51 生涯契約
胡桃の好みは片面焼きの半熟緩め。
目玉焼きの一つを皿に移すと、油を引き直して残る一つをひっくり返す。
トト子の好みは両面焼きの固焼き。緩んだ黄身は許さないのがトト子のルールだ。
そして俺の食べる目玉焼きは―――『その日、失敗した奴』だ。
今朝は黄身が潰れた両面焼きの黄身だけ半熟。
白い皿の上には焼いた謎ハムと申し訳程度のキャベツの千切り。
焼き上がった八つ切りトーストを半分に切ると、その横に並べる。
「……上々だな」
朝食の準備は完了。
時計の針は丁度7時を指している。
二人の小娘はリビングに並んだ布団で夢の中。
良く寝ているところ悪いが、そろそろ二人を起こすか。
「おーい、朝飯出来たぞ。そろそろ起きろ―――」
見れば胡桃は自分の布団にいない。
ゴロゴロと転がり、トト子の布団に侵入しているようだ。
枕代わりに抱かれた胡桃は夢うつつ、トト子の胸にグリグリと顔を押し付けている。
トト子も寝相が悪いのか、パジャマがめくれて白い腹が丸見えだ。
……やれやれ、だらしのない二人だ。
それはそうと、カメラの設定は美肌モードとかいうのにすればいいのかな……?
スマホと格闘していると、画面の中のトト子がいつの間にか俺を見つめ返している。
「……お兄。なにやってる」
俺は爽やかにほほ笑むと、何事も無かったかのようにスマホを隠す。
「おはよう、トト子。朝飯出来てるぞ?」
――――――
―――
3人揃っての朝食タイム。
トト子のジト目から目を逸らした先には、胡桃の差し出した箸がある。
「はい、あーん」
「自分で食べれるって。はい、膝に乗らないし椅子もくっつけない。胡桃、ちゃんと自分のご飯を食べる」
「達也のご飯は私のだもん。それに私のご飯は達也のだよ」
……胡桃の奴、昨日にも増して距離が近い。
完全にしくじった。昨晩ちょっと、不用意な言葉を投げ過ぎた。
これはあれだ。2、3年に一度出現する、胡桃の『べたべたさんモード』だ。
胡桃がしつこく差し出す箸から、仕方なくハムを食べる。
「トト子が見てるから、この一回で終わりな」
「照れなくたっていいよ。なにしろ私と達也の仲だもんねー」
「だからあれは……。ほら、早く食わないと遅れるぞ」
多分、昨日までの不安感から一気に解放された反動が原因だろう。
こうなると当分、ベッタベタの胡桃の相手をしなくては―――
溜息一つ、俺はトト子に手を差し出す。
「トト子、塩を取ってくれ―――って、トト子?」
なんだかトト子の様子がおかしい。
カチカチカチ。
小刻みに震えるトト子の箸が皿と音を立てている。
「どうしたトト子、青い顔して」
「お、お兄……クルちゃん……まさか昨晩……何かあったのか……?」
トト子はギギギとぎこちなく首を回し、俺と胡桃を交互に見つめる。
「なっ……何もないって。だから胡桃、こんなにくっついてたら飯食えないって」
「でも達也、ずっと私の側にいてくれるって言ったしー」
「いや、だからそういう意味じゃ―――」
「お姫様抱っこでお布団まで運んでくれたじゃん」
ポトリとトト子の手から箸が滑り落ちる。
「ク、クルちゃんっ!? お兄に何もされてないよね!?」
「トト子、俺達はそんなんじゃ―――」
「お兄は黙ってて!」
トト子、怖い。
殺気立つトト子に向かって、胡桃ははにかむような笑顔を向ける。
「トトちゃん。そろそろクル姉って呼んでも……いいんだよ?」
その言葉にゆっくりと、トト子が椅子から崩れ落ちた。
――――――
―――
ソファに寝かせたトト子の顔を覗き込む。
ようやく目の焦点が合い始めたトト子は、ぼんやりと俺の顔を見つめ返す。
「トト子、名前言えるか? 自分の名前だぞ」
「……トト子」
「よし、じゃあこの指は何本だ? 3本じゃ無かったらすぐ病院行くからな」
「3本……そしてお兄……顔近いぞ……」
よし、意識ははっきりしているようだ。
俺の顔をグイグイ押すのは、ちょっとばかり混乱しているせいに違いない。
「達也、水枕作ってきた!」
「よし、頭の下にこれを敷け」
「いや、病人じゃないから大丈夫……。ちょっと驚いただけだ」
トト子は起き上がると、水枕を額に当てる。
「神経反射性失神ってやつだ。少し休めば大丈夫」
「神経……反……なに?」
「あれだ。貴族の女性が婚約破棄とか突き付けられて、フラッと倒れる奴だ」
良くドラマや映画で見るあれか。
ということは―――
「つまりトト子はお兄ちゃんが胡桃にとられたと勘違いして、気を失うほどのショックを受けたということか。可愛い奴め」
「……本気で言ってるなら病院に付き添ってやる。そうでないなら速やかに死ね」
トト子は頭をかきながら立ち上がる。
俺と胡桃の顔を油断なくジト目で睨む。
「本当だな……本当に昨夜二人、何にもなかったんだな?」
「当り前だろ。昨日は少し話をしただけだ。な、胡桃」
「うん、昨晩の達也はとても優しかったよね」
「……そういうとこだぞ、胡桃」
こいつ、ひょっとしてわざとやってるのか。
いや、胡桃にそんな狡猾さは無いはずだが……
「とにかくだ。実際に付き合ってもいないのに、俺達が変なことする訳ないだろ。トト子の考えすぎだ」
「……今回だけは信じてやる」
制服の上着を羽織ると、トト子は黙って身支度を始める。
「学校行くのか? 今日は休んだらどうだ」
「今日は美術部で人体デッサンがあるんだ。休むわけにはいかない」
美術部で……人体デッサン?
