32 崖の上の竜王様
こちらを見下ろす丘の頂点には、大きな山羊に跨る竜王が髪を靡かせていた。太陽を背に表情は窺えないが、そのシルエットは堂々としていて、まるでこの地の神話から現れたような絵だった。
「ルシアン様!!」
不安や罪悪感が吹き飛んで、ミランダは再会の感激で胸が震えていた。
ルシアンは山羊を操作して軽々と丘を下ってきた。
様々な竜に乗って空を飛ぶルシアンにとって、動物の騎乗はお手のものだ。
だが、ルシアンが単独で登場したのはカシュカと集団にとって予想外だったようで、慌ててミランダを隠すように塞いだ。
男たちの肩越しに見る山羊の上のルシアンは無表情だが、苛立っている様子だ。カシュカは臆しながらも前面に立った。
「竜王様、お、お一人でここへ? シダ様はどうされたのです!?」
「モタモタと遅いから置いて来た。山羊はこの場所に通い慣れているようだから案内させたのだ。そんなことより」
ルシアンは山羊から飛び降りると、カシュカを睨んだ。
「俺の花嫁を攫うとは。あらゆる覚悟はできているのだろうな?」
あらゆる、という言葉に報復の手段に種類がある含みがあって、集団は騒ついて体を仰け反らせた。
山の向こうに落ちかけた赤い夕陽はいつの間にか灰色の厚い雲に覆われて、腹の底を抉るような重低音がゴゴゴと山間に轟いた。
ミランダは安堵で膝が崩れそうなのを必死に堪えていた。気丈に我慢していた涙もあっという間に溢れたが、首元に突然ヒヤリと冷たい感触が当たって、我に返った。左側に立つ男が、ナイフの刃をミランダの首に当てたのだ。
「う、動くな! 一歩でも動いたら、女の首を掻き切るぞ!」
切羽詰まった男の手は容赦なくミランダの首にナイフを押し付けて、ミランダは恐怖で背筋が凍った。
あのキッチンでの大流血がフラッシュバックして、奥歯がガタガタと震えて情けない声が出てしまう。
「ひっ……ひいぃっ……」
ルシアンは無表情のままだが、黄金の瞳が竜の如く昂っていた。
「貴様、俺の花嫁に……」
その後の語尾が聞き取れないほどの轟音が頭上で鳴り響き、空は点滅するように帯電していた。
それと同時に背後から山羊の集団の足音が近づいて、シダと仲間たち五人ほどが追いついて到着した。
「シダ様!」
カシュカはほっとした表情になって、改めてルシアンに頭を下げた。
「竜王様、どうかお鎮まりください。我々は竜神話の信奉者です。奥様を傷付けるようなことはしませんから! 貴方様にご協力をいただきたいだけなのです」
ナイフを突きつけられているミランダにとってまったく信憑性のない台詞だが、この状況では自分を人質に取るしか彼らに手段がないのは理解していた。ナイフの脅しがなければきっと対話さえままならずに、全員が落雷によって黒焦げになっているはずだ。もしくは疾風によって人体が切断されているかもしれない。
ミランダは自分の言動一つが恐ろしい結果を招く気がして、恐怖で喚きたい衝動を噛み殺した。
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