57 秘密の勉強会
休日の昼下がり。
俺は昼食の食器を片付け終えると、エプロンで手を拭きながらリビングに戻る。
激辛高菜チャーハンを貪ったばかりのトト子が、iPadを眺めながらソファにぐんにゃり伸びている。
「トト子、今から胡桃んちでテスト勉強するけど、お前も行くか?」
「ほっといてくれ。私はテスト終わったし、自由の身を満喫してる」
そういや、こいつテスト終わったばかりだったな。
いいな、俺も一週間だけ中学に転入できないだろうか。
トト子の奴、足をパタパタさせながら熱心に何を見てるんだ。
「さっきから何見てんだ?」
「んー、なんか旅行者系Youtuberの動画」
「へえ、そんなのあるんだ」
トト子の迷惑そうな視線を無視して画面を覗き込む。
流れているのは東京都の離島を巡る旅人の動画だ。
小笠原諸島を始めとして東京都管轄の離島は意外と多く、フェリーだと一晩かかる航路もザラである。
……実を言えば、親父が仕事で赴任しているのもその内の一つだ。
ぼんやりと離島動画を眺めているトト子の横に腰かける。
「なんだお兄、近いぞ。家庭に余計な緊張感を持ち込むな」
「……なあトト子。やっぱお袋に帰ってきてもらった方がいいか?」
タブレットを握るトト子の手がピクリと震える。
「……それじゃ、お父が一人きりになるだろ。あの人、割とメンタル紙切れだし」
「だってトト子もいい加減寂しいだろ」
「大丈夫。私にはお兄がいるし」
「え?」
「……チッ」
小さく舌打ちをすると、クッションに顔をうずめるトト子。
「今のは忘れろ。幻聴だ」
「なにお前。いまスゲエ可愛いこと言わなかったか」
「待て。そういう意味じゃない、口が滑っただけだ。お兄、調子に乗るなよ」
「そうかそうか。お前昔っからお兄ちゃんっ子だったもんな。枕持ってきたら一緒に寝てやるぞ?」
「気色悪いこと言うな。クルちゃんに告げ口するぞ?」
「……あいつまで枕抱えて押しかけてくるから勘弁してくれ」
トト子のやつ。一見生意気盛りだが、やっぱり母親が近くにいないのは寂しいのだ。
俺はカレンダーに目を向ける。
「じゃあさ。月末の連休、父さんたちの所に遊びに行こうか?」
俺の提案に、トト子がクッションから片目を出してジロリと見てくる。
「……いいのか?」
「飛行機使えば、午後には着くだろ」
「金はどうする」
「なんかあった時用に、まとまった金額を預かってる。こんな時こそ使うべきだろ」
「おお……!」
トト子はガバリと身体を起こすと、俺にiPadを突き付ける。
「お兄、じゃあここの岬から夕焼けを見るのはどうだ! 本土ではこんなの見れないぞ」
「いいな、みんなで見ようぜ」
「ああ、このYoutuberは秘境だとか言ってるが、実はすぐ近くまで車で行けるんだ」
明るい顔で動画を眺めるその顔は、まるで普通の無邪気な中学生だ。
……いや、俺の妹はそもそも普通のJCだが。
「じゃあ親父に車を出させようぜ。お袋にもたまには弁当くらい作らせよう」
「いや、それ食うくらいなら私が作る。二人とも元気にしてるかな……」
トト子がしんみりと呟いた余韻が消える間もなく。
夕焼けをバックにした動画が終わり、次の動画が続いて再生される。動画から、やたら明るい声が響いてくる。
『東京都の離島に飛ばされたアラフォー夫婦が!』
『調味料と寝袋だけ持って、2泊3日のサバイバルをしてみました!』
さっきとは違う配信者みたいだ。今度は画面一杯に青い海と砂浜が映っている。
あれ……? でもなんだ。この聞き慣れ過ぎた声。
トト子の身体がカタカタと震えだす。
……なんだろう。俺の顔からも、なんか変な汗が流れ出してきた———
「お、お兄……この声、ひょっとして……」
「親父とお袋っ!」
嗚呼、聞き間違いであってくれ。
そんな兄妹の願いもむなしく、画面に物心つく前から見慣れた二人組が現れる。
『はい、今日はですね。コンビニどころか水道も無い無人の海辺で、サバイバル生活をしてみようと思います!』
『ここは渡し舟じゃないと出入りできないので、二日後の迎えが来るまで逃げられないんですよ! みなさん、さっそく夫婦の危機が訪れました!』
『なんでだよ!』
……なんだその寒い寸劇。フリー素材のおどけた効果音が身に染みる。
「お母……お父……なにやってんだ……」
市ヶ谷家の父と母、元気そうなのは良く分かった。
しかも親父、栄転とか言ってたのに飛ばされてたのかよ……
「ま、まあ、あれだ。何気にチャンネル登録数は4ケタあるし。結構人気あるじゃん」
「……むしろ困る。神よ、クラスメイトにだけはバレないようしてくれ。代わりにお兄の魂をくれてやる」
「勝手にやるな」
動画を見ながら固まっているトト子の頭を撫でてやる。いつもなら罵詈雑言が飛んでくるところだが、今回ばかりは無抵抗だ。
……これはホッペにチューくらいならいけるかもしれん。
「なんだこの右上のプレッシャーは……? お兄、変なことしようとしてなかったか」
「……そんな訳ないだろ。それよりトト子、二人が元気そうで良かったな」
「良かった……?」
トト子は今年一番のジト目で俺を睨みつける。
「お兄、良かったと言ったか……?」
「えーと……病気とかよりはいいよね? ね?」
俺の気弱な問いかけにトト子は小さく首を振る。
「お兄……肉だ」
