53 利根川水系 ~春の訪れ
平和だ……
やはり図書室はこうでなくてはいけない。
今日も今日とて客の少ない図書室のカウンター。
暇に任せて野鳥図鑑をつらつらと眺めていると、見知った顔が現れた。
「あら、独り寂しくなに読んでるのよ」
クラスメートの利根川だ。こいつが図書室に現れるのは珍しい。
俺は本を閉じて表紙を見せる。
「あんた鳥なんかに興味あるんだ」
「……なあ、白鷺って種類の鳥はいないって知ってたか?」
「? じゃああの鳥、なんなのよ」
「さあ。白鷺というのは白いサギ類の総称なんだ。つまりこれまで俺達が見て来たのは白鷺という概念に過ぎない。一歩考えを進めれば、そんな鳥はいなかったという結論になる」
「いるわよ。おじいちゃんとこの田んぼが荒らされて大変だったんだから。一歩考えを戻して貸し出し手続きお願い」
俺の戯言を軽くあしらうと、利根川は一冊の本を差し出した。
何気なく受け取った俺は、タイトルに思わず目を奪われる。
『男と女、大人の恋愛術』……?
利根川の奴、なんでこんなもの借りてんだ。
「なによ。私がこんな本、読むのおかしいっての?」
「そんなこと言ってないって。図書室にこんな本あったっけって思って」
……多分、某図書委員長の私物だ。
こんなことをする理由は一つ。この本を借りた生徒のリストを手に入れるために違いない。
俺は利根川の身を案じつつ、貸し出しカードにスタンプを押す。
「返却は2週間後な。予約が入って無かったら延長も出来るから」
「ありがと。ちょっと市ヶ谷―――」
本を仕舞いながら、利根川が辺りを見回す。
「こんな本借りたって周りに言わないでよ」
「言わないよ。図書委員には守秘義務があるから安心しろ」
俺は再び図鑑を開く。
さて、猛禽類の見分け方を覚える作業に戻るとするか。
「ハヤブサは鷹の仲間では無く、むしろインコやズズメに近い……だと……?」
思いがけない一節に動揺していると、利根川がカウンターの前をなんかソワソワと行き来している。
……チラチラこっち見るな。
「どうした?」
「言わないでとは言ったけど。何も聞かないでくれとは言って無いんだけど」
どうやら話を聞いて欲しいらしい。
やれやれ、これもクラスメートとしての人付き合いの一環だ。
「こんな本借りるってことは、彼氏でも出来たのか?」
「えー、やっぱ気になる? まあ、市ヶ谷がどうしても教えて欲しいのなら教えてあげないことも無いわ」
「あー、うん……どうしても……」
……ウザいぞこいつ。
利根川は髪の先をクリクリねじりながら、カウンターに肘をつく。
「ちょっとね、今度デートに行くことになって。まあ、男心の予習? みたいな」
「え、まじで? 良かったじゃん。相手はこの学校の奴?」
「まあねー。今まで作ったデートプランがあんまり役に立たないからさ。別の切り口を考えようかと」
「デートプランが役に立たない?」
……はて。ちょっと変わった趣味を持ってるとか、そんな相手なのだろうか。
「ドライブデートになるのかな。だから、これまで計画したことなくてさ」
「へー、ドライブデート。相手の人、車運転するんだ」
……ん? いや待て。相手はこの学校の人って言ってたよな……?
