさせる。私はフェデーレの言葉を咀嚼して、自分の舌の上で転がした。
「まね……でき、る」
「そう。よし、いい子。セト、腕もゆっくり離して。ディオニージが困ってる」
「ディオニージ? 誰?」
「……あー、後遺症が、こんなところに」
フェデーレが天井を仰いだ。後遺症? 何が? 誰が? 何を言っているの? 分からない。考えようとすると、ずきずきと頭が痛む。
「セト、頭が痛むのか」
「へい、き……。それより、お父さん。お父さんもセトだから、セトって呼ぶのはおかしい。ちゃんと、歩加って呼んで」
「アユカ……? どういうことだ」
「私の名前。アユカ。お父さんがつけてくれた名前。大切な名前なのに……アユのこと、忘れちゃったの……?」
目の前が歪んだ。こんもりと涙が目もとに溢れてくる。
お父さんが、慌てたように私の目元を拭ってくれた。大きな親指。無骨で、ちょっとかさついてる。……少しだけ違和感があったけど、私はそれを無視した。
「わー! 泣くな! アユカと呼べば良いんだな!? な!?」
こくりと頷いてあげる。お父さんなんだから当たり前だ。その当たり前ができなくてどうするんだ。
ちょっと拗ねたように唇を尖らせる。するとお父さんがおろおろした。うちのお父さんってこんなんだっけ……? 記憶の蓋がかぱかぱ開こうとしてる。でも蓋を開けたくなくて、私はその蓋に重石をしてしまった。
この人は私のお父さん。
私を守ってくれるお父さん。
私と同じ。私と同じ色。天降り人は、黒髪、で。
「う、ぅ……っ」
「セト、横になって。痛み止め効くか……? 調合してくるから、ディオニージ頼んだ」
「待てっ、この状態の彼女を置いて行くのか!?」
「僕がいない間、父親に立候補してたんだろ。本望じゃないか」
フェデーレが何かおかしなことを言っているような気がするけど、頭が、痛い。割れそうなぐらいガンガンする。なんだこれ、なんでこんなに痛いんだ……っ!
『頭痛いっ、頭痛いよ、お父さんっ』
「っ、フェデーレ、セトが頭を抑えてる!」
「分かってるってば! すぐに薬作ってくるからっ」
フェデーレが部屋から出ていく。
やだ。
やだ。
どこにも行かないで。私を置いて行かないで……っ!
「大丈夫だ、大丈夫だ。ほら。眠るといい。な?」
『やだ、お父さん、フェデーレがどこかに行っちゃう! ……違う、どこか行くのは私? 私、牢屋にいれられ、て』
耳鳴りがする。は、は、と呼吸が浅くなる。
ひぅ、と喉を引きつらせながら、お父さんに抱きつく。
怖いよぅ。あの男は私に人を殺すための知識を寄こせって言った。私にそんなものないのに。でも、人を殺すための方法を考えないと、フェデーレが殺される。だから私は考えないと。人を殺す、方法。人って案外、簡単に死ぬんだ。手足が一本でもなくなれば、血が沢山出れば、心臓を一突きすれば。
私がちゃんと話さないと、フェデーレがそうなる。フェデーレが痛い思いをする。フェデーレが死んじゃう。
「やだっ、フェデーレ、やだ、フェデーレぇ……っ」
「くそっ、言葉が混ざってて聞き取れん! セト、落ちつ……」
「ちがうぅっ、歩加っ! 私は瀬戸歩加だよ、お父さんっ」
「わー! 泣くな! お願いだから泣かないでくれっ」
お父さんが叫ぶと同時に、私をぎゅうっと抱きしめてくれる。私を包んでくれる大きな身体。どくどくと力強く脈打っている心臓。ちょっと汗臭い香り。
お父さん。
お父さん。
お父さん。
心臓の音を聞いていたら、ちょっとずつ昂っていた感情が抑えられて。
ぎゅうっとお父さんにしがみつく。明滅を繰り返している思考が、これだけは言わないと、と私を急かす。
「わたし、おとうさんに、あいたかったの……」
「……そうか」
「ねぇ、お母さんは? お母さんは、どこ? お母さんもこっちに来てるの?」
「うぐっ。……お母さんは、そう、だな。えぇと……まだ、いない」
「そっか……お母さん、向こうで寂しいかな。私も、お父さんも、こっちに来ちゃった、か、ら」
どくどくと規則正しく響く心臓の音は、私を眠りへと誘う。
まだ、起きていたいのに。
まだ、お父さんと話していたいのに。
だけどまだ、私の身体は休息を求めているみたい。
腕から、全身から、力が抜ける。
でもお父さんは、私の身体をぎゅうっと抱きしめてくれて。
「……怖い思いをさせて、悪かった」
温かいな、って思った。