8 不穏な調理の始まり
キッチンでレシピ本を抱きしめたまま、ミランダは再び硬直していた。
整然と並んだ調理器具、大きな釜戸に、様々な形とサイズのナイフ。膨大な量の調味料の小瓶。
どれを何に使うのか、さっぱりわからない。
「えっと……火はどうやって起こすのかしら?」
今朝方、プルートを抱えて呟いた謎をまた呟いている。
「いいえ、その前に材料だわ。材料を揃えなきゃ」
本を開いて必要な食材を確認していると、正面の窓がコツンと鳴った。顔を上げると、窓の向こうに大きな緑の顔がある。うるうるした愛くるしい瞳がミランダを見つめていた。
「タウラス」
ミランダは少しほっとして、窓に近づいた。
「ごめんなさいね。野菜の皮はまだ無いの。料理が終わったら持って来てあげるからね」
野菜の皮が好きなタウラスはおねだりしているというよりも、ミランダの行動を不思議がっているようだ。盛んに首を傾げている。
もしかしたら、ミランダの動揺を感じ取っているのかもしれない。ミランダは「大丈夫」という気持ちを込めてガラス越しにタウラスを撫でた。
「赤カブ、きのこに、胡桃、杏? それに唐辛子……」
パズルのように考えてもいったい何ができるのかわからない食材をキッチンの籠や冷蔵庫から集めて、ミランダは大きな鍋を棚から下した。
グワーン!
大きな音を立てて大鍋が地面に落下して、ミランダは耳を塞いだ。
「きゃあ!」
窓の向こうで、タウラスがハラハラとした顔で覗いている。
「お鍋って重いわ。お水も……重い!」
樽から汲む水は重く、床はあっという間にビショビショになっていった。自分でも不穏な調理の始まりだと感じたが、このまま引き下がるわけにはいかなかった。
「それからこの赤カブを薄く切るのだわ」
レシピ本にはまるで紙のように薄くスライスされたカブの絵がある。この大きなカブがこんなに薄くなるとは信じられない。
ミランダはズラリと並んだナイフを前に、直感で一本選んで手に取った。大きな刃のナイフは重くて扱い辛い気もするが、カブが大きいので合わせて選んでみた。
「えっと、葉っぱの部分はいらないから切り落として……薄くスライスしていくのね?」
ミランダは躊躇しながら葉の部分を落とした。思いもよらぬほどスパッと切れて、磨がれたナイフの切れ味に驚いた。
続けてスライスしようと転がるカブを左手で押さえながらナイフを押し込んだその時……。
「痛っ!」
左の人差し指に鋭い痛みが走った。
一呼吸おいて、まるで心臓が指先にあるみたいに脈打ちながら、真っ赤な血が溢れ出していた。
「きゃーーっ!?」
信じられないほどの勢いと量の血が流れ、ミランダの服もキッチンの台も鮮血で染まった。こんなに深い切り傷を負ったことがなかったので、ミランダはショックで貧血を起こし、床に崩れ落ちた。
「クエッ、クエーッ!」
タウラスの大きな鳴き声がキッチンの窓の外から聞こえてくる。音圧でガラスがビリビリと震えていたが、ミランダはもう「大丈夫」と言う余裕がなくなっていた。
「あ、あ、どうしよう、血を止めなきゃ」
誰もいない竜王城でミランダは一人、パニックに陥った。
どうやって止血するのか、どこに薬箱があるのかもわからず床に座り込んだまま、流れ続ける血を凝視していた。
「こ、こわい。死んじゃう。竜王様……ルシアン様!!」
まるで神様に拝むように泣きじゃくった。
脳内の冷静な部分が、自分の愚かさに呆れているのがわかる。
(なんて情けなくて、おぼこいの? 一人で何もできない未熟な自分は、やはり竜王の花嫁に相応しくないのでは? こんな有様では、ハーレムの美女にルシアンを取られても仕方がない)
自分を責め立てて追い詰めるのもまた自分で、ミランダは切った指を押さえながら床に伏せて呻いた。
幼児のように泣き喚く自分と、それを叱責する自分が分裂して騒ぐうちにも、鮮血は大量に流れ続けた。




