26 悪意のモヤモヤ
アルルはスピカを操縦しながら、焦って下界を見回している。
捕らえたスパイの男から隣町の井戸へ向かった相棒の特徴を聞いたが、それはこの町の雑踏のどこにでもいる格好で、特徴がまるで無かった。
「農民の服装で手ぶらだなんて、山ほどいますよ!」
アルルの言う通り、露店の並んだ町には野菜を売る者、買う者、歩く者で賑わっており、誰も彼もが似たような格好をしている。
「町には井戸が幾つもあります! どの井戸に毒を入れるつもりなのか、本人も手当たり次第だと思います」
アルルの焦りはミランダにも伝わって、蒼白になっていた。
ミランダを抱えているルシアンは舌打ちをした。
「毒の効果を確かめるために事前に井戸に投げて実験するとは、鬼畜か? ロクでもないな」
ミランダの目には町中を走る子供たちや、赤ちゃんを抱いた女性、平和にお茶をしている老人たちが見える。
井戸に毒が投げられたら、この町の人たちは只では済まないだろう。地下水の汚染が広がれば、ベリルの地は甚大な被害を受ける恐れがある。
透明のまま上空から3人で目を凝らすうちに、ミランダは大きく身体を乗り出して、夢中で実行犯を探した。
「ミランダ、危ない! 落ちてしまうぞ!」
ルシアンの注意に、ミランダは大声で返した。
「私が落ちないよう、しっかり支えてください! アルル君! 少し高度を落として、道なりに偵察して!」
「は、はい!」
スピカは透明のまま町の人々の頭上を舐めるように滑走し、ルシアンはミランダの腰をしっかり掴んで、ほぼ落ちかけている身体を支えた。
ミランダは全神経を集中させて、あの感覚を思い出していた。
貢ぎ物から呪文を見つけた、あのモヤッとした感覚を。
(魔力でも、能力でも何でもない。私は呪文に込められた悪意に反応したんだわ)
懺悔室のフィーナに。昨晩の山賊たちに。そしてさっきのスパイの男に、ミランダは呪文と同じモヤモヤを感じていた。まるで黒い炎が頭上に燃え上がるように、悪意を持った物も人間も、モヤモヤを纏っているのだ。
それは冤罪という悪意によって陥れられ、大量の呪文を目の当たりにしたミランダが目覚めた、悪意に対するアレルギーのような物なのかもしれない。
「あれ! あいつよ!」
群衆の中で、一際大きな黒い炎が見える。
農民の服装をした手ぶらの男が、モヤモヤと悪意の炎を頭上に燃やして歩いていたのだ。
ルシアンはミランダを強い力で引き上げると、アルルに押し付けた。
「花嫁を頼む」
直後に、スピカの背中からルシアンは飛び降りた。
そのまま男の背後に近づき接触した後、男は一瞬で意識を失って、前方に倒れた。
ミランダは男が確保されたのを確認して、スピカの上で腰が抜けるようにへたり込んだ。
アルルは喜びつつも、訳がわからずに振り返った。
「お妃様! 何故、あいつだとわかったんです⁉」
「モヤッとして……アレルギーが出たんだわ」
アルルはますます意味がわからないまま、スピカを着陸させるために林に向かった。
「あ~、危なかった。俺は焦って、首を斬り落としちゃうとこだったぞ」
スパイのアジトに戻ったルシアンは、縛り上げた2人の男達の前で自分の手を眺めている。
首に手刀を落とすか、鎌鼬を出すのか咄嗟に間違えそうになったようで、男達もミランダも、ゾッと肝を冷やした。
テーブルの上には、3つの小瓶が並んでいる。
井戸に投入されるはずだった毒の小瓶は男のポケットからすべて回収されて、井戸水の汚染実験は未然に防ぐことができた。
ルシアンはミランダの腰を両手で抱えると、高い高いのポーズで頭上に持ち上げた。
「俺の花嫁は凄いぞ! 悪意のモヤモヤを探知するんだからな。可愛い可愛い、探知犬だ!!」
頬擦りをして喜んでいるルシアンを、アルルは呆れて見上げている。
「竜王様。今はそれどころではないですよ」
「ふん。これどころ以上に大切な物があるか」
ルシアンは不満そうにミランダを床に下ろすと、スパイの2人を見下ろした。
「お前らはこれから竜族の森に連れ帰って、竜の洞窟に放り込む。まだまだ聞きたいことが山ほどあるからな。がんばって生き伸びてくれ」
竜の洞窟という未知なる牢は恐怖を煽って、男達を震わせていた。
スピカは2人の男を両手で持ち、背中にアルルとルシアン、ミランダを乗せて、竜族の森へ帰っていった。
「これで残るは大火事と戦争ですね」
アルルはノートを開いて確認している。
「放火を実行する3人目の居所はもう掴んでいる。今夜捕まえて、洞窟に投げるだけだ」
ルシアンの言葉に、ミランダは胸を撫で下ろした。これでベリル王国に起きるはずだった災いは、すべて未然に防がれることになった。
ミランダはルシアンに、最後の心配を聞いた。
「ルシアン様。ザビ帝国の北の地への侵攻を、どうやって止めるおつもりですか?」
「災いには災いを、だ。花嫁よ。最後の蛮行にも付き合うか?」
ミランダは頷いた。
「私は竜王の花嫁です。竜王様のすべてを見守って、お力になりたいのです」
「花嫁が隣にいてくれるだけで、俺は百万馬力だ」
頼もしく笑う竜王の胸に、ミランダは寄り添って頭を預けた。