56 利根川水系 ~冬の囁き
「達也、見て見て! 1Lの杏仁豆腐だよ? これ、買いだよね、買い!」
続いて買い物に来た業務スーパー。
胡桃が直行した先はデザートコーナーである。
「いや、多過ぎだろ。絶対途中で飽きるって。はい、返そうね」
胡桃が手にした紙パックを棚に戻すと、俺は隣に並ぶ和風のパッケージに目を奪われる。
「1Lの水羊羹………? これは有りだよな」
「えー、達也ばっかしズルい」
「だってさ、お中元でしか食べられない水羊羹が食べ放題だぜ? 余った分でお汁粉とか作れるし」
「じゃあ私も杏仁豆腐買うもん」
「あ、どさくさでレアチーズケーキまでカゴに入れるなよ。どっちか片方にしろって」
俺と胡桃がワチャワチャしてると、背後からふくらはぎに重い衝撃が走る。
「痛っ! なに?!」
「マンゴープリンもお勧めよ。ホイップを乗せるとそれなりに見栄えがするわ」
言いながら、カゴの中に紙パックを投げ込んできたのは利根川だ。
ただでさえ悪い目つきをさらに険しくさせて、俺の顔を下から睨みつけて来る。
「どうも……」
「相変わらず仲良さそうでなによりね。……で、あんたがどうしてここにいるのかしら?」
「いや、あの、今日は偶然……。おい、脛を蹴るなって」
「偶然? あの乳女が氷室先生にまとわりついているのも偶然ってわけ?」
……乳女こと韮澤六実。
やさぐれ司書教諭は完全に氷室先生をロックオン。買い出し2件目の業務スーパーにも当然のような顔をしてついて来ている。
遠巻きに見る二人の姿は、スパイスを品定めする年の差夫婦か愛人である。
怒る利根川に胡桃がぺこりと頭を下げる。
「利根川ちゃん。正直すまんかった。こんなことになるとは思わなかった」
「菓子谷さんまでどういうつもり。いくらあなたでも、話によっては彼氏の半月板がただじゃ済まないわよ?」
「俺の膝、割られるの……?」
「膝の一つや二つ、ケチケチするんじゃないわよ。で、あの女狐はなんだっての?」
利根川の剣幕に、胡桃は涙目になりながら人差し指をつんつんと合わせる。
「あの人はね、私達の中学時代の先生で……ああ見えるけどいい人なんだよ? ちょっと婚期を逃しそうで焦ってるだけで」
「危険人物じゃない! ちょっと、市ヶ谷。あんたどうにかしなさいよ!」
「どうにかって言っても……。あの人、やさぐれてるけどいい先生だぜ? 多分」
「でも結婚を焦ってるんでしょ!?」
「だからって氷室先生が相手にするとは限らないだろ。まあちょっとあの人、見境なくて肉食系で年上も行けちゃうタイプだけど……必ずしも危険とは」
「完全に危険生物じゃないの! 毒団子とか効くの?!」
「……ホウ酸団子とか食わせるなよ?」
と、利根川の服の裾をクイクイと引っ張る胡桃。
「……ねえ利根川ちゃん」
「なに?」
「氷室先生、あっちの小さな扉に連れ込まれたけど」
「っ?! あそこ、地下のワインセラーに繋がってるのよ!」
利根川は駄目押しで俺の膝に前蹴りを入れると、扉に向かって走り出す。
その後ろ姿を見送りながら、胡桃の肩をトントン叩く。
「バス停近くにあったよな。この隙に俺達帰ろうか」
「達也、利根川ちゃんと同じクラスだよね。このまま帰ったら毒殺されない?」
「……否定はできない。つーかお前が元凶だからな?」
「だって……氷室先生と年の差あるし、対象外だと思ってたんだよ」
「あの人、顔さえ好みなら大体OKなんだよ。働いてたらラッキーってくらいのゆるゆる基準だからな」
「じゃあ、氷室先生は……働いてて料理上手でカッコよくて性格も良さそうだし」
「年上もいける韮澤先生が狙わないわけないだろ?」
なるほどなるほど、と頷いた胡桃は俺の顔を神妙な表情で見上げてきた。
「……達也、次のバス何時だっけ?」
――――――
―――
「さあ召し上がってください。この店、珍しい地野菜をつかってるんですよ」
韮澤先生はサラダを取り分けると、小皿を氷室先生の前に置く。
……利根川の殺し屋の視線に耐えながら買い物を終えた後。
流されるまま韮澤先生お勧めのカフェで昼食をとることになった。
木立に囲まれたオープンカフェは、先生のイメージとは真逆である。
「こんな店があるなんて知らなかったな。先生は随分とお詳しい」
「私、野菜が好きなんで良く来るんです。どうぞ、ここのドレッシングも美味しいんです」
……野菜好き? この人基本、バーボンとビーフジャーキーが主食だったはずだが。