「え?」
「非常用資金で高い肉を買うぞ。単位はキロだ」
「……飛行機代は?」
「知るか。プロペラもげろ」
……トト子がグレた。
とはいえグレたくなる気持ちも分かる。
久しぶりに見た両親が微妙に寒いYoutuberになっているとか。俺だってソシャゲの10連ガチャを回しかねない衝撃だ。
「えーと、俺そろそろ胡桃んち行くけど……大丈夫か?」
「好きにしろ。私はこれから糖質と脂質にまみれた週末を過ごす予定だ」
早くもうまい棒を齧り始めたトト子を横目、俺は参考書の詰まったカバンを肩にかける。
「じゃ、胡桃んとこいるから。なんかあったら電話しろ」
「……お兄」
トト子はうまい棒で俺を指す。
「なんだ?」
「クルちゃんに手を出すなよ」
「出さねーって」
「じゃあ手を出されるなよ」
トト子よ……それは保証できん。
——————
———
「さっき、三角関数教えただろ? この場合は……だから図形に目と口を描くなって」
「でもほら。目の中にキラキラ描くと、萌えキャラっぽくない? 達也、この系統好きでしょ」
「あ、意外とありかも———って、真面目にやれって」
定期テスト直前の勉強会。
……とは名ばかりの胡桃のお世話係である。
胡桃の部屋。ちゃぶ台を囲んでテスト勉強のはずだが、こいつ全く集中する気配が無い。
「あのな、おばさんにお前の勉強見るように頼まれたんだからな。そういや前回のテストはどうだったんだ?」
胡桃はスイッと目を逸らす。
「えっとぉ……悪くもなく……良くもなく……雲は流れて……風は谷を渡る……」
何故ポエマー。
「つまり悪かったんだな?」
「……そうでもないよ。学年200人の内……158番」
……微妙だ。
確かに悪いが絶望的なほどでは———
「……いや、思ったより成績悪いな。お前、中三の頃はもうちょい成績良く無かったか?」
「あの時は受験に備えて頑張ってたしー」
そういや胡桃の奴、3年生になってからやたらと頑張って勉強していたよな。
おかげで胡桃は今の学校に受かったわけだが、付き合わされた俺がそのせいで今の高校にしか———っと、人のせいにしちゃいけない。
俺は嫌な考えを慌てて振り払う。
「大学進学するつもりなら、今から基本だけでも押さえとこうぜ。このままじゃどこにも行けないぜ?」
「むー、中三の頃はたいして成績変わんなかったじゃん。達也はこないだのテスト、どうだったの?」
「こないだの? 確か……17位だったかな」
「じゅっ?!」
胡桃はポトリとシャーペンを落とす。
「なんで私と一緒にダラダラ本読んでただけでそんなにいいの!?」
「いや、普通に勉強したから。お前、テスト前の『全然勉強してない』って周りの言葉、真に受けてやしないだろな」
「え。みんな嘘ついてたの?」
「うん。俺もお前に聞かれるたびに嘘ついてた」
「ズルい! だって順位一桁の人なんて実は存在しない説を採ると、ほとんどトップじゃん?」
「そんな説は無いし、全然トップじゃない。お前も勉強する。少し順位良くなる、小遣い下げられずに済んで、みんな幸せ」
「……お小遣い?」
……しまった、口が滑った。
「えーと、おばさんがこれ以上成績が下がったら小遣い下げるって」
「っ?! 早くそれ言って!」
「小遣い欲しさに小手先の勉強したって身に付かないぞ。少しくらい痛い目見た方が後々胡桃のために———」
「お静かに! 私勉強してるから!」
途端に勉強モードに切り替わる胡桃。
ちょっと寄り目になりながら問題集を凝視する胡桃の姿に、俺は思わず笑いをこらえる。
まあ、やる気になったならそれでいい。
こっちも負けてはいられない。俺はペンをくるりと回すと、テスト範囲の復習にとりかかった。
——————
———
……どれだけ時間が経っただろう。
胡桃は問題集をぱたんと閉じると、呻きながらちゃぶ台に突っ伏した。
「疲れたー 達也、お茶でも飲む?」
「あ、なんか欲しいな。お願いできるか?」
「うん、お姉さんに任せておきなさい。お菓子も持ってくる。お菓子?! やった!」
自分の言葉に興奮したのか。パタパタと急ぎ足で部屋を出ていく胡桃。
胡桃の奴も、最初とは打って変わって真面目に勉強しているようだ。
何気なくノートを覗き込む。さっきは分からなかった三角関数の問題も基本をクリアしたようだ。
ちょっと計算間違いはしてるけど。
「……いや。計算間違い、ちょっとやそっとじゃないぞ」
もしかしてだが。こいつ中学の範囲、大分忘れてるんじゃないか? いやまさか小学校の範囲まで……?
ハラハラしながらノートを眺めていると、隅っこの落書きに目が留まる。
『幸せへのStep! 1 to 10!』
……なんだこれ。今後の勉強計画といったところか。
こんなの書く暇あれば問題でも解けばいいのに。
それはさておき何が書いてあるのか。怖いもの見たさで顔を近付ける。
えーと、なになに……
Step1 ——— まずはChu- から始めよう!
……?
さて、早速訳が分からんぞ。これが一体、テスト勉強になんの関係があるのか。
Chu- ……って、ひょっとして……?
俺がマジマジとノートを眺めていると、
「わきゃっ!!」
大量のお菓子がノートにぶちまけられる。
両手に都コンブを握った胡桃が、顔を青ざめさせながら俺を見下ろしている。
「…………見た?」