54 利根川水系 ~夏の魔法
「しゅてき……亡くした奥さんを一途に思い続けるなんて………」
胡桃は感極まったのか、涙目で夕暮れ空を見上げる。
家庭科室からの帰り道。胡桃はすっかり氷室先生のファンになったようだ。
「胡桃、泣いてるのか?」
「夕日が目に染みただけだしー」
俺は無言でハンカチを差し出す。
胡桃はチーンと鼻をかむ。
「はい、ありがと」
「……返すな。あげるから」
渡すのティッシュにすればよかった。
「本人にしか分からない苦労も色々あっただろうし。美談で簡単にまとめちゃだめだぞ」
「そうだけどさ。ねえ、私達ならどうなるかな。亡くした偽恋人の面影を胸に抱いて、孤独に耐えながら生きていくんだよ」
「それは普通に結婚とかしても良くね? 偽だし」
「安心して。私、ちゃんと亡くした偽彼氏に操を立てるからね?」
「……いなくなるの俺の方かよ」
利根川が熱を上げている相手を探していたら、なんだかご飯をごちそうになったわけであるが。
……やっぱり利根川のデートの相手はあの先生だよな。
年配だけど妙に色っぽいし笑顔が素敵だし、俺の心の乙女回路が反応するのも無理はない。
「でもさ。氷室先生独身なら問題ないよね? 利根川ちゃんを応援してあげよう」
「普通に問題だろ。先生と生徒だぞ?」
「えー、でも私のかあさん―――」
言いかけた胡桃は慌ててギュッと口を押える。
「え? おばさんがどうかしたのか?」
「……なんでもない。達也は何も聞かなかった」
なんか良く分からんが、怖いし聞かなかったことにしよう。
「話を戻すけど。なんかあったら先生普通にクビになるぞ」
「くびっ?! 先生ヤバいじゃん、老後とか」
「ああ。ヤバいんだ。老後とか」
50代高校教師が懲戒免職とか。中々に深刻な話だ。
漫画なら氷室先生は疲れた都会のOLと同居する役とか似合いそうだが、これは現実である。
「でも、あの二人がデートするにしてもどうすればいいのかな。止める? 利根川ちゃん、聞いてくれるかな」
「利根川、思い込み激しい系女子だしな。言えば言うほど燃え上がるかも」
とはいえ。利根川、生まれて初めての本物のデートである。
青春の甘酸っぱい思い出くらいで済むのなら、放っておきたいとこではあるが。
「……飯食っちゃたしな」
「食べちゃったね」
あの利根川のガバガバぶりである。二人の間に何かが起こればあっという間に広まるに違いない。
先生の老後と利根川の学園生活の為である。
俺と胡桃は無言で頷き合う。
……少しばかり、首を突っ込むことに決めた。
――――――
―――
翌日の昼休み。
俺はパックのコーヒー牛乳を片手、中庭の芝生に足を踏み入れる。
探し人はすぐに見つかった。
芝生の上、猫のように丸まってうたたねをしている女生徒。このような天気のいい日は、この辺りで日向ぼっこをしているのだ。
「先輩、少しいいですか?」
「……うにゃ?」
目をこすりながら伸びをするのは、自称猫系女子の図書委員2年。権藤カタバミ。
少し面倒な人ではあるが、意外と面倒見が良くていい人だ。
「どうしたどうした。デートのお誘いかにゃ?」
「もちろん違います。先輩、確か料理部でしたよね」
言いながらコーヒー牛乳を差し出すと、権藤先輩の目がキラリと光る。
「……貢がれるのは嫌いじゃないにゃあ」
「喜んでもらえて何よりです。あの、ちょっと聞きたいことが」
「なんかにゃ? 料理部に興味があるようには見えないがにゃあ」
俺は黙って先輩の隣に座る。
コーヒー牛乳をちゅるちゅる吸いながら不審げに俺を見てくる猫系女子、権藤カタバミ。
……この人が何故こんなキャラなのかといえば、実は理由がはっきりしている。
猫系女子が男にモテるという話を聞いてキャラづくりをしていたら、間違った風にキャラが固定されてしまったらしい。
そもそも猫系女子って“にゃあ”とか言わないし。
「一年の利根川、同じクラスなんですけど。料理部での様子はどんな感じかなーって」
「……ぬ? お前、利根川に気があるのか?」
「ないです。でもちょっと、あいつの周りに気になることがあって」
「うにゃ?」
「顧問の氷室先生と利根川……あの二人、どんな感じです?」
本丸に切り込んだ途端、先輩は目を細めて俺を睨み付けてくる。
「利根川の恋路……邪魔をする気かにゃ?」
ビンゴである。
利根川といい権藤先輩といい、料理部女子は口が軽すぎる。
「邪魔というか。教師と生徒ってマズいですよ。利根川なら他にも……まあ……その内……良縁があるかも……しれません」
すっかり歯切れの悪くなった俺の様子を見てか。
先輩は大きくため息をついて芝生に大の字で寝転がる。
「市ヶ谷よ。料理上手な女子って……男子から見るとどう思うにゃ?」
「えー、そうですね。まあ、家庭的でよろしいかと。悪い印象はありません」
「じゃあ、チア部に入っててムチムチな女子は……どう思うにゃ?」
太腿がムチムチなチアリーダー……だと?