あ、そういや3年生なら免許取れるよな。就職のために夏休みに取っている人もいたはずだ。
「彼、運転が好きなんだって。良く分からないけどゴールド免許って言ってたわ」
「へえ、ゴールド免許……」
こっそりスマホで調べると「5年間無事故無違反」の人が取れる免許だそうだ。
学校の人……免許取ってから5年以上……
……俺は額ににじむ汗をぬぐう。
「あ、あれだよな。みんなで遊びに行くというか引率と言うか……そんな感じなんだろ?」
利根川は呆れ顔で俺を見下ろす。
「そんなのデートなんて言わないでしょ。二人っきりで出かけるに決まってるじゃない」
……こないだは俺と胡桃についてきたのをデート扱いしてたくせに。
「ま、上手いこと行ったらノロケの一つも聞かせてあげる。それじゃね」
「お、おう……」
上機嫌の利根川はひらひらと手を振りながら図書室から出ていく。
……まずい。俺は何を聞いてしまったのか。
思わず頭を抱えていると、カウンターの下には小さな人影が。
「……利根川ちゃんが……身も心も……遠くに行ってしまう……」
そこにいたのは他でもない。
体育座りで『世界の干菓子大全』を読んでいた胡桃が、物陰でガクブルと震えている。
「胡桃、そんなとこにいたのか」
「う、うん、利根川ちゃんが来るちょっと前から」
ゴソゴソと這い出してきた胡桃が俺の膝に座ろうとするので、持ち上げて隣の椅子に据え付ける。
「……達也、さっきの話なんかヤバくない?」
「ヤ、ヤバいって何がだよ。利根川がただデ、デデ、デートするだけだって」
なんか俺、声の動揺が隠しきれてない。
「だって相手はこの学校にいる男の人でしょ? ドライブデート出来るってことは―――」
「だ、大丈夫だって。年上の男の人に憧れるとか、少女漫画でよくあるパターンじゃん? 胡桃だってそんなことあっただろ?」
「えー、年上?」
胡桃は大きな瞳をパチクリさせる。
「そういうの分かんないかなー。私、達也よりお姉さんだし」
「年上ったって二カ月じゃん。つーか俺の年は関係ないだろ」
「関係ありありだぞー。だから達也は浮気者なんだよ」
「こら、危ないから膝に頭乗せるなって」
胡桃の頭を持ち上げながら、俺は思わず首を傾げる。
……何の話だったっけ。
「えっと……とにかく利根川のデートの相手だ。うちの担任は女の人だし、一体誰だ?」
「じゃあ、部活とか委員会の先生は?」
「利根川の奴、確か料理部だぞ。家庭科の先生は女の人だし……」
ではどこで男の先生と仲良くなったのか。
先生に質問に行くような勉強熱心なキャラでもないし……
考え込む俺の服をクイクイと引っ張る胡桃。
「なんか心当たりあるのか?」
「確か料理部の顧問……男の先生だよ?」
――――――
―――
家庭科室の扉の前、俺と胡桃は耳を澄ます。
今日は料理部の活動は無いようだが、中から誰かの気配がする。
「誰か何かしてるな。話し声はしないから一人か……?」
「ねえ、達也。窓から覗くから持ち上げて」
「覗いたりしたらバレるって。おい、俺によじ登るなって―――」
部屋の前でワチャワチャしてたら気付かれないはずもなく。扉がガラリと開けられる。
不思議そうな顔をのぞかせたのは、背の高い男性教師だ。
「……おや。可愛らしいお客さんだね。見学かい?」
「え? あの、は、はい!」
俺が勢いよく立ち上がると、胡桃が廊下にコロリと転がる。
「悪いが今日は料理部はお休みでね。明日の準備中だから良ければ見ていきなさい」
「ありがとうございます。ほら胡桃、ちゃんとオッキして」
後について部屋に入りながら、疑惑の男性教諭をさりげなく観察する。
細身の身体に白いシャツ。清潔感のある男性教諭だ。
後ろに撫でつけた髪は―――綺麗なロマンスグレー。
見た感じ、年齢は50を過ぎているだろう。下手すれば利根川の親より年上なのではなかろうか。
均整の取れた身体には、無駄な肉が無いのが服の上からも見て取れる。
そして何より、岩城滉一を彷彿とさせる色男である。
「自己紹介がまだだったね。僕は料理部顧問の氷室だ。君たちは?」
「あ、はい、俺は1年3組の市ヶ谷です。彼女が―――」
「1組の菓子谷です!」
ぴょこりと頭を下げる胡桃。
「週に2回、ここで料理部の活動をしている。明日はパンを焼く予定だから、生地の様子を見に来たんだけどね。おかげで思わぬお客さんだ」
氷室先生は柔らかな笑顔を浮かべると、カーキ色のエプロンを身に着ける。
「折角だから余ってる材料で何か作ろうか。二人も食べていくといい」
