プロローグ
西田 冬芽 24歳。
この春、働くことをやめました。
ミジンコ程に残ったプライドを守るために一応詳細に伝えるが、無職になった訳では無い。やんごとなき理由により休職届を出したのだ。
桜の絨毯を踏みしめながら物思いにふける。
この色を見る季節はいつも煩わしい過去を捨てて、新しい未来に向かって気分を切り替えられていた。だが今は、ただただ終わりへと向かっている気分だ。
鼻がツンとして、喉から何かがせり上がってくる。
慌てて顔を上げ、買ってきた胃腸薬のドリンクを一気に飲み干した。
「おっ、悪くない。」
生薬系かと思えばスッとした清涼感ある味で、店員にいきなりおすすめされ流されるがままだったがいい買い物だ。
今度、通販で探してみるか。
断じて、レジにいた若い女性店員からレシートを受け取る際に手渡しではなくトレーに置いて渡され、キモがられているのではと勘ぐって傷ついたからとかそういう訳では無い。
断じて違う。
......いけない。
夜になると、自傷気味になってしまう。早く帰ろう。
ヤケ買いしたゲーミングパソコンで遊び倒したり、マイツベで動画を見漁るのもいい。とにかくこんなクソッタレな現実からさっさと逃げてしまおう。
悶々とする思いを振り切って、自宅の前までたどり着く。
鍵をポケットから探していると、どこからともなくいい匂いが漂ってきた。
小刻みのリズムと味噌のいい香り。
こんな夜中に食事の準備とは珍しい。遅くまで仕事をして、自炊までしてるのかと尊敬の念を抱きつつも鍵を開けドアを開けた。
フワッと強くなる先程の香り。
おかしい。
万年、栄養補助食品に生かされている俺の自宅に、熱々の味噌汁や炊きたてのご飯などのThe食事なんてあるはずがない。ましてや、代わりにキッチンに立ってそれらをこしらえてくれる制服にエプロン姿の可愛い女の子なんているはずが......
「......あっ、えっと。おかえりなさい。」
いた。
「えっ、あっ、なっ......ただいま......です?」
ちょっと待ていやいやいやおかしいだろ。
なんで女の子が部屋にいる?
キッチンに立っている?
エプロンを着て料理を作っている?
あれか。いつの間にか、知り合って仲良くなって、付き合ったりなんかしちゃったりして、同居とか始めちゃってたか。
ついに俺にも春きちゃってましたか?
いや違うだろ!
百歩夢を見て彼女がいたとしよう。
でも制服は、女子高生はマズイだろう。
未成年をこんな夜中に部屋に連れ込んだところをご近所さんに見つかれば、通報必至。
ピロリロリン♪ピロリロリン♪
「ヒッ......」
光の速さで玄関に入り、ドアを閉め目玉が覗き穴に接触する勢いで周囲をくまなく確認する。
人影はない。通話の声も聞こえない。
万事休す、か?
「あの、スマホ.....」
「ヒエッ!通報は勘弁して下さい誤解なんです俺は!俺は!!」
「落ち着いて下さい。通報なんてしませんから。」
恐る恐る顔を上げると、目の前にはやっぱり見知らぬ女子高生。
艶やかな黒髪を一つにまとめ、前髪がピンでとまっているため顔がよく見える。戸惑いがちに下がった眉は自然に整えられていて、長いまつ毛と丸くて大きな黒い瞳、整った鼻筋に、つるんとした程よく血色のいい唇。
化粧っ気がないため少し幼くも見えるが、素材がいいのか野暮ったくは見えず素直に可愛いと思った。
「あの、大丈夫ですか?何やら手違いがあったようですが、驚かせてしまってすみませんでした。」
ぺこりと軽く頭を下げ謝罪をする彼女からは、悪意は感じられない。少なくとも、逮捕endは回避できそうだ。
「いえ、こちらこそ。取り乱してしまって申し訳ないです。」
「いえいえ、こちらが。」
「いやいや、こちらが。」
......
ぐぅ〜〜〜
呑気な腹の虫が気まずい空気の中呑気に鳴き出しす。
咄嗟に腹を押え黙らせたが、どうやら別の虫も鳴き出してしまったようだ。
「とりあえず、ご飯食べませんか?」
照れくさそうに頬をかくその仕草からは、眩しさを覚える程彼女の純粋さが溢れていた。そんな子に気を使わせてしまった。羞恥心と情けなさで頭は熱くなり、背筋には冷や汗がたれる。
落ち着け、俺。
大人としての威厳を見せろ。年上らしく経験値で失敗をカバーするんだ。社会の荒波にもまれながら、幾多の危機を乗り越えてきた俺なら分かるはずだ。こういう時の最適解は、
「異存ありません。」
同調。
これが俺の精一杯だった。