そんなの……好きに決まってるじゃないか。
俺は思わず先輩に詰め寄る。
「先輩にそんな知り合いがいるんですか!? 写真あります? 次の発表会はいつですか? もちろん髪型はポニテですよね?」
「そんなに近寄るにゃ!」
先輩は足の裏でグイグイと俺を遠ざける。
「そんな女子はいない! たとえ話だにゃ!」
「え……いないんですか……そうですか……」
「……分かったか。今のお前の反応が一般的男子高校生の正直な評価にゃよ」
先輩は飲み終えた紙パックをぐしゃりと握り潰す。
「料理上手な女子高生なんてたいしてモテないにゃ。歴代、料理部女子の負けっぷりと言ったら酷いもんだにゃ」
「そんなに? そんなにモテないんですか?」
悲痛な表情でこくりと頷く猫系先輩。
「そのせいで我ら料理部は、負けヒロイン製造工房と言う二つ名を欲しいままにしているのだにゃ」
「欲しいままって……欲しいんですか」
「いらん。激しくいらんにゃ」
先輩は寝転がったまま、両の拳を高く澄んだ青空に突き上げる。
「負けヒロインからの脱却……我ら料理部15年間の悲願にゃ! 例えそれが禁断の恋であってもだにゃ!」
「15年? 意外と若い部活なんですね」
「OGの最後の既婚者が観測されてから15年……だにゃ」
「先輩。にゃーとか言ってる場合じゃないです。今から婚活始めましょう」
ここまでくると呪いだ。
一般的にはモテる記号の料理上手が、どういうわけだか彼女達の婚期を送らせている。
「にゃあは……ダメなの? モテない?」
「ある層の需要は満たしますが、それ以外の需要を根こそぎ捨ててます」
「マジか……。セブンティーンに騙されたぜよ」
「そのキャラもどうかと思います」
それにセブンティーンには、語尾に“にゃあ”を付けろとか書いてなかったと思うが。
「良く考えてください。恋が実っても表沙汰になったら先生は懲戒免職、料理部は廃部ですよ。利根川だって学校に居づらくなるし」
「廃部っ?!」
ようやく事の重大さに気付いたか。
先輩は芝生まみれの身体を起こす。
「でもまだ利根川の一方的なアプローチの段階じゃか」
「今度二人でデート行くと聞きましたが」
「部活の買い出しだから、やましいことじゃないぜよ」
幸い先生にその気はないようだ。とはいえ、独り身の中年男性が女子高生に迫られるのだ。間違いが起こらないとも限らない。
……それはそうとこの先輩、本当に幕末キャラで行くつもりか。
「買い出しっていつ行くんですか?」
「それはぁ……」
「先輩、お願いします! 廃部がかかってるんですよ?」
目を瞑って考え込んでいた権藤先輩は、諦めたのかボソボソと話し出す。
「……土曜の午前10時、学校で待ち合わせ。部の皆は当日ドタキャンして、二人きりにするって寸法じゃけぇね」
「買い出しに行く場所は?」
「ヤマナカ卸団地の一帯で済ませるけえ―――」
「そこで張ってれば見付けられる……そういうことですね」
なんか途中から広島弁になってる気が。
……きっとこうしたブレを経ながら、キャラが固まっていくのだろう。ラーメン屋の成長を見守る常連客の気分である。
「ありがとうございます、先輩」
「じゃけぇ、利根川の気持ちはぶち本気だし。あんま変なことはせんといてな」
「二人が間違った方向に進まないように見守るだけです。悪いようにはしませんよ」
俺は立ち上がると、服についた芝生を払う。
万が一に備えて、ちょっとばかりお節介をするだけだ。
そしてこの先輩の間違ったキャラづくりは……静かに見守ろうと思う。
――――――
―――
土曜日の朝9時半。
俺は学校近くの路上で胡桃と並んで待ちぼうけている。
「現場までの交通手段は任せてたけど。どうやって現地に行くんだ?」
「ふふ……強力な助っ人がいるんだよ。刮目して待つがいい」
胡桃は野球帽の鍔をクイッと上げると、悪戯っぽく俺を見上げる。
胡桃の格好はキャップにパーカー、ダボダボパンツ。ストリート系という奴か。
これで変装のつもりらしい。
「助っ人か。車を出してくれるってことは、胡桃の父さんか?」
「それなら家から出発するよ。ほら、車が来た!」
胡桃が手を振る先。
交差点を黄色の軽ワゴンが、タイヤから白い煙を上げながら曲がってくる。
……あの車、見覚えがあるぞ。
「……え。胡桃、なんであの人を連れてきた?」
「だって、大人相手の恋愛に詳しいのって、委員長除けばこの人しか知らないし」
ダッシュボードに白いモワモワを乗せたワゴンRは、ドリフト気味に俺達の前に停まる。
降りてきた女性は、摘まんだ吸いさしの煙草に火を点け直す。
「センセー、ご無沙汰してます!」
「おう菓子谷。また縮んだか?」
胡桃と女性は挨拶代わりに拳をコツンと合わせる。
彼女の名は韮澤六実。中学図書委員時代の恩師兼、やさぐれ司書教諭である。
「ご無沙汰してます。えっと……何故先生がここに?」
「人の幸せは私の不幸せ。教師と生徒の恋愛絶対阻止連盟、第7代会長がこの私……と聞けば、何故来たか分かるだろ?」
鼻から旨そうに煙を吐く先生に向かって、俺はやけくそ気味の笑顔で返す。
「全然分かりませんが良く分かりました。お手柔らかにお願いしますね」
「任せとけ。一切合財、私が埒を開けてやる」
……韮澤先生、満面の笑顔である。
嗚呼、これはもう誰も幸せになる予感がしない。
もの言いたげな俺の視線をどう捉えたのか。胡桃がにぱりと満面の笑顔で返してくる。
「ね? 先生が来てくれたら百人力でしょ?」
なるほどなるほど。胡桃は韮澤先生を頼りにしているようだ。
だが、俺が言いたいのはただ一つ。
……だから胡桃。なんでこの人呼んできた?