29 船酔いの花嫁
ミランダはもう、一歩も動けなかった。
まるで長い船旅の後のように、竜の揺れに酔っていた。
自分が付いていくと言ったからには弱音を吐かないように気を張っていたが、竜族の森に帰って竜王城に着いた途端に、腰が砕けてしまった。雷の衝撃で目がチカチカして、耳鳴りがやまない。
ルシアンは花嫁の不調にオロオロとして、船酔いが良くなる茶を煎じると言って、ビショ濡れのままキッチンに飛び込んだ。
「お妃様、大丈夫ですか? 雨風に晒された上に、かなり揺れましたからね」
アルルは心配して、山ほどのタオルを差し出している。
ミランダはタオルに包まって、ソファで横になっていた。
「アルル君は大丈夫?」
「僕や竜王様は雨にも揺れにも慣れっこですから」
「すごいのね……」
「お妃様の方がすごいですよ。人間なのにこんな蛮行に付き合って。それに……」
アルルはキッチンの方を見て、声を潜めた。
「お妃様が社会学をお勉強されている方で良かったです。竜王様は極度の人間不信なので、お妃様が止めなければ、好戦的なザビ帝国をあのまま消滅させてもおかしくなかったです」
「そんなまさか……」
と言いつつ、積み木崩しのように城を崩壊させる雷には、相当な怒りが籠もっていたのは確かだった。
「ミランダ!」
涙声でルシアンがお茶を運んで来て、アルルは下がった。
さっきまで嵐を振るっていたのが嘘のように、ルシアンは打ちひしがれていた。
「あああ、やっぱり連れて行くんじゃなかった。花嫁を酷い目に合わせてしまった」
酷い目にあったのはザビ帝国城ですよ……という言葉を飲み込んで、ミランダは微笑んだ。
「慣れない嵐に驚いただけです。ルシアン様、まずはお身体を拭いてください」
「俺の身体など、どうでもいいのだ。どうせ風邪などひかないのだから」
ミランダは柑橘やミントが香るお茶を受け取って、爽やかな湯気をゆっくり吸い込んだ。
「いい匂い。気持ちがスッとします」
ルシアンは床に蹲み込んで、こちらを涙目で見上げている。まるで濡れた子犬のようでミランダは切なくなっていた。
お茶をひと口飲んでサイドテーブルに置くと、タオルをルシアンの頭に被せた。
「お身体が冷えてしまいますから。ほら、角もこんなに冷たい」
「……うむ……」
ルシアンは複雑な顔をした後、タオルで髪を拭いてもらう気持ち良さに目を伏せた。
「俺は風邪もひかないし、怪我もすぐに治る体質だ。だが花嫁の具合が悪いと、俺は元気が無くなる」
自分でも戸惑っているであろう感覚を素直に告白していた。
「それは私も同じです。元気が無い竜王様を見ると切ないですから」
「じゃあ……一緒なのか」
「はい」
澄ました顔をしているが、やはり口角が上がるのを隠せないようで嬉しみが溢れていた。
ミランダは胸がキューンと締め付けられて、タオルごとルシアンの頭を抱きしめた。
「ルシアン様は可愛いですね」
「か、可愛い? 俺が?」
「ええ。とても」
ミランダの胸に抱かれながら、ルシアンの冷えきった頭が温かくなっていくのがわかる。ルシアンは顔を伏せたまま小声で呟いた。
「ミランダは、敵国とはいえ人間にあんな攻撃を仕掛けた俺が怖くないのか?」
「嵐や雷は恐ろしかったけど、ルシアン様は怖くありません。だって、ベリル王国や北の地を救うためにしてくださったことじゃないですか。それに、滅ぼさないでという私のお願いも聞いてくれました」
ルシアンは戸惑いながら心中を吐露した。
「俺は……幼い頃に人間達から裏切りや弾圧にあって、人が信じられなくなった。祖国から逃れてもザビ帝国のように侵略や戦争をする国ばかりで、人間の社会に失望もしていた」
顔を上げてミランダを見つめるルシアンの瞳は熱を持って、金色が色濃く揺れている。
「だがミランダは、現実から目を背けずに弱者を思いやれる優しい人間だ。俺はそんなミランダが好きだし、ミランダのためならもう少し……人間を信じてみたいとも思える」
「ルシアン様……」
怒りのままに一国を滅亡させようと考えるほど、ルシアンの人間への不信は強い。祖国のユークレイス王国でどれだけ酷い目にあったのかと考えると、ミランダの胸も怒りと悲しみで苦しくなっていた。それでも人間との関係をもう一度見つめ直そうとしてくれるルシアンに、ミランダは人として、竜族への深謝の気持ちでいっぱいになっていた。
ルシアンの傷ついた心が少しでも癒されるよう願いを込めて、ミランダは夜空色の髪と額に優しく口付けた。