「氷室先生、料理をされるなんて素敵な趣味をお持ちですね。ご両親の影響ですか?」
「むしろ兄の影響かな。昔から料理好きで、今では店を出してますよ」
「あら、どちらでお店を。近所なら是非伺いたいわ」
「地元の長野でフレンチの店を」
「まあ! 長野ご出身なんですね。私、親戚が松本に居るんです。ご両親はどちらにお住まいで?」
「おや、松本に縁があるのですか。私も友人が―――」
……氷室先生のプライベートが次々と明らかにされていく。
先生は長野市出身。兄と姉がいて、両親は兄夫婦と同居している。
本人はマンションの独り暮らしで子供は無し。
趣味は料理とアウトドア。音楽はジャズが好きで、若い頃、サックスを少しやっていた。
酒は嗜む程度でタバコは吸わない。健康診断は引っ掛かったことが無く、一族に生活習慣病の患者は少ない―――
……29歳独身、韮澤六実。見事な誘導尋問である。
利根川もテーブルの下でメモを取ってるし、この情報に免じて韮澤先生を連れてきた件は不問にしてもらえないか。
「料理って芸術だと思いますわ。それに私も和食は少し作りますけど、イタリアンは疎くて」
……韮澤先生の言う和食って、多分お茶漬けだ。二日酔いに効くお茶漬けの話を散々聞かされた覚えがある。
他に作れる料理って、チータラをオーブンで炙るくらいなはずだぞ。
「ああ、基本は同じですよ。下拵えをきっちりすれば、あと火加減は慣れですね」
パタリ、と手帳を閉じると利根川の表情が変わる。
次は私のターンとばかりに椅子を氷室先生に寄せていく。
「ねえ、先生。このスープ美味しいですね。どうやって作ってるんでしょうか」
「これは丁寧にブイヨンをとっているよね。セロリと牛スネの味が少し強めかな」
「そうなんですか。今度、料理部で一からコンソメスープを作りませんか? 一度大鍋でやってみたかったんです」
「そうだな。昼に火を入れて毛布で包んで……夕方からもう一度火を入れれば間に合うな。今度のメニュー会議で提案してご覧」
「はい!」
ニンマリと笑いながらキッシュにフォークを入れる利根川。
……その表情を見てピンときた。
今の何気ない会話には意味がある。
部活の話題で会話の主導権を取り戻しただけではない。
この会話は氷室先生の“学校の先生”としての立場を、この場にもう一度提示するのが目的だ。
彼を一人の男から、“生徒を連れた学校の先生”に引き戻し、韮澤先生とこれ以上仲が深まるのを牽制している―――
自らのチャンスを狭めつつも、確実に闖入者の息の根を止めにかかっているのだ。
利根川紅葉16才。彼氏がいたことも無いくせになかなかの策士である。
それに対する韮澤先生も伊達にアラサーをやってはいない。
優し気な表情で二人を眺めると、鮮やかに彩られた唇で笑顔を作る。
「休日も先生だなんて大変ですね。尊敬します」
「おや、韮澤先生だって同じじゃないですか」
「だといいんですけど。こうやって卒業しても慕ってくれるのは嬉しいけど、お友達みたいに思われてるかもしれません」
言ってスープをヒラリと口に運ぶ韮澤先生。
……なるほど。俺は卒業後も先生を慕っているという設定か。しかも友達気分で。
なかなかに重い設定である。
「ねえ達也、サラダの上のパリパリ美味しいね。ローソンで売ってるかな」
「フライドオニオンじゃないか? 単体で食うと胸やけするぞ。ほら、ドレッシングがこぼれてる」
この状況下でも物怖じしない胡桃はある意味救いだ。
……もしくは何も気づいていない可能性も有り得るが。
そんな空気のまま、昼食会もつつがなく(?)終了。
いつの間にか支払いを済ませていた氷室先生に、韮澤先生が財布を手に詰め寄っている。
「あら、私達の分はお支払いしますから」
「気になさらないで。素敵なお店を教えて頂いた御礼ですよ」
「却って申し訳ありません。じゃあ次は先生お勧めの店を教えて頂きたいですわ。お礼をさせてください」
容赦ない肉食アラサーのグイグイにも、氷室先生は動じない。社交辞令とも本気ともとれる笑顔で頷いて見せる。
「ええ、機会がありましたら是非」
「期待してます。連絡お待ちしてますわ」
店を出た氷室先生は利根川の荷物をさり気なく手に取った。
「じゃあ、利根川君。学校に帰ろうか」
「え、先生。いいんですか?」
「いいも何も、買い出しは学校に運ぶまでが仕事だよ。それに来月のメニューの相談もしたいしね」