……思わず色んな記憶が去来する。
「……相手は弱みを掴んだ男子生徒とかじゃないだろうな」
「弱み……?」
トト子は大人びた表情をすると、舌の先で唇をゆっくりと湿らせた。
「お兄、安心しろ。―――ちゃんと適切な手続きを踏んでいる」
――――――
―――
足取り軽く出かけるトト子を見送ると、俺もカバンを肩にかける。
「さて……胡桃は先に出てくれ。少し遅れて俺も行くから」
俺の言葉を聞いていないのか。
胡桃は鼻歌交じりに腕を絡めて来る。
「せっかくだし一緒に行こうよ」
「ほら、一緒に家を出るのを見られたら誤解されるぜ」
「いーじゃん、私達の仲だし」
ニンマリ笑う胡桃。
あーもう、昨晩は夜中テンションで変なことを言ってしまった。
玄関の鍵を閉めながら絡んだ腕を引き抜こうとするが、反対にギュッとしがみ付いてくる。
「仲ったって、今までと変わらないだろ。ほら、腕を放してくれって」
「えー、昨晩お布団に運んでくれたじゃん。今朝も寝顔見られちゃったし―」
「あのな、そういうの聞かれたら変な風に思われる―――」
―――殺気。
背後から突如感じたプレッシャーに汗が噴き出す。
ゆっくりと振り返ると、そこには背広姿の男性が立っている。
「あ、父さん。おはよう!」
「胡桃、母さんに体操服を渡してくれと頼まれてね」
……プレッシャーの主は胡桃父だ。
胡桃に体操服を渡すと、俺の肩に力強い手を置いた。
「達也君、昨日は胡桃がお世話になったね」
「い、いえ、お世話というほどのことは……」
「あのね、昨日は達也と久しぶりに布団並べて寝たんだよ」
「ほう、布団を並べて……それは楽しそうだね」
笑顔と裏腹、胡桃父の手の力が増していく。
「トト子と3人で、だよな!? 胡桃、正確に言わないといけないぞ!」
「言わなかったっけ」
俺の腕にぶら下がるようにして、胡桃が無邪気な笑顔を向けて来る。
胡桃父も負けじと笑顔で更に力をこめる。
「……達也君。どうだろう、今度二人でじっくり話でもしようか」
「え……は、はあ。それはもう喜んで」
「一緒に釣りなんてどうだろう。最近、磯釣りを始めてね。船で瀬渡しをしてもらうんだ」
「船で……ですか」
瀬渡しってあれか。
小島や陸路では行けない岩場の釣り場に、船で送り迎えをしてくれる奴だ。
「……ああ。他に誰もいない岩場で、ゆっくりと話をしようじゃないか」
「あ、あの……機会があったら是非……」
「楽しみにしてるよ、達也君」
「えー、父さん。私も行きたい!」
このやり取りに、胡桃が口を尖らせて突っかかってきた。
これこそ渡りに船という奴だ。
「じゃあ胡桃も一緒に―――」
胡桃父はきっぱりと首を振る。
「胡桃、お前はまた今度……な?」
「ぶー、父さんと達也だけずるい。じゃあ、しょうがないなー」
ぶーたれながらも引く胡桃。
胡桃よ、もうちょっとわがまま言ってもいいんだぜ……?
胡桃父はようやく俺の肩から手を放すと、ハスキーボイスを俺の耳元に残して立ち去った。
「達也君。胡桃のこと……くれぐれもよろしく頼むね」