「え? いいんですか。今日部活は休みだって」
「正直に言えば僕の早めの夕飯だ。二人ともトマトは大丈夫かい?」
「はい、大好きです!」
目をキラキラさせて先生のとこに駆け寄る胡桃。
こいつ、早くも篭絡されやがった。
「簡単にブルスケッタと……ズッキーニをラタトゥイユ風にさっと炒めようか。二人も手伝ってもらっていいかな」
「ブルケ……とラタトー……? そんなのここで作れるんですか」
「聞き慣れない料理でも、その国では普通に食べられてる料理だ。気負わず作れば意外と簡単だよ」
氷室先生は冷蔵庫から取り出した材料を並べだす。
ズッキーニにトマト、エリンギ、パプリカに玉ねぎ、ベーコン。
「君は野菜を適当な大きさに。そちらのお嬢さんはパンを1cmくらいに切って、バターを塗ってくれるかな」
ズッキーニを受け取りつつ、先生の左手の薬指に銀色の指輪が光っているのに気付く。
……薬指に……指輪…………
……よし、総括は後だ。怖いし。
俺は目の前の食材に集中する。
「二人とも中々に慣れてるね。料理をするのかい?」
「俺、料理当番で夕飯作ったりしてるので。少しだけ」
「私、達也の内縁の幼馴染ですから。少しだけ」
なにその複雑な設定。そしてなぜドヤ顔。
氷室先生は手早くトマトの下拵えを済ませると、フライパンにやたら高い位置からオリーブオイルを注ぐ。
……なんかひと昔前にテレビでこんな光景を見た気がする。
「先生、バター全部塗ったよ。次は何やったらいい?」
「じゃあベランダのバジルを何枚か採ってきてくれるかな、素敵なお嬢さん」
「はい、先生!」
お嬢さん扱いされた胡桃はニコニコ顔でベランダに走っていく。
……ふと訪れた先生との二人きりの時間。さて、どうやって切り出すか。
「そういえば先生、数学のご担当ですよね」
「おや、知ってたのかい」
氷室先生は除けたトマトの種を使い、フライパンでソースを作っている。
手際の良さに感心しながら、慎重に表情をうかがう。
「ええ、教材室で先生の作った資料を貰ったことがあります。どうして料理部の顧問を?」
「独り身が長くてね。料理が趣味なんだ。もっとも仕事の合間に出来る趣味と言ったらこれくらいだけどね」
先生は反対に俺を見返してくる。
「反対に質問だ。二人はどうして料理部に興味を?」
「えっと……先生、1年の利根川を知ってます?」
「もちろん、うちの部員だからね。彼女の料理の腕は流石だよ。僕よりずっと上手だ」
言って、ヘラでフライパンの中身をざっと混ぜる。
「彼女の紹介かい?」
「まあ、そんなとこです。話を聞いて興味を持って」
俺は切った材料をボウルに入れて並べる。
この先生、利根川の名前を聞いても特に変わった様子は見せなかった。
本当に何も無いのか、それとも―――
「先生、これでいい? 虫喰って無いのを採ってきたよ!」
お使い帰りの胡桃がバジルの葉っぱを差し出した。
先生は納得したように大きく頷く。
「いいね。刻んで、そこのトマトと混ぜてくれるかな」
「はーい」
胡桃がいると何を言い出すか分からない。俺は素直に作業に戻る。
後は言われるがままに皿を出したりしてる内に完成だ。
「さあ、食べようか。二人とも座って」
勧められるまま俺と胡桃は先生の向かいに並んで座る。
僅か20分で完成したのは、薄いバゲットのトーストにトマトを刻んだのを乗せたやつと、ズッキーニやらパプリカをオリーブオイルで炒めて、さっとトマトソースを絡めた一皿だ。
いつの間にかスープまで出来てるし、添えられた小皿のピクルスもひょっとしてお手製か。
「いただきまーす!」
胡桃は明るい声でそう言うと、トマトを乗せたパンに齧りつく。
「うまっ! 達也も食べてごらんよ」
「……美味い」
「でしょ? 私の採ってきたバジルが効いてるよね!」
「光栄だね。さあ、冷めない内に召し上がれ」
ひらりひらりとスープを飲む先生の姿は、まるで映画の一場面だ。
上品で料理上手で優しくて、俳優並みの見た目と身のこなし。
これは世間知らずの利根川が熱を上げるのも仕方ない。
……いやしかし。
親子以上の年の差の上、薬指に指輪までしているのだ。
友人の一人として、ここはバシッと言わないと。
「先生、指輪してますけど……単身赴任中ですか?」
「……単身赴任? どうしてそう思ったんだい」
「さっき独り身って言ってたから、なんでかなーって」
バシッと……というか、どうにかこうにか聞いた感じだ。
俺の予想に反し、氷室先生はスプーンを置くと寂し気に微笑んだ。
「随分前に妻を亡くしてね。それからずっと独り身なんだ」