「はいっ!」
ようやく利根川の顔に素直な笑顔が戻ったようだ。
……すれ違いざま俺の顔に投げかけていった表情を除いて、だが。
――――――
―――
「かなり年上だけど悪くないわ。後は相性次第だけど……まあ、それはおいおい」
交差点の信号待ち。
先生は髪留めを助手席に放り投げると、灰皿から吸いさしのタバコを取り出し火を点ける。
「最後はあっさりしてましたね。てっきりこの後二人でどこか行くのかと思ってました」
「私を何だと思ってるの?」
まとめた髪を手でかき回すように解きながら、旨そうに煙を吐き出す。
信号が青に変わると、エンジンが一気に回り身体が背もたれに押し付けられる。
「まだ初日だからね。あのタイプの男はあんまりグイグイ行くと引くのよ。でもずっとモテて来たから、ある程度は攻めないと興味を持たれない」
「ほへー そういうものなの、先生?」
何故か目を輝かせて身を乗り出す胡桃。
俺は引っ張って座席に座らせる。
「私が見て来た男はね。でも恋愛に正解なんて無いのよ。……そもそも正解してたら、ここでこんなことしてないし」
……なんという説得力。
「それにね、男には多少は追いかけさせてあげないと」
「そういうもんですかね。俺は美少女が空から降ってきたら大喜びしますよ」
「男ってのはね、目の前に転がっている獲物なんて一口齧って飽きたら捨てるのよ。でも自分で狩った獲物には独占欲が生まれるわ」
狩りつつも、相手に狩られたように見せかける……そういう高等テクということか。
「じゃあ、しばらく相手の出方を見るんですか?」
「……見えちゃったのよね。あの人、インスタに料理の写真を上げてるわ」
「インスタ? 氷室先生、若い趣味してますね」
「日記代わりに使う人もいるからね。ま、ここを足掛かりにじっくり攻めるわ」
肉食女の赤い唇を舌がゆっくりと這いまわる。
……氷室先生が狩人から逃げ切れることを祈るばかりである。
――――――
―――
「ホントに学校でいいの? 家まで送るよ」
「胡桃が図書室に忘れものして。家も近いんで、大丈夫です」
「センセー、今日はありがとうございました!」
遠ざかるワゴンRに一礼すると、俺と胡桃は大きく息を吐く。
「いやー、こんなことになるとは。利根川ちゃんには悪いことをした」
「それでも結果としては良かったと思うぜ。休日に二人で買い物とか、見られたら誤解を受けるしな。俺達が一緒なら言い訳できるし」
自分に言い聞かせるようにしながら図書室に向かっていると、駐車場にさっき見た車がいる。氷室先生の車だ。
「あれ、利根川ちゃんだ。ねえ、荷物運ぶの手伝ってあげようか」
「胡桃、ちょっと待て」
走り出そうとする胡桃の手を掴む。
遠くで良く分からないが、車の前でなにやら二人が話をしている。
と、利根川が両手に持った小さな紙袋を先生に差し出している。
「あれ……プレゼントかな?」
「そういや、あいつカフェの売店で何か買ってた気が」
買ってたのは先生へのプレゼントだったのか。
頭を下げて両手を突き出した利根川は、離れていても分かるほど緊張している。
しばらく戸惑うように立っていた先生は手を伸ばし―――
「あ! 氷室先生受け取ったよ! ひょっとしてちょっとは脈が―――」
俺は興奮する胡桃の目を後ろから塞ぐと、くるりと後ろを向かせる。
「っ?! なに? 私にもサプライズ?」
「ごめん、サプライズは特に無い。……あの二人、そっとしといてやろうぜ」
「……お、おう。そうだね」
図書室に行くのは明日に変更。
俺達はまっすぐ家に帰ることにした。
……今日の一日。正直、利根川にとっては余計なお節介だったかもしれない。
それでもこの先、俺達があいつの助けになってやれることがあるかもしれない。
甘酸っぱい思い出で済めば良し、道ならぬ恋に足を踏み入れたら―――
……俺の物思いを遮るように、胡桃が買い物袋の片側を持ってくる。
「今日の店、美味しかったね。上に乗ってた虫っぽいの、今度探してみよ」
「フライドオニオンな。だけどさっきの店、美味かったけど量が足りなかったんじゃないか? 帰って水羊羹パーティーしようぜ」
「イイね、私の杏仁豆腐も開けようか! 早く行こっ!」
「おい、引っ張るなって」
この後、食べ切れない大量の水羊羹と杏仁豆腐を前にトト子に怒られることになるのだが―――それはまた別の